田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

読書で落ち込む

2019年01月20日 | 日記
 青空文庫で、初めての『山本周五郎 季節のない街』を半分ほど読んだ。就寝前と、深夜目覚めて寝付かれない時に読んでいるが、半端なく気持ちが落ち込んでしまう。精神衛生上良くないかな?と思い始めた。
 
 季節のない街は、1962(昭和37)年4月1日から1962年10月1日まで朝日新聞に連載された。私が中学生になったころだ。当時の日本は、まだ貧しさを引きずってはいたが、小説に描かれたような街は見たことが無かった。ただそのような街区が市内にあったことは確かだ。立ち入ることはもとより、近寄ってはならないと、大人から言われていた。そのような大人は、たいてい商売人か、勤め人で、明日の食べ物に困らない人だったように思う。
 
 故郷で小学校を終え、勉学のために市へ寄留した私は両親から離れ、文化アパートと言われる、木賃アパートに兄姉と暮らしていた。クラスの友人からすれば、親のいない私は、得体の知れない同級生だったであろう。
 
 同じような環境の子は、伊勢湾台風で両親を失ったり、大戦で体に障害を負った父親を、母と子で支える家庭だった。そのような子は、たいてい学校校舎のような建物の、和室一部屋のアパート住まいだった。
 
 親がいないと誤解されていた私は、同級生に誘われアパートを訪れた。友人の祖母、両親からたいそうな歓迎を受け、気恥ずかしくなり、友人を誘って外へ出た。当然のように小さな妹を連れて出る友人が大人びて見えた。
 
 そのような経験を持つ私だが、小説の中に出てくる街は、殺伐とした石切り場か、廃坑になった炭鉱の街が連想され、今はすっかり限界集落、限界団地の明かりの消えた廃屋の隣に、肩を寄せ合う高齢夫婦がひっそりと暮らす光景が思い浮かぶ。まるで、私達のこの先を暗示するかのように気が落ち込む。この本、読むのを途中でやめようかと思う、今日此の頃な私なのだ。