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校歌補足

2013-04-20 23:58:41 | 秋田のいろいろ
先日、校歌の作詞者や作曲者の記事をアップして、次は歌の内容についてとしていましたが、その前に作者などについて補足。

●津雲 優(つぐもゆう)
直接的には校歌とは関係ないようだけど、まずはこの方。
今日の秋田魁新報社会面に訃報が出ていた。通常の訃報記事より大きく扱われ、3段で顔写真付きの一般記事として掲載された。

津雲氏のお名前と秋田出身の作曲をする人だとは存じ上げていたが、詳しくは知らなかった。
紙面によれば本名は高橋正。シンガーソングライターで、秋田市東通在住。
旧大内町出身、秋田大卒、1977年にヤマハのポピュラーソングコンテストにおいて自作曲で最優秀歌唱賞受賞。同年にレコードデビューし、以後、秋田市を拠点にCD制作やライブ活動を展開。
昨年4月に体調を崩し療養していて、19日に亡くなった。

魁の紙面には、津雲氏が「(秋田)市内の小中学校の校歌や創立記念のテーマソングなどを数多く制作。」とあった。
「創立記念のテーマソングなど」は、知っていた。市立旭北小学校の創立120周年記念ソング「君の夢は僕の夢」、市立旭川小学校がヤートセ祭で使う「旭川タント節」などを、いずれも作曲している。

紙面からは津雲氏が「秋田市内の学校の校歌」も作っていたように受け取れる。これは初耳。
ちょうど最近、校歌に興味を持ってブログのネタにするため、秋田市立学校の校歌の作者を調べていたところ。雄和・河辺地区を除く秋田市立小中学校57校のうち、48校の作詞作曲者が判明しているが、その中に津雲氏のお名前はない。(残りの学校も、歴史からすれば津雲氏が作ったとは考えにくい学校が多い)
一方で、2003年に開校した、潟上市にある「県立養護学校天王みどり学園(という校名)」の校歌は津雲氏が作曲した。それに、美郷町の町民歌も作曲しているが、記事では触れていない。
記事の「市内の小中学校の校歌や創立記念のテーマソングなどを数多く制作。」という表現は、適切ではいように思われるのだが。

また、紙面の見出しは「大曲の花火のイメージソング手掛ける 津雲優氏(秋田市)死去 60歳」、ネット版では「歌手・津雲優氏死去 「いざないの街」など制作、60歳」と、だいぶ違っている(魁ではわりとあること)。
「いざないの街」=大曲の花火のイメージソングなのでいいけれど、津雲氏が「歌手」であるとしているのは、ネット版の見出しだけで記事本文には書いていない。シンガーソングライターと歌手は「=」ではないと思うのですが。


●小田島樹人
もう1つ今日の魁から。社会面の連載「シリーズ時代を語る」は、画家で秋大名誉教授の佐々木良三氏。
本荘高校を中退して、秋田高校(当時は秋田南高校=今の南高とは無関係)に再入学したところまで話が進んでいて、今日は音楽の小田島樹人(じゅひと)先生の音楽の授業が好きだったという内容があった。
「小田島氏は、戦前に童謡作曲家として活躍し、「おもちゃのマーチ(♪やっとこやっとこくりだした)」が代表作」という趣旨の補足も掲載された。これは知らなかった。

Wikipediaに小田島樹人の項があり、1885-1959年、鹿角市花輪出身、「樹人」は本名でなく俳号。
盛岡や東京に出て、1936年には秋田に帰ってきて、1941年から定年まで秋田中学(~秋田高校)の定時制で定年まで勤めたとある。
ただ、佐々木氏は1935年生まれなので秋高入学は1950年頃。その頃、小田島先生は65歳になっていたはずで、定年(当時は55歳とか?)はとうにすぎている。定年後も非常勤とか再任用で在籍していたのかもしれないけど。また、秋田高校に定時制過程ができたのは1948年だそうで、1941年から定時制過程に勤務していたのもちょっと疑問。
ともかく、秋田出身で秋田とゆかりの強い作曲家で教育者ということになる。

小田島樹人は、秋田市立学校の校歌も作曲している。(小田“嶋”表記のものもある)
確認できている中では、築山小学校と外旭川小学校の校歌を作曲している。


●時を越えた校歌
前回の記事の通り、秋田市立飯島中学校の校歌は、大館出身で合唱曲の作・編曲で有名な橋本祥路氏。作詞:加藤 裕、補作:土井輝雄 ※追記参照
飯島中は1991(平成3)年開校なので、当然、その頃に作られたものだと思っていた。

ところが、飯島中学校校歌の「詞」だけは、それより30年は前に作詞されていたらしい。(橋本氏の年齢からすればその当時に作曲できたわけはなく、作曲はそれよりだいぶ後=1991年と考えられる)

実は、それ以前にも「飯島中学校」があった。
終戦後から1964年まで存在し、秋田北中に統合されて閉校した。おそらく、最初は飯島村立で1954年から秋田市立、所在地は今とは別だったはず。
時が経ち、飯島地区の宅地化で人口が増え、1991年に秋田北中から再び独立して、今の飯島中が誕生した。

学校が“復活”したことにはなるが、形式的には初代と二代目の飯島中に直接の関係はないことになるようだ。
でも、校歌の歌詞は以前のものを(言葉が適切ではないが)“再利用”して、時を越えて同じ地域に存在する同じ名前の学校としてのつながりを保とうとしたのだろう。

だったら、曲も初代のものをそのまま持ってくれば良さそうにも思えるが、どうして橋本氏に再度の作曲を依頼したのだろう。
「補作」とあるのも、初代から二代目に変わる(曲が変わる)際に手を加えたということだろうか?
【21日追記】「歴史作家 土居輝雄」というホームページ(http://www.cna.ne.jp/~doi/kayou.html)を見つけた。連絡先に「本名」が記されているので、土居輝雄というのは筆名で、ご本人によるホームページなんだろうか?
※中学校のホームページでは「土“井”輝雄」となっているが、正しくは「居」のようだ。
それによれば、飯島中学校校歌は「旧飯島中学校歌を土居が補作し橋本祥路氏が作曲」とあるので、現在の飯島中開校時に補作されたようだ。

言われてみれば、歌詞は平成に開校した学校の校歌としては古くさいような重いような印象。でも、2番の「海荒らび 砂はふぶけど 里守る松 そばだてり」など、いかにも飯島らしい。
曲のほうは、かなり明るく感じた。だけど歌詞とも合っていて、橋本氏の力で昭和の歌詞と平成の曲が時を越えて融合したようだ。
コメント (17)
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