続・蛙独言

ひとりごと

「週刊朝日」のこと 2

2012-10-24 18:23:39 | 日記
小林健治さんがfacebookで「毎週金曜更新 連載 差別表現」という記事を書いておられる。
今回の内容は、蛙もまったく異議ないので、ルール違反を承知で、蛙ブログにコピペしておこうと思う。
ブログの読者でFBを使っておられない方やFBは使っているけれども小林さんの記事を読んでおられない方もおられると思うからだ。

同盟中央から「抗議文」が「週刊朝日」に出されているので、こちらも明日にでもUPしようと思っている。あまりいい文章でないと思うし、学校の先生が生徒の作文を添削する風な印象で蛙の趣味にあわないが、「なら、お前が書けよ」なんて言われても左程「文章力」を持ち合わせていないので、あまり悪口は言わない方がいいのかも知れない。
ただ、中央の「抗議文」が、相手方と同盟組織内だけに限定的されて配布されるのはよくないと思う。
「解放新聞」の次号あたりに掲載されるのかも知れないが、せっかくHPを持っているのだから、時期を失うことなく、情報は即時的に発信されてしかるべきだと思うのだが。

以下は小林さんの記事。長いけれどお読みください。

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 先週に引き続き、橋下徹大阪市長の被差別出身という“出自”を暴くことだけを企図した『週刊朝日』の緊急新連載「ハシシタ 奴の本性」をめぐる問題について、意見を述べたい。
 10月23日火曜日に発売された『週刊朝日』に、見開きで「おわびします」という謝罪文が、編集長・河畠大四の名で掲載されている。連載の中止は、すでに先週19日の段階で決定されており、親会社の朝日新聞社まで巻き込んだ、一連の騒動も終わりかと思っていたが、橋下氏は「週刊朝日が僕と家族を社会的に抹殺しようとしてきたので、こちらも相手を抹殺する気持ちで抗議しないとこっちがやられてしまう。今回はそういう抗議だった」とツイッター上で語り、執筆者の佐野眞一さんと朝日新聞グループと『週刊朝日』を徹底追求することを宣言し、事態の推移は混沌としてきている。
 ここで、一度、今回の事件について整理しておこう。
①前兆
 多くの人は気づいていないかもしれないが、今回、問題となった『週刊朝日』10月26日号の差別記事に先立って、まず2カ月前の同誌8月17日・24日合併号で、「橋下市長の親族が初告白『徹の女好きは実父譲りだ!』」という記事が掲載されている。執筆記者名は、「本誌 村岡正浩/今西憲之」で、今回の緊急連載の本誌取材班と同一人物。
「本誌は彼(親族A氏)への取材を通じ、橋下氏の血脈をたどった」とリードにある
 しかし、その“血脈”の中味は、実父・橋下之峯(ゆきみね)氏の暴力と女好き、ギャンブル好きが共通している、というもので、被差別という社会的属性には触れていない。
 之峯氏の墓は大阪府八尾市安中地区にある。墓名には橋下氏から3代前の曽祖父と曾祖母の名前に加え、之峯氏の名もしっかりと刻まれていた。
 私たち(村岡と今西―筆者)は、橋下家のルーツである八尾市安中を歩いた。
(『週刊朝日』8月17日・24日合併号)
 このように記されてはいるものの、そこが被差別であることについての記述はない。ではなぜ10月26日号では「橋下之峯の出身地の八尾市安中地区には被差別がある」と記述したのか。
②佐野眞一さんの登場
 社会派ノンフィクションの大家で、次々と大著をものしている佐野眞一さんが、ここで登場する。再審無罪が決まった「東電OL殺人事件」の元被告・ゴビンダさんが無罪を克ち取った背景に、佐野さんの鋭い筆による追求があったことは、誰しも認めるところだ。
 どういう経緯があったかは知らないが、『週刊朝日』編集部の二人が、“タブーに挑戦”と意気込み、佐野眞一さんの権威と橋下嫌いを利用して、8月の合併号では書く勇気がなかった、その“血脈”の本筋を書いたということだろう。いわば、大家の名と権威を予測される社会的批判から逃れるための“弾除け”として活用したということだ。
 その点では、昨年の『週刊新潮』『週刊文春』が、自称・被差別出身ライターの上原善広を免罪符的に利用していたのと同様の、さもしいトップ屋根性が透けて見える程の浅薄さである。あのとき「地区出身のライター」が書くのだから、なにを書いても許されるという錯覚が、両誌編集部にあった。同様に、今回はノンフィクションの大家を利用したということだ。
 昨年の時も強調したが、抗議する場合の視点は、文章内容の差別性であり、筆者がだれであるかは、一切関係ない。付け加えれば、執筆対象がどんな人物であるのかも、差別記事(差別表現)か、否かの判断に影響を与えない。
 ③「おわびします」を読んで
 『週刊朝日』11月2日号に掲載された「おわびします」を、少しくわしく見ていこう。
(1)「地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載してしまいました。」
 言っておかねばならないが、社会的必要性(必然性)と合理的理由があるのであれば、「地区を特定」すること、つまり被差別の地名や個人名を記述することは、別に問題ではない。問題は、たんに人を貶(おとし)めるためにのみ、“出自”を暴くところの愚かさと、傲慢さにある。言うまでもないことだが、被差別を記述する合理的理由があった上で、の地名や個人名を明らかにするさいには、社会的差別が厳存するという現実を直視し、配慮あるいは考慮することは、ジャーナリストの基本であり、礼節だろう。それが欠けてるから、橋下氏に「人権感覚のかけらもない」などと罵倒されるのである。
(2)「タイトルも適切ではありませんでした。」
 ここで言う「タイトル」とは、橋下(はしもと)を「ハシシタ」と記述したことだと思うが、なぜ適切でなかったかの記述がないところを見ると、たんに人の名前を正確に呼ばなかっただけのように考えている節がある。
 被差別出身者にとって、名前の持つ意味の大きさをまったく理解していない。「橋下」をあえて意図的に「ハシシタ」と呼ぶことの犯罪性を自覚すべきだ。国内に住む「橋下(ハシシタ)」姓の人たちに対する差別や嫌がらせが行なわれたとしたら、『週刊朝日』はどうやって責任をとるのか。「橋本」を「ハシホン」と呼ぶのとはまったく違う。社会的文脈を認識していない。
(3)「政治家・橋下氏の人物像に迫ることが狙いでした。差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたが、不適切な表現があり、ジャーナリズムにとって最も重視すべき人権に著しく配慮を欠くものになりました。」
 すでに前回書いたように、「血脈」=被差別出身という出自の中に橋下市長の全人格の根源がある、という視点で人物評価をすることは、当人にとって責任の持てない、つまり出自の問題という抗弁できない点を集中して叩くというのは、卑劣という以前の、攻撃する側の職業倫理の質に関わる問題だろう。
「差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたが、」(傍点筆者)に至っては、居直り以前に、無知である。
 理由なく相手を貶める目的のためだけに「血脈」=被差別出身という出自を暴くことが、差別を是認したり助長したりする行為になるということを、『週刊朝日』編集部が本当にわかっていなかったのか疑問だ。それでは『週刊朝日』編集部に問うが、なぜ8月17日・24日合併号では、実父・之峯氏が被差別出身者であると記述しなかったのか? それは「差別を是認したり助長したりする」可能性を、少しは配慮したからではないのか。
 重要なことは「差別を是認したり助長したりする意図はありませんでした」などという、佐野眞一氏および『週刊朝日』編集部の主観的意図が問題にされているのではなく、客観的に見て差別かどうか――という問題が追求されているのである。
「血脈」を暴くこと、それ自体が今回のケースでは差別行為に当たるということが、認識できていない。「血脈を暴くことと、人物像を描くことは全く異なる」(橋下徹氏ツイッター)ということだ。
(4)「多くの関係者を傷つける事態をまねいたことについて深く反省しています。」
 まず「多くの関係者」とはだれのことか。当然、橋下氏の家族および親戚・縁者に、まずもって、直接会って謝罪すべきだろう。
 次に、謝罪すべきなのは、全国の「橋下」姓の人々に対してだろう。しかし、「橋下」という苗字が被差別と関わりのある名前ということが、明らかにされた現在、そのことによって、起こる可能性のある社会的不利益についても、責任をとる必要がある。反省するだけではすまない。補償を考慮に入れるべきだ。
 さらに、全国の被差別出身者に対して、ということになるが、抽象的で主体性のない「お詫び」を出すより、今後、差別撤廃に向けた誌面づくりを行なうべきだ。かつて、1956年9月に「を解放せよ―日本の中の封建性」という特集を組んだ『週刊朝日』の精神を思い起こす必要があるだろう。
(5)「社として、今回の企画立案や記事作成の経緯などについて、徹底的に検証を進めます。」
 しかし、橋下徹市長がツイッターで述べているように「内部調査ではなく、第三者検証委員会でしっかりと検証して、全て公表するべき。」(橋下徹氏ツイッター)だろう。ありきたりの皮相なアリバイ的検証なら、「多くの関係者」は許さない。
 この「おわびします」を読んで感じたことは以上だが、あまりにもジャーナリズムの質の低下、つまりいかにジャーナリストの思想的劣化が著しいかがわかる。かつて、「断筆宣言」を行なった筒井康隆さんが語った「ジャーナリズムの思想的脆弱性」が、度し難いまでに、進行しているということだ。
[以下次週]





「週刊朝日」のこと  1

2012-10-24 13:40:27 | 日記
今回の「週刊朝日」・佐野眞一氏の「連載記事中止」について、色々考えさせられることが多いのだけれど、蛙が思うところを何回かに分けて書いておこうと思う。

まず橋下徹だが、彼が行った数々の暴挙、一切が許せるものではないということがある。
「大飯再稼働」に関する対応も許し難いものであった。
ただ橋下を貶めるために佐野氏は「一般にある差別意識」を利用することを敢えてしたのだ。
それは断じて許し難い行為と言わなければならない。
彼の主観的意図として「そんな想いはなかった」というのだろうが客観的には「そう言わざるを得ない」ということだ。

差別者はいつもそう言うのだ。
「私は差別しようという考えは全くありませんでした」と。
これは、その主体にあっては「問題など一度も真面目に考えたことはありません」と表明しているに過ぎない。

この記事に橋下は激怒したようだが、色々な評者の間で、「維新の会の勢いが失墜しつつある状況下で、『朝日』を攻撃することによって、再度、挽回をはかろうとしたのだろう」とか、「彼にとっては大チャンスになった」とか、もっと深か読みをして「裏で『朝日』と橋下とは『できていた』のではないか」「敵に塩を送ったのだろう」といった話まで出回っていたりする。

検討に値しない言説も数多く飛び交っているのだが、概して、真剣に解放問題に取り組んでいる人間にとっては、「不幸な事件」となったという外ない。

今のところ、同盟中央の「この問題に対する見解」は公になってはいないようだし、内部討議についても、蛙は知る立場にないのでなんとも言えないが、「新潮45」の上原善広の論稿や、「週刊文春」「週刊新潮」の差別記事への対応などを考え合わせてみても同盟にはあまり期待できないような気がしている。
真っ先に反撃を開始したのは「都連」の浦本君で、facebookでその奮闘を知ることができる。
先の稿で、彼の「公開質問状」はUPしておいた。

「週刊朝日 11/2号」の冒頭で「おわびします」と題された記事がある。
http://www.wa-dan.com/info/2012/10/post-63.php
(コメント欄からジャンプしてお読みいただきたい。)

こんなもので「謝罪」ってことになるのか、実に腹立たしい気分だが、浦本君がこの「おわび」に対して、以下のように綴っている。
蛙の想いと殆どかさなるもので、お読みいただきたいと思う。

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 週刊朝日編集部は、一貫して「差別を是認したり助長したりする意図はありませんでしたが、不適切な表現」があった、そしてその不適切な表現とは「地区を特定するなど極めて不適切な記述を複数掲載」したことだと述べています。つまり「問題は、記事の本旨ではなく言葉の使い方であった」という立場です。だから今後改めるべきは「記事チェックのあり方」だという結論になるのです。
 私、浦本誉至史は、これは全く間違った解釈であると思います。問題は、「本人の意思や努力ではどうすることもできない被差別という出自を最大の問題としている点」です。つまり言葉遣いがどうのではなく、この記事の本質、本旨、記事が「最も伝えたいこと、言いたいこと」そのものが差別以外の何ものでもないと指摘し抗議しているのです。編集部の見解とそれにもとづく掲載中止という措置では、ただの言葉狩りであって表現弾圧以外の何ものでもない。週刊朝日編集部は、今後も検証を続けると言いますが、一体何の検証をするのですか? 校閲体制のチェックですか? もしそうなら、それは的外れもいいところです。
 事態をこのように非本質的にしか理解できないからこそ、今回のような差別記事を堂々と掲載する事になったのではないですか? つまり河畠大四編集長をはじめ週刊朝日編集部は、問題を全く理解していないしほとんど何の知識もない、根本的に被差別民を無視(ネグレクト、あるいはオウミッション)しているのではないですか? だとしたら、それは差別だと思います。

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長くなるので、「つづき」は次回ということで。