広く浅く

秋田市を中心に青森県津軽・動植物・旅行記などをご紹介します。

18年前・18年後

2012-09-05 23:59:08 | その他もろもろ
東日本大震災による福島第一原発の事故を受けて、政府(資源エネルギー庁)は「2030年のエネルギー政策(要は原発をどれくらい残すか/残さないか)」を模索している。
エネルギー政策については、これ以上触れません。ここでは「2030年」について。

政府がなぜ「2030年」を指定したのかよく分からないが、2012年の今、「2030年」ってどう感じますか?
今から18年後。
30年以上生きてきた者としては、「ものすごく遠い未来」だとは思わないが、「すぐ先」でもない。中途半端な未来という感じ。


ここで、今から18年前を考えてみる。1994(平成6)年。
その当時の気持ちで、2012年の今を思えば、2030年をイメージしやすいかもしれない。

1994年当時、僕は高校生だった。2012年のことなんて考えてもいなかった。
身近なところでは、秋田朝日放送は既に開局していたし、前年に御所野にイオンができ、街中にはコンビニができ始めていた。秋田新幹線ができることは決まっていて、車両(E3系)のイメージ図も明らかになっていたはず。
秋田赤十字病院はまだ中通にあったが、1998年に移転後、跡地が活用されたのは14年後の今年。
市街地が賑わっていたとか市営バスがあったとか、今と違う点もあるが、以上を見ると、今とそう違わないような気もする。

世の中を見ても、郵便料金がはがき50円・封書80円になったり、鈴木一朗の登録名が「イチロー」になったのがこの年。北野武氏のバイク事故、気象予報士の最初の試験、関西国際空港の開港もあった。
今も続くテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」「めざましテレビ」「ニュースJAPAN」が始まったのが1994年。「徹子の部屋」「笑っていいとも!」「クレヨンしんちゃん」はもう始まっていたし、サザエさんのエンディングは既にじゃんけんになっていた。それらをVHSビデオで録画して見るのも、当たり前のことだった。
やっぱり、今とあまり違わない?


でも、秋田市営バスがなくなり、ダイエーやイトーヨーカドーが秋田からなくなり、秋田新幹線の2代目車両が造られるとは、思いもしなかった。
信号機は、当時は電化製品の表示ランプくらいにしか使われていなかったLEDを使ったものになった。(当時からそのまま使われている信号機もまだまだあるけれど)
「ドラえもん」の声優陣が交代し、当時放送されていた「なるほど・ザ・ワールド」やサザエさんの火曜日の再放送はなくなった。笑っていいともでは、オープニングでタモリさんが歌わなくなり(2000年から)、テレフォンショッキングの「友達の輪」は途切れた(今年から、番組側が一方的に翌日のゲストに電話をかける形式になった)。
テレビが横長になって薄くなって、ビデオテープやカセットテープ(MDは1992年発売だが当時は普及していなかったはず)はすっかり存在感をなくしていることも、予想できなかっただろう。
【2013年1月16日追記】小容量の清涼飲料水の容器は、当時は缶だった。500ml以下のペットボトルが登場したのは1996年。

そして、パソコン、インターネット、携帯電話の普及。
当時はワープロ(専用機)全盛期で、パソコンはマニアか業務用の機械という印象だった。コードレスフォンや留守番電話が最先端の電話だったはず。(翌年のWindows95発売で「マルチメディア」時代になって劇的な変化が始まる)
こうした点では、ものすごく時代が変わったようにも感じる。


フジテレビのドラマ「警部補・古畑任三郎」が始まったのも、1994年。(2作目以降は「警部補」がつかない)
その再放送を見ていると、携帯電話がなかった時代だから成り立った話がある。さらに、出演者が若い!
中でも今泉慎太郎を演じる西村雅彦氏。頭の毛の量なども変化しているが、当時は33歳で、今の僕よりも年下だったのには、大きなショックを受けた。

そういえば、当時の高校で「若い先生」だった人が、今は管理職(校長など)をしておられる。
やっぱり18年の時の長さを感じずにはいられない。


結局、18年って短いようで長いようだ。(と結論になってません)
コメント (2)
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