はあどぼいるど・えっぐ

世の事どもをはあどぼいるどに綴る日記

北の零年

2007-01-24 00:58:45 | 映画
「北の零年」監督:行定勲

1870年。庚午事変もしくは稲田騒動と呼ばれる武力襲撃事件により、洲本稲田家は北海道静内及び色丹島の移住開拓を命ぜられた。開拓すれば開拓した分だけ稲田家の領土になるとの約束を信じて何百名もの家臣郎党が海を渡った。未開拓の野生の原野を前にして、誰もが体のよい厄介払いであることを悟ったが、希望という言葉でそれを押し殺した。
船の難破。過酷な自然。多くの同胞を失いながらも小松原(渡辺謙)の指揮下にひとつにまとまりながら、最初の冬を乗り切った一同。春になり、ようやく稲田家の当主が到着するが、持って来たのは良い知らせではなかった。当主は廃藩置県により明治新政府との約束が反故にされたことを淡々と告げると、そそくさと洲本に帰っていった。
二重の裏切りに合い、絶望した一同を救ったのはやはり小松原だった。彼はこの地に自分達の国を作ることを呼びかけると、髻を切った。同胞の血と汗と命が染み込んだ大地に生きることを誓った。
北海道の自然は厳しい。自分達が故郷でやってきたようなやり方では稲が育たないことを知ると、小松原は札幌にあるという農園へと向かった。厳寒の大地でも育つ稲を求めて単身旅立った。
小松原が消息を絶ちしばらくすると、食料危機が訪れた。扶持米を横取りした行商人倉蔵(香川照之)が窮状に付け込み、村の中で勢力を誇った。
小松原の妻志乃(吉永小百合)は、手のひらを返したように冷たく当たってくる村人の仕打ちに耐えながら、娘の多恵(大後寿々花)と共に小松原の帰りを待った。それは長く過酷な日々だった……。

正直いって出来の良い映画ではない。北海道の厳しい寒さや過酷な自然がちいとも伝わってこないし、主役である吉永小百合の出番が少なすぎて、序盤がもたつく。奇妙な演出も目に付く(「ええじゃないか」とか)。
もうちょっと視点を絞ったほうがいいだろうとか。西部開拓じゃなくアメリカ開拓を想定した舞台設定にすればいいだろうとか。色々改善できるポイントはあるのだけど、ひとつだけ変えてはいけないものがある。それはテーマ。
この映画のテーマは裏切りと矜持だ。武を捨て農をとった稲田家の人々が、北海道の自然と維新によって激変した力関係に翻弄される中盤。ひたすらに夫の帰りを信じ待ち続ける志乃のいじましい姿と、その志乃に残酷な現実を見せ付ける後半において、それははっきりと明示される。再三に渡る裏切り。身分の逆転によるプライドの崩壊。人間という浅ましい存在への絶望と諦観。恐ろしいほどの冷徹さで、行定勲はそれを描く。
志乃の戦いはそういう戦いだった。北海道の原野の中で、無力な人間のひとりとして、次々と訪れる現実に打ちのめされながらもなお、雄々しく生き抜くこと。誇りは、それによってのみ保たれる。