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広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

校歌の作者

2013-04-11 22:37:09 | 秋田のいろいろ
ほとんどの学校で入学式はおおむね終わっただろうか。
(大学や専門学校以上は別として)入学して最初にやることの1つに「校歌を覚える」ことがある。ちょうど今、担任や音楽の先生から、あるいは応援団から指導を受けている頃かもしれない。

卒業してみれば、校歌も懐かしい思い出の1つ。
2月17日にテレビ朝日系で放送された「題名のない音楽会(2302回)」で校歌が取り上げられたこともあり、調べてみた。
※僕は音楽的な知識はなく、作詞についても同様なので、素人の見解です。また、作者や内容について批評するつもりはありません。


この記事では、作者について。みなさんの母校の校歌を作ったのは誰か、それがどんな人だったのか、ご存知ですか?
校歌の作詞作曲者の立場(その学校との関係)は、次のように分類されるようだ。
1.内輪
私立学校では経営者(理事長など)が作ることがあるが、公立学校でも時の学校長や音楽教諭が作ったり、「校歌制定委員会」を組織したりして作ることがある。【13日追記】最近は少ないようだが、昔は「開校時に校歌がまだできていない」ということが少なくなったようで、その場合に行われたようだ。
2.地元の人
市内や県内在住のその分野に明るい人に依頼するケース。地元の大学教授、地元の歌人、学校の先生を退職した人だったりといろいろ。【13日追記】他校の現役の先生ということもある。
地域内で同じ人が校歌を手がけた学校がいくつも存在することもある。
3.地元以外のプロ
著名な作詞家や作曲家が作ることもある。地元出身で全国区で活躍する人に依頼するケースもあるが、まったくゆかりのない人が作ることも多い。
題名のない音楽会では、加山雄三(弾厚作名義)、谷川俊太郎、井上ひさし、宇野誠一郎、宮川彬良などが紹介されていた。
東北地方の伝統のある高校では、土井晩翠や山田耕筰の名がよく見受けられる。
こういう人の中には、全国的に多くの学校の校歌を手がけていることもある。いわば「校歌制作のプロ」ということなのだろう。その場合、現地を訪問したり関係者に取材したりして作っているようだ。(学校の創立周年記念誌などで、その時のエピソードが記されていることがある)
4.公募
全国的には分からないが、最近の秋田県立の統合高校が好んでいる気がする。
作詞だけを公募し、補作や作曲はプロが行うこともある。


ここでは、上記「3」を中心に取り上げる。秋田県立と秋田市立の学校を中心に、著名な作者の校歌を拾ってみた。(敬称略)
※すべての学校を調べたわけではありません。作者が有名だからよくて、そうでないから…という意図ではありません。また、同姓同名の別人ということも、なくはないかもしれません。

まずは秋田出身の作者。
・成田為三
米内沢(現・北秋田市)出身で「浜辺の歌」や「秋田県民歌(県民なのに僕は歌えませんが…)」などで知られる。1893-1945。
秋田市立秋田商業高校、秋田市の私立聖霊女子短期大学付属中学校・高等学校、昨年度末で統合された県立能代北高校の校歌を作曲。

・深井史郎
知らなかったが、秋田市新屋元町生まれの作曲家。1907-1959。
クラシックが専門のようだが、1975年まで使われた「FNNニュース」のテーマ曲も作曲したという。
母校の市立日新小学校の校歌を作曲している。(母校の校歌を作曲するとは、ちょっと変な話にも思えるが、戦後に校歌を新たに作る流行があったらしい)
【2015年10月19日追記】2015年10月13日付秋田魁新報「歌い継ぐ校歌42」より。
日新小では、かつては秋田市へ合併する前の「新屋町の歌」を校歌として歌っていたとのこと。
作詞の中川正男(1903~1990)と深井史郎は「中学時代に一緒に郷土文芸誌を発行するなど古くから交流があった。」。

・小野崎孝輔
名前はあまり知られていないが、多くの歌謡曲やテレビ番組、映画音楽を手がけた作・編曲家。1931年生まれだから、今年82歳。
秋田市出身で、生家を存じ上げている。平成初期にはNHKのテレビ番組でオーケストラの指揮をしていて、うちのばあさんが「あれ、小野崎さんだ!」と喜んでいた。

1999年開校の秋田市立桜中学校の校歌を作曲し、ご本人が学校に来て歌唱指導をしたそうだ。
1981年開校の秋田市泉中学校、1992年に開校(船川中と椿中が統合)した男鹿市立男鹿南中学校、他にも横手市や由利本荘市の小中学校の校歌を作曲している。
※小野崎孝輔氏は2017年に亡くなった

ところで、秋田市の学校の校歌を調べたら、「小野崎晋三」という作曲者が散見された。(旭南小、旭川小、外旭川中)
小野崎晋三は秋田大学教授だった人で、孝輔氏の父だそうだ。(秋田県広報誌「あきた」31号、64号より)別の情報によれば、戦前には本荘高等女学校(現・由利高校)の先生だったらしい。【2015年6月16日追記】1903年生まれ、1969年没。

・天野正道
こちらも秋田市出身の作曲家。1957年生まれで活躍中。
学生時代には「秋田市記念市民歌」の作曲公募で佳作に選ばれているようだ。
2004年に(船川水産高校→)海洋技術高校と男鹿高校が統合して開校した、県立男鹿海洋高校の校歌を作曲。

・加曽利(かそり)康之
秋田市生まれ(1964年)のエレクトーン奏者であり作曲家で、教育テレビの「理科教室小学校6年生」の音楽を担当していたこともあった。
2004年開校の中高一貫校、県立横手清陵学院(横手工業高校を再編)の校歌を作曲。
【2024年2月7日追記】2023年11月20日発行 県立秋田高等学校同窓会だより第114号・「あの頃の思い出」に加曽利氏が文章を寄せていた。
それによれば1964年秋田市生まれ、父(営林局職員だったようだ)の転勤に伴って各地を転々とし、中学校2年生から再び秋田市に。1983年3月秋田高校卒業後、上京。秋高入学時は、千秋北の丸にあった官舎に住んでいたが、途中から父の実家があった楢山に転居。
楢山大回り線でのバス通学や、和声学レッスンのためにYS11や昼の特急、寝台特急「あけぼの」で、週末に東京都行き来していたことが言及されていて、記憶の正確さとともに、交通機関がお好きなのかもと感じさせられる文章であった。(以上追記)

・橋本祥路(しょうじ)
音楽の教科書で見覚えのある名前だったが、大館の人だというのを最近知った。1948年生まれ。
中学校の合唱でおなじみの「夢の世界を(♪ほほえみ交わして語り合い)」「遠い日の歌(パッヘルベルの「カノン」による)(♪人はただ風の中を)」の作曲、「あの素晴しい愛をもう一度」の合唱用編曲などをしていて、出版社「教育芸術社」専属の作曲家であり、同社役員だそう。
【5月3日追記】「明日という大空(♪ぼくたちの行く手には明日という大空)」も橋本氏作曲だった。我々の世代にはなじみのある曲をほんとうに多く作曲している。

校歌の作曲は、1991年開校の秋田市立飯島中学校、県外だけど2006~2007年に静岡市中心部にできた市立小学校2校(番町小、葵小)を手がけている。
※飯島中の校歌については、この記事末尾にリンクがある補足記事も参照願います。
【2014年7月21日追記】大館商業高校を再編・一貫校化して2006年に開校した、県立大館国際情報学院中学校・高等学校の校歌も橋本祥路作曲。
【2016年4月12日追記】2016年4月、秋田市雄和地区(旧・雄和町)の4小学校を統合した、市立雄和小学校が開校。校歌が新しく作られた。歌詞は4小学校の児童からキーワードを募集し、選考委員会が選定。それを元に橋本祥路氏に作詞作曲を依頼した。
できた校歌は、作曲者は橋本祥路だが、作詞者は「花岡 恵」。
花岡恵とは、橋本氏が作詞する時の名義だそうで、3月18日付秋田市広報でも「作詞の「花岡 恵」は橋本さんのペンネームです。」との注記が掲載されていた。大館市に花岡という地名があるけれど、それと関係するのだろうか。→大館市花岡町出身ではあるようだ。


以下は、秋田出身ではない人。【島田雅彦氏は、秋田にゆかりがあった、下記参照】
・岡本敏明
1907-1977。秋田にはゆかりがある。
玉川学園の先生で作曲家だった人で、彼の有名な「かえるの合唱(ドイツ民謡)」の作詞、「どじょっこふなっこ」の作曲で知られる。
その「どじょっこふなっこ」は、1936年に秋田市北部の金足西(かなあしにし)小学校(当時は村立か。現在は秋田市立)を訪れた岡本が、同校の教員(豊口清志)が歌った田植え歌のようなものを聞いて、譜面にしたもの。
【2017年3月27日追記】岡本氏は、上記、秋田県北秋田市出身の作曲家・成田為三の弟子だったそうだ。そのゆかりもあって、秋田を訪れ、校歌を作ったのかもしれない。

それがきっかけなのかは分からないけれど、戦後に作られた秋田市立保戸野小学校の校歌を作曲している。保戸野小の近くの聖園(みその)幼稚園(現・聖園学園短大附属聖園幼稚園)の園歌、国立秋田工業高等専門学校の校歌も作曲している。
なお、金足西小の校歌は別の人の作。
【12月24日追記】由利本荘市立亀田小学校の校歌も作詞していた。(明治6年開校、校歌制定は昭和30年2月)【2014年4月12日追記】亀田小は2013年度末で閉校・統合して岩城小学校となり、新たな校歌が作られた。この記事末尾の次の記事参照。

・井上武士
1894-1974、東京音大教授。
こちらは彼の有名な「チューリップ」「うみ(♪海は広いな大きいな)」「虫のこえ(♪あれ松虫が鳴いている)」の作曲者。

全国的に校歌を手がけていたようで、秋田市立山王中学校、県立秋田中央高校の校歌を作曲している。作詞者はどちらも山田千之という人。(校歌は作詞者・作曲者が同じ“コンビ”で作られることも多い)
中央高校の校歌は、1961年制定とのこと。同校は当時は秋田市立高校で、1982年に県に移管して中央高校になっているから、市立高校の校歌として作られたことになる。校名が歌い込まれていない歌詞だったので、スムーズに移行できたようだ。

・西條八十・古関裕而
西条八十は作詞家。「肩たたき」「東京音頭」「青い山脈」「王将」など。
福島出身の作曲家、古関裕而はいわゆる「六甲おろし」や「とんがり帽子」「栄冠は君に輝く」。
このコンビで1964年に秋田市立秋田北中学校の校歌を作っている。
【2015年12月11日追記】2015年12月頃の秋田魁新報「歌い継ぐ校歌」によれば、古関裕而作曲の校歌は、秋田県内では秋田北中が唯一とのこと。

・島田雅彦・佐佐木幸綱・三枝成彰
島田雅彦は法政大学教授の小説家。作曲以外の分野でもおなじみの三枝成彰とのコンビで、1997年開校の中高一貫校、秋田市立御所野学院の校歌を作った。
さらに、早稲田大学名誉教授で歌人の佐佐木幸綱作詞、三枝成彰作曲のコンビでは、秋田公立美術工芸短期大学の校歌(1999年)が作られている。(これはそのまま美大の校歌に移行したのかな?)
【2020年12月5日追記】2020年12月5日付秋田魁新報「新あきた紀行」によれば、「島田さんの母方の祖母は八郎潟町真坂出身。」。また、母は戦争中に飯田川と五城目へ疎開していた。今は祖母の生家の親類もなくなって、島田氏本人は訪れたことがなかったとのこと。

・三善 晃(みよしあきら)
フジテレビ系で日曜19時半から放送されていたアニメ「世界名作劇場」。内容だけでなく主題歌も印象的なものが多い。
その1つが1979年放送(以後何度も再放送されている)の「赤毛のアン」。オープニングの「きこえるかしら」、エンディングの「さめない夢」は、作品の世界を表現しながらも、他のアニメの曲にはない壮大というか前衛的な曲だった。

その作曲者・三善晃が、秋田市の2つの学校の校歌を作曲していた。
それは、県立新屋高校(1984年開校)と私立秋田和洋女子高校。和洋のほうは美短と同じ佐佐木幸綱作詞。
新屋高校の校歌は、高音質の校歌をネット上で聞くことができる。(同窓会ホームページまたはYoutubeから)歌詞に折り込まれた地名などがいかにも新屋らしいが、メロディはたしかに赤毛のアンに似た雰囲気。オーソドックスな校歌とは少し違うが、いい校歌だと思った。
【10月4日追記】三善氏は2013年10月に亡くなった。下記、続きの記事にて。
【2020年8月12日追記】秋田和洋女子高等学校は、2020年春に共学化し「秋田令和高等学校」となった。校歌は和洋時代の歌の校名部分を「令和」に差し替えて、引き続き使っているようだ。


他にも、県立横手城南高校の作詞者・幸田露伴、県立角館高校の作詞者・島木赤彦、補作・斎藤茂吉(島木の遺作に近いものらしく、同校ホームページに経緯が掲載されている)、秋田市立秋田南中学校の作詞者・江口榛一(詩人)、秋田市立城東中学校の作詞者・栗原一登(劇作家で栗原小巻の父)、作曲者・石井歓など、けっこうある。
【2016年4月12日追記】羽後町の町立中学校から2つ。
羽後中学校は、井上 靖作詞、芥川也寸志作曲(1976年制定)。
高瀬中学校は、大岡 信作詞、一柳 慧作曲(1992年開校)。歌詞には、学校付近で化石が発見された絶滅哺乳類「デスモスチルス」が歌われている。
【2017年4月6日追記】高瀬中学校は2016年春で閉校(羽後町内の中学校を1つに統合)されていた。大岡氏が亡くなったことを伝える2017年4月6日付秋田魁新報社会面によれば、高瀬中の校歌は「詞の一部を変え、高瀬小校歌として現在も歌われている。」とのことだが、詳細は不明。


各学校では、歌唱指導は行なっても、曲が作られた経緯については教えていないところが多いのではないだろうか。先人の学校にかける思いが伝わり、母校への愛着が深まると思うから、単に歌うだけでなく、作品としての校歌にもっと注目するべきだと思う。
校歌の詞の中身については、いずれまた。※その前に、作者についての補足の記事があります。
※続きはこちら

※秋田県とは関係ないが、弘前出身で多くのテレビ音楽を手掛けた菊池俊輔作曲の校歌について。
コメント (3)
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