木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

埋もれた偉人ワグネルと島津製作所

2009年03月31日 | 江戸の学問
明治8年(1875年)の今日、京都に島津製作所が誕生した。
創業者の島津源蔵は、もとは家業の仏具屋を継いでいたが、京都舎密(化学)局が開設されたことが大きな契機になった。
舎密局の校長は、明石博高(ひろあきら)であったが、明石は、舎密局が単なる学問の場になるだけでなく、地場産業振興をも目的にした。
そのせいもあり、門戸は広く解放され、源蔵は舎密局に足繁く通うようになった。
このとき、既に来日していたドイツ人学者ゴッドフリード・ワグネルが招かれた。
ワグネルは、七宝焼きや有田焼など日本の伝統工芸の発展にも尽力したのであるが、源蔵には足踏み式の旋盤などを贈り、使い方を指導した。
これが、島津製作所の創立に繋がっていく。

幕末、長崎に海軍伝習所ができたが、その際、教師陣の中にオランダの若き軍医ポンペの姿も見られた。
ポンペは医学を教授したが、彼は、医学は広範囲な学問に繋がるもの、として物理学や化学なども必修科目に加え、自ら講義した。
彼は、教科書を使わなかったが、授業の際に毎回、手製のメモを用意した。
そのメモの底本となったのが、ワグネルの著書であったと言われる。

2002年、島津製作所の社員である田中耕一氏がノーベル化学賞をとって話題となった。
島津製作所なくしては、田中氏もあり得ず、ワグネルなくしては、島津製作所もなかったかもしれない。
ワグネルは、その後、東京大学や東京工業大学で教鞭をとることになる。多くの外国人教師が、任期を終え母国に帰国していったのに対し、ワグネルは、37歳で来日し、61歳で没する24年の間、日本に滞在し続けた。墓地は青山霊園にある。

ワグネルは、今日ではあまり知名度がないが、明治以来、綿々と繋がっている化学の脈流の真ん中にどっかりと腰を降ろしていることには変わりない。

足踏み式旋盤については、こちらを(展示室のご案内→第一展示室の順にクリック)

参考文献
日本の化学の開拓者たち (裳華堂) 芝哲夫

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鹿児島と木曽三川の関係

2009年03月30日 | 江戸の話
岐阜県海津市の歴史民族資料館に平田靭負正輔の胸像が設置されている。

平田正輔は、薩摩藩の家老で、宝暦四年(1754年)に治水奉行として木曽三川の治水事業に着任。
木曽三川というのは、木曽川、揖斐川、長良川の総称で、暴れ河川と知られていた。
この地に遠く薩摩から多くの藩士が動員された。
治水工事は思った以上に難工事で、八八名にものぼる死者と、多大な資金が費やされた。
工事は翌宝暦五年に一応の完成をみる。
正輔は、藩士が帰郷する宝暦五年五月二五日に腹を切った。

簡単に経緯を述べるとこのようになる。
展示などでも、このような簡単な内容しか述べられていないことが多い。
正輔の切腹も、多くの犠牲者を出した責任を取って行った、などと説明されている。

これだと、薩摩藩士の行動は義侠心にあふれた美談、正輔の切腹は責任感にあふれる行い、思われてしまう。
しかし、内情はもっとどろどろしていて、真の目的は、薩摩の経済力をそぐために行った幕府の政策であった。
正輔の切腹も幕府への抗議といった意味合いが大きい。

この地には、正輔を祭った治水神社があり、今でも春と秋の社祭には、鹿児島から来客が訪れるという。
現代でも、薩摩武士の無念は忘れられていない。
幕末に薩摩が倒幕に向かったのも、このときの恨みを忘れていなかったから、というのも一因である。

もっとも、岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約を締結し、海津市には、鹿児島の森という公園もできている。
公園内には島津家の家紋をかたどったモニュメントもある。
もともと、薩摩の力をそぐという目的は幕府のものであって、この地の人々の目的ではなかった。
当時も、地元民は素直に薩摩人の力を感謝したことであろう。
時代を超えて、交流の輪が広がるのはうれしいことだ。


平田正輔の胸像

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秀吉の兜

2009年03月29日 | 戦国時代
昨日に引き続き、名古屋市中村公園内にある「秀吉清正記念館」からの話題。

この記念館で、何ともパンクな兜を発見。
名付けて「馬藺後立兜」《ばりんうしろだてかぶと》と言う。
秀吉が被り、1587年(天正15年)九州攻めの際に蒲生氏郷の家臣、西村重就《しげなり》に与えたものと伝えられる。

敵に発見されにくいように迷彩色を着る現代とは違って、日本といい、西洋といい、昔は戦場でも派手なものが好まれたようだ。
しかし、この兜など、かなり趣味の部分が大きいので、貰ったほうも当惑したのでは。

秀吉「このカッコいい兜をそなたに進ぜよう」
重就「カッコいい!?・・・・・・ありがたき幸せでございます」(と言って下を向く)

などという会話があったかどうかは知らないが、かなり微妙なデザインである。
馬藺というのはアヤメの一種だそうだが、どうにも孔雀の羽のようにしか見えない。

驚いたことに、この兜のレプリカを試着できる所がある。
大坂の天守閣である。
天守閣の解説では、この兜を「現在にも通じる気品の高さを持つ兜」と解説しているが、いかにも、派手好みの大阪らしい。

ちなみに、「秀吉清正記念館」は、入場無料。
くわしくは、ここをクリック



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母衣

2009年03月28日 | 戦国時代
母衣。
難しい漢字だ。
これで、「ほろ」と読む。

小型の辞書にも載っていた。
『昔、よろいの上からかぶって矢を防いだ、布製の袋のようなもの』
(岩波国語辞典 第三版)

これを名古屋市の中村公園内にある「秀吉清正記念館」にて発見。
その説明は下記である。

『赤母衣・・・母衣はもとは、武者が合戦のときに背負って、飛んでくる矢を防ぐための道具だった。戦国時代には中に竹かごのような骨組を入れ、いつでも風でふくらんでいるような形になった。実用よりも戦場で目立ち、自分の手柄を主君に認めさせるためのアイテムと化したのである。安土~桃山時代』

とある。
織田信長は、身辺に赤母衣隊と黒母衣隊という精鋭部隊を置いたといい、イメージはなかなかにカッコがいい。
説明だけだと、よく分からないのだが、西洋のマントのようなものかと想像する。
しかし、実物を見て、びっくり。
張子の巨大な壷、といった風情である。

使用方法がよく分からないが、これを背負うのだろうか。
そういえば、上のほうに背負い紐のようなものがついている。
中は空洞だから軽いとはいえ、このようなものを背負って戦う姿は……あまり、勇ましそうではない。

幕末には、西洋の新式鉄砲が多く輸入された。早撃ちが可能で、射程距離も長いものだ。
その時に、旧式の装備しか持たない藩は、この母衣で対抗したらどうだったのだろう。中には、砂でも入れて、この母衣を押し立てて進んでいく。敵が撃ってきたら、この母衣の影に隠れて、弾込めの間に、前進。撃ってきたら、また隠れる。そうしているうちに敵の陣地までたどり着く仕組み。砂を十分に湿らせておけば、大砲にだって耐えられるかも知れない。
でも・・・・・・その前に、持ち運べないか。



赤母衣

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喫茶店ユキの鉄板スパゲッティ

2009年03月27日 | B級グルメ
名古屋地下鉄車道駅、もしくは千種駅の近くに車道商店街という通りがある。
商店街と言っても、もはやただの通りになってしまった所であるが、ここに、「喫茶店ユキ」というお店がある。
この喫茶店の名物は、「鉄板スパ」。
ベースはナポリタン。
半熟の卵が鉄板に敷かれ、その上にスパゲッティが乗ってくる。
「パスタ」などと呼んではいけない。
あくまでも、「スパゲッティ」。
しかも、喫茶店で食べるスパゲッティである。
レトロなことこの上ない。
味は、「喫茶店のスパゲッテイ」。懐かしい味だ。
ただ、鉄板の上にスパゲッティが乗っているだけ、と言えないこともないのだが、この微妙な卵の固まり加減には、永年の技を感じる。
単品で650円。
100円追加して、赤出汁とライスがついた定食にしたが、スパゲッテイでご飯というのも、名古屋ならでの文化でしょうか。
関西では焼きそばでご飯を食べるが、名古屋ではスパゲティでご飯を食べる。



喫茶店ユキ
愛知県名古屋市東区葵3-17-42
052-935-1653
8:00~19:00(土曜定休)

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名古屋喫茶店の怪

2009年03月26日 | トマソン的町歩き
名古屋の喫茶店のサービスは、よく話題になる。
そのサービスにもかなり格差があるが、最近ではピーナッツ1袋という世知辛いものが多くなってきているような気がする。
ただ、中にはゆで卵、クッキー、ヤクルト(の類似品)などをつけてくれるところもあり、まだまだ、捨てたものではない。
このサービス振りは、他の飲食業にも影響を与えている。
たとえば、ラーメン屋さんや定食屋さんに行っても、おしぼりと水(茶)が出る。
名古屋でおしぼりと水が出るのは、かなりの確率であり、名古屋人もごく普通のこととして捉えているが、他の地方のラーメン屋さんなどでは、このセットが出ることは、逆に珍しいかも知れない。
そこで、不思議な現象を発見。
下の写真である。
どこかおかしいでしょうか?



何だか分かりましたでしょうか。
写真のコップには、水が入っていません。
頻度は高くないが、10軒に1軒くらいは、水が入っていないコップを提供するのである。
これは、どういう訳であろう。
省力化しているとも思えない。
何か理由があると思うのだが、よく分からない。
前の人が残した水を間違って飲んでしまう、という間違いを犯さないためであろうか。
広島などへ行くとラーメンに最初から胡椒がかかっていることがある(参考)。
これなどは、辛いものが嫌いな人にとっては、大きなお世話かも知れない。

からのコップも名古屋独特の現象であるが、それを奇異に思っている名古屋人はほとんどいない。

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甲子園球場と鳴尾球場

2009年03月25日 | 日常雑感
高校野球が初めて開催された地は、甲子園球場ではない。
今は完全な住宅地になっている豊中である。
西宮が阪神線であるのに対し、豊中は阪急線であるが、大阪からの距離は西宮とさほど変わらない。
豊中球場で第一回の全国高等学校野球選手権大会(当時は全国中等学校優勝野球大会)が開かれたのは、1915年。
実に大正4年のことである。
豊中球場(豊中グランド)で大会が開かれたのは、1915年、1916年の2回でしかなかった。

その後は、今の甲子園から海側に行った場所に位置した鳴尾球場で開催されるようになる。
だが、鳴尾球場で大会が開かれたのは、第三回大会から、第九回大会まででしかない。
観客動員数の増加によって、鳴尾球場は手狭になり、1924年に新しい球場が造られた。これが甲子園球場で、この年から大会は甲子園へと場所が変更となった。
このときから、高校野球と甲子園球場の深い繋がりが生まれていく。
鳴尾球場があった場所は、現在の浜公園の近くであるが、ぽつりとレリーフを残すのみ。ひっそりとしていて、今では鳴尾球場に思いを馳せ人も少ないようだ。
タイガース二軍のグランドである「タイガース・デン」もこの近くにあるが、かつてあった鳴尾球場とは関係ない。

その甲子園も今年は装いも新たに新シーズンを迎える。
WBCで湧いた日本であるが、プロ野球の盛り上がりはどうなのであろうか。

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WBC優勝おめでとう!

2009年03月24日 | スポーツの周辺
WBCで日本が優勝!

おめでとうございます。

やはり僕らのような年代の日本人(特に男性)にとっては、野球というスポーツには思い入れがある。
せっかく、昨日野球発祥の地、アメリカに勝ったというのに、こと野球という点では後進の韓国に負けてしまったのでは、話にならない。

2時にアポイントがあったので、それまで通りのベンチで携帯のワンセグを見ていた。
九回の裏。
日本1点のリード。
見知らぬおばさんが駆け寄ってきて、「どうなっています?」。

その後、僅かの間に、韓国に1点を取られ、同点になってしまった。

時間が2時を回ったので、そのままミーティングに入ってしまったのだが、終わってから結果を見ると、日本が勝ったとある。

イチローがおいしい場面を奪っていったかのような感があるが、これもイチローの運の強さか。
侍ジャパンの連呼は気になった大会ではあったが、とにかく、日本の優勝はめでたい。
オリンピックなどは、韓国のほうが団結していたように見え、その差が結果に繋がったとも言えるが、今回は日本もかなり硬く団結していたように見えた。
プロ野球という個人主義のスポーツの中で、このような姿が見られるのもWBCならではと言える。
巨人のように有力選手をより集めただけでなく、For the team(フォーザチーム)の気持ちを持って、各選手が勝利に向かって一丸になった姿は、感動的であった。

優勝、おめでとう!

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侍ジャパンというネーミング

2009年03月23日 | スポーツの周辺
WBCで日本がアメリカに快勝。

それはそれでよかったのだが、侍ジャパンというネーミングがどうにも気になる。
実況アナウンサーの語調というのも、どういった感じで中継するかミーティングを開くというが、昨今、絶叫型のアナウンスが多くなったように思う。
その絶叫口調で「侍ジャパン」と連呼されると、何となく引いてしまう。
日本は、日本でいいような気がする。

アナウンサーも最後は、本当に興奮してしまったのか、それまでは「侍ジャパン」とか「ジャパン」と言っていたのが、「日本」と中継していた。そのほうが自然というものだ。
楽天の田中を「若武者」と連呼するなど、時代劇モードに入っていたが、普通の中継のほうがいいなあ、と感じてしまったのは私だけであろうか。

ともあれ、ここまで来たからには、ぜひ明日も勝って、二連覇を達成して欲しい。
がんばれ、ニッポン!

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色金山の床几岩

2009年03月21日 | 戦国時代
古戦場跡は、観光地化できにくい、と前に書いた。
その中で、長久手町は頑張っているほうではないかと思う。
中途半端といえば、中途半端なのであるが、一応、古戦場跡を整備して、公園化している。
色金山(いろかねやま)というのは、小牧・長久手の戦いの際、徳川家康が陣を構えた山である。
ここで家康は小牧方面を睨みながら軍議を開いたが、その時に座ったとされるのが「床几岩」であるという。
床几岩は、昭和14年(1939年)に国の史跡に指定されたが、真偽のほどは分からない。
この公園には、立派な櫓も組まれ、なかなかよい展望が得られる。
しかし、それほど多くの人が訪れるわけでもなく、平日などは閑散としていて、誰一人いないこともある。
人は戦いの中から何かを学ばなければならないのだろうが、為政者たちの戦いは庶民にとっては、関係のないことだった。
古戦場跡などは、たいした興味もなくすぐに忘れ去られてしまう。
織田であれ、豊臣であれ、徳川であれ、雄藩であろうと、庶民はたくましく生きて来た。
現代を見ても、自民・公明であっても、民主であっても、庶民レベルとしては同じことかも知れない。
だが、選挙権という武器を与えられている点では昔と大きく違う。
どこが与党になっても同じなのかも知れないが、せっかく与えられた武器は使う必要があるのではないだろうか。


床几岩。確かに立派な岩である。


立派な櫓。上に登るといい展望が得られる。

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