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ペロポネソス戦争と感染症とソクラテス

2020-11-17 22:51:45 | 哲学
注意:単なるメモ書きに近く、きちんと、原典の確認をしていない。
幾つかの記述はウィリアム・H. マクニール「疫病と世界史」を参照している。

 古来、アフリカ平原部ではツェツェ蝿が媒介する「眠り病」が蔓延しており、野生動物を人から護る役割を果たしてきた。サバンナの動物が狩り尽くされなかったのは、感染症が常に蔓延している状態が人類を抑圧する状態においていたからだと言える。(麻雀放浪記の原作者・阿佐田哲也氏は眠り病だった)
 マラリアの感染抑制と人口の稠密度には一定の関係があると見られ。灌漑や治水や上水道にる『水の管理』がマラリアを媒介とする蚊の発生を防いだ。
 蚊は一般的に人よりも家畜の血を好む。家畜はマラリアに感染しないので、家畜と同居状態だったこともマラリア抑制に寄与したと見られている。

ペロポネソス戦争の開始翌年の前430年にアテネに疫病の大流行が起こった。
 18世紀までは主たる感染症は腺ペストであったため『ペスト』と推測されたが、トゥキュディデスによる詳述された症状からみて天然痘ではないかと言われているが、現在存在する感染症のどれとも一致しない。強いて言えば「エボラ出血熱」に近いと言える。
 だが、ヒポクラテスやその後継者達の書物には天然痘や「はしか」の症状を思われる記述はないが、マラリアを想起させる慢性的な熱病患者の症例は記述されている。
 アテネを襲った「謎の悪疫」はエチオピア由来とされ、地中海海路の発達で容易に伝搬するようになっていた。陸路の場合、疾病に倒れれば「その場に放棄」されていたが、船の場合は行き先まで運ばれてしまい、海運は感染症を容易に伝搬させたのである。

○ペロポネソス戦争
 ギリシア民主政の指導者であったペリクレスはスパルタとの戦争にそなえてアテネ人をアテネ城内に移住させていたので市内の人口は過密になっていた。
 場外にスパルタ軍が押し寄せる中で、アテネ城内では悪疫が蔓延した。真夏の炎天下、疫病は蔓延し、神殿と言わず、路上と言わず死体が転がっているという惨状となった。アテナイ陸軍兵士の4分の1が斃死したという。
 広場に集まって酒を飲んだり議論する風習が感染の拡大を招いたとも推測されている。
 トゥキュディデス『歴史』の二巻には、医師たちは患者の治療に当たり、懸命に病因究明に努めたが、医師たちは死に、希望の喪失、アテネ城内の無法状態、神々への畏敬の無力化、運命観・倫理観の変化などが綴られている。

 当時、医師たちは懸命に病因究明に努めたが、結果として次々と疫病の犠牲になってしまった。その感染力の強さは基礎疾患の有無に左右されなかった。アテナイの市民は完全に恐慌状態に陥いった。神殿に押し寄せて祈りを捧げる者も多数出たが、無意味だと分かると、誰も神殿に寄り付かなくなった。
 アテナイの市民の間では、その日限りの享楽的な生活を送る人が増加し、法律を犯したとしても、刑を受けるまでどうせ生きられぬのだから、その前に人生を楽しんで何が悪いのかという思いを誰もが抱くようになっていた。

 ペリクレスは大演説でアテネ市民の決起を促したが、ペリクレス自身も二人の子供をペストで亡くし、ついに自らも開戦2年目に疫病に倒れて亡くなった。
 ペリクレスが死んでアテナイは無秩序に戦争拡大に向かった。

○ソクラテスの生涯
 後に哲学者として記憶されるソクラテス(前470年-前399年)は石工の父と助産師の母のもと、アテネ近郊に生まれた。若い頃に数学や自然哲学を学び、ペロポネソス戦争に重装歩兵として何度も出陣している。哲学者として著名となった後にも戦時に従軍した。
 
 ソクラテスの言葉を書き残した重要人物として、「プラトン」と「クセノフォン」が挙げられる。
 ペロポネソス戦争によって法や国制への尊敬・信頼といったものが崩れていいったが、プラトンはソクラテスに学び、政治論を展開するに至った。

クセノフォンは、前427年頃~前355年頃の古代ギリシアの軍人、哲学者、著述家。師であるソクラテスの言行を残した『ソクラテスの思い出』やトゥキディデス『歴史』の後を受けた『ギリシア史』を著した。『ギリシア史』の完成によりペロポネソス戦争の記録が完成した。

 ソクラテスは40歳前後に起きたペロポネソス戦争(431~404年)から、時勢は変わり、ギリシア人の間における世界大戦とも見なされるべき、大戦争が断続しながら、約30年に渡って戦われ、人々の生活に暗い蔭を落としたのである。
 そして、この憂鬱な大戦争は、ソクラテスの祖国の敗北をもって終わった。アテナイには、占領軍の武力を背景とする、いわゆる三十人の独裁政権が樹立されるなど、戦争の終結は、必ずしも平和を意味しなかった。このような終戦の混乱のうちに、ソクラテスに死刑判決が下り、ソクラテスは脱獄も容易であったにも関わらず、自ら毒杯を飲み干した。
 ソクラテスの死刑判決についてはソクラテスの弟子とみなされたペリクレスが指揮したペロポネソス戦争の敗北責任が挙げられる。
 また、ソクラテスは当時の国教であったオリュンポス十二神に対して、一神教者とみなされた。実質的には不可知論者であっとされる。
 アテナイにはソフィストVS哲学者の構図もあった。アテナイは討論を通じて徹底的に真実を追い求める新興勢力であった哲学そのもの対して「死を迫った」のである。
 ソクラテスの最後については詳述された文献が残っている。私見ではソクラテスはペロポネソス戦争に従軍した武人として、また、真理の探求や不条理との闘争を行った哲学者として、本来避けられたはずの「死刑判決による」死を避けず主体的に人生の幕引きを図ったと考える。

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