木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

荒木又右衛門・2

2013年11月30日 | 江戸の話
荒木又右衛門は伊賀越鍵屋辻の決闘で36人を斬ったというが、実際には2人しか斬っていない。
しかも、最大の強敵・河合甚左衛門は馬上のところを不意打ちし、槍の名人・桜井半兵衛には、槍を持たせなかった。
作戦勝ちと言えなくもないが、相手が多勢だったとはいえ卑怯といえば卑怯。
しかし、戦いとは得てしてこんなものである。
戦闘の最中、又右衛門は愛刀・伊賀守金道をつば元から折られている。
刀と刀を切り結んだとき、折ったのではないか、と思う人が多いだろうが、実際は違う。
腰を相手側の小者に木刀で叩かれた又右衛門が、木刀を払ったところ折れたのである。
そもそも、実戦では刀と刀が合わさることは滅多にない。
つばぜり合いなどは剣道では存在しても、実戦では起こらない。
木刀を払ったくらいで折れるのだから、真剣と真剣を思い切り合わせれば、いつなんどき折れるか分からない。

一方で、肝心の渡辺数馬と仇敵・河合又五郎の一騎打ちは5時間以上かかったという。
お互いに至近距離で刀を振り合い、切り結んで戦ったのではない。
振っては逃げ、逃げては振るという繰り返しで、刀の有効距離以遠での戦いだっと思われる。

多分、又五郎としては途中逃げ出そうとしたのではないだろうか。
それを周囲の又衛門らが押しとどめる。
又五郎を押しとどめてくれても、数馬としても怖くて手が出ない
声ばかり掛けて、手数は出ない。

最後まで決着はつかず、数馬の剣が又五郎の腕を偶然のように斬ったので、それでよしとして、又右衛門が助太刀して又五郎を討ったとされる。
それまでに、数馬も又五郎も倒れる寸前だっという。
身体的な面よりも精神的にグロッキーだったのだ。

これが真剣勝負の最たるものだ。

(関連記事) サムライ 真剣勝負

荒木又右衛門 鍵屋の辻 36人斬り 動画

伊賀越資料館


「数馬茶屋」の数馬祝い膳(1,250円)。このほかにかやくご飯と小皿数皿が付く。
仇討当日、茶屋で蕎麦と鰯を頼んだ又衛門は緊張しきっている数馬に「傍でゆわすとはめでたい」と言った。
ゆわす=やっつける(吉本新喜劇の「ゆわしたろか」で有名ですね)の意で、冗談めいて言ったのである。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村



荒木又右衛門・1

2013年11月30日 | 江戸の話
荒木又右衛門は仇討で有名だが、誰の仇討だったのか、と言うと即答できない人が多いかも知れない。

端的に言うと、渡辺数馬が弟源太夫の仇、川合又五郎を討った。
荒木はその助太刀である。

当時、仇討の規定としては、弟が兄の仇を討つ、子が親の仇を討つことはあっても逆はなかった。
子の仇を親が討つことはなかったし、兄弟の場合も同じだ。

それがなぜ、この場合は仇討が成立したかを説明すると、話がややこしくなるが、結論からいうと、藩主・池田忠雄(ただかつ)が認可したからである。

又五郎は、江戸に住む旗本・安藤左衛門のところに逃げ込み、匿われていた。
忠雄は左衛門に又五郎の引き渡しを要求するが、拒否される。
又五郎はわざわざ面倒を起こしてまで匿われるほど才能に富んだ人間だったかというとそんなことはない。
単に維持の張り合いだった。

もともと川合又五郎の父・半左衛門は安藤家の家臣だったが、家中で刃傷沙汰を起こし、逃走。
又左衛門を庇ったのがたまたま通りがかった忠雄であった。

安藤家は、又左衛門の引き渡しを要求するが、忠雄は拒否。
忠雄の父は有名な池田輝政。さらに祖父は長久手の合戦で絶命した池田恒興。
恒興を討ったのが、左衛門の父、安藤直勝。
両家には少なからぬ因縁があった。

又五郎が安藤家に逃げ込んだのは最良の選択だった。
これは又五郎の相談を受けた山野辺義忠の入り知恵だったという。
山野辺は後に水戸家家老となるが、この時期は池田家にお預けの身分だったので、池田家にはいろいろと思いもあったのだろう。

幕府も巻き込み、又五郎の身柄を渡す、渡さないの大騒ぎとなったが、幕府側にも外様大名に対する意地があり、容易に解決しない。
結局、又左衛門を殺し、池田、安藤家ともに喧嘩両成敗ということで手を打とうとしたが、忠雄の怒りは収まらない。

忠雄はこの事件から二年後に他界するが、遺言に
「仏事追善はいらないから、川合又五郎の首を持ってこい。それでなければ、往生できない」
というようなことを記している。

困ったのは数馬だ。
こんな遺言を残されては、藩内には留まっていられない。
脱藩して又五郎の仇を討つ羽目に陥ったが、剣の腕はまったく当てにならない。
そこで助っ人を頼んだのが叔父で大和郡山剣術指南の荒木又衛門だったというわけである。

こうなると、今度は渡辺家と河合家の意地の張り合いになってくる。
又五郎の警護に当たったのが、同じ大和郡山剣術指南の河合甚左衛門だったいうのも、意地の張り合いを増長させた。

かくして、伊賀越鍵屋辻の決闘が始まったのだった。


茶屋「鍵屋」のあった場所には「数馬茶屋」が建っている。明治後期~大正の建物で相当年季が入っている。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村





坐漁荘~西園寺公望とアイスクリーム

2013年11月24日 | 人物伝
今日、11月24日は西園寺公望の命日である。
西園寺は公家の出身であるから幕末の時期には目立った活躍はしていない。
鎮撫する任を負って西日本を行脚したくらいである。
この鎮撫というのは形式的なもので、新政府が書類を諸藩に渡す際に、重々しさを出すために皇族を同行させたに過ぎない。

政界で活躍するようになったのは、岩倉具視の引きや伊藤博文らとの親交もあったが、皇室と政界のパイプ役としてうってつけだった点が大きいと思われる。
若いときにパリに留学した経験からリベラリストで、自由民権運動にも傾倒した。
皇室の持つナショナリズムとリベラリストで親欧米派としての顔は相反するものであったが、二.二六事件でも襲撃されることなく天命をまっとうしている。

公望七〇歳のとき静岡県興津町(現静岡県静岡市清水区)に建てたのが坐漁荘(ざぎょうそう)である。
昔は窓を開けるとすぐそこは白浜があり、その先に波打ち際が見える風光明美なロケーションだった。
今では目の前にあった砂浜は埋め立てられ、バイパスの高架を望む殺風景な光景になっている。
決して広くはない屋敷だが、海側の窓が大きいため明るく、段差のないバリアフリーの構造となっている。
「坐漁荘」とは、座して釣でもしながら暮らそう、という意味であるが、実際は楽隠居して釣三昧の日々とはいかず、政界の実力者のもとに「興津詣で」が絶えなかった。

本物の坐漁荘は明治村に移され現存しているが、興津にはレプリカが建設されている。
レプリカではあるが、細部まで凝った造りで、本物に酷似している。
この辺りには公望や、同地に長者荘を建てた井上馨に所縁のある方々が今も住んでおられて、運営を手伝っておられる。
そのせいで、愛情のこもった施設になっている。

坐漁荘での公望の楽しみは、好みのパンを食べることだった。
興津は田舎だが、一方では清水港を目の前に持ち国際的な面も持ち合わせていた。
その当時としては洒落た乾物屋もあり、公望はその乾物屋に東京から毎日パンを取り寄せさせていた。
またアイスクリームが好物であった。
坐漁荘にはアイスクリームの輸送用容器(魔法瓶のようなもの)が残されている。
併せて栄太郎飴の缶も残されているから、甘党だったのだろう。
明治の元老がアイスクリームに目をほそめている姿は想像するとほほえましい。
公望はアイスクリームを食べながら、若き日に留学したパリの匂いを嗅いでいたのだろうか。
ブランデーにもこだわりを持ち、酒席には持参することもあった。

公望ほどのこだわりでなくても、ある程度の年齢以上になったら、食にもこだわりを持ちたい。
いい大人がカップラーメンばかり食べているのはみっともない。
今の日本は若者と年寄りばかりが金持ちで中年が貧乏という構図もある。
居酒屋で必死に安いメニューを探すお父さんが多いのも事実。
バイキングでのドカ食いがストレス解消になるのは若者であって、中年になったら工夫したい。
安い素材でも自分で調理し、いろいろ工夫を加えれば御馳走になる。
高い食材は買えなくとも、調理にこだわりを持てば、食材に対するこだわりと同様、立派なこだわりだ。
調味料にこだわりを持つのもいいかも知れない。
お金がなければ頭を使えというところか。
かく言う自分も反省。


若き日の西園寺公望。浪士風の髪型はとても公家には見えない。反骨心というか、少し風変りな印象を感じる。


決して広くはない坐漁荘。贅沢って何だろうと考えさせる。


アイスクリーム輸送容器。案外、贅沢はこの中にあるのかも知れない。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村








文章について気になっていること

2013年11月08日 | 日常雑感
鍵を忘れたことに気づいたので取りに帰ったとする。
取りに帰ったのは太郎という人物で、取りに帰ると遅刻しそうだ、との細かい設定を加えることにしてみる。
シンプルに書くならば、

①-1 太郎は鍵を忘れたので、遅刻しそうだったが取りに帰った。

となる。
太郎の位置を変えることも可能で、

①-2 遅刻しそうだったが、太郎は鍵を忘れたので取りに帰った。
①-3 遅刻しそうだったが、鍵を忘れたので太郎は取りに帰った。

①-3は、文の最後まで読まなければ、誰が遅刻しそうだったのか、誰が鍵を忘れたのか、分からない。
悪文である。
①-2の書き方は、書くほうからすれば自由だが、読む側からすると、分かり難い。
①-1の文自体、平易な表現だが、「忘れた」「遅刻する」「取りに帰った」と三つの動詞が混在している。
複雑な構成だ。
マニュアル書の文体が読みにくいのは、構造が複雑な文章がびっちりと並べられているせいである。

①をもっとすっきり書くなら、

②-1 太郎は遅刻しそうだったが、忘れた鍵を取りに帰った。

と書ける。
①からすると、格段に読みやすい。

だが、この文章において太郎の位置は、

②-2 遅刻しそうだったが、太郎は忘れた鍵を取りに帰った。
②-3 遅刻しそうだったが、忘れた鍵を太郎は取りに帰った。

と変えられる。
②-2はいいとしても、②-3となると、読みにくいこんな文を書く人間は相当なひねくれ者だ。

ぶつぶつと短く切ることもできる。安っぽいハードボイルド作家がよく使いそうな文体だ。

③-1 太郎は鍵を忘れた。遅刻しそうだった。それでも取りに帰った。

この場合、文は時系列的に並べる必要がある。
「太郎は遅刻しそうだった。鍵を忘れた。取りに帰った」では、文脈が成り立たない。
敢えて試みるならば、「遅刻しそうだった。急ぎ足で歩く中、鍵を忘れたことに気付いた。慌てて取りに帰った」とでもなるのだろうか。
短く区切ることによりテンポアップを図ったつもりが、却って間延びしてしまう。

では、2センテンスではどうだろうか?

④-1 太郎は鍵を忘れた。遅刻しそうだったが、取りに帰った。
④-2 太郎は遅刻しそうだった。それでも忘れた鍵を取りに帰った。

分かりやすいほかに、①-1と決定的に違う点がある。
④では、文中にニュアンスの違いを含めることができる点だ。
④-1よりも④-2のほうが、鍵の重要性が高まる。
「それでも」という接続詞を使っているのが大きい。
この接続詞は、①の文例だと、①-2、①-3に持ってくることが可能である。
「遅刻しそうだったが、それでも太郎は鍵を忘れたので取りに帰った」
可能であるが、いい文章とは思わない。②だと
「遅刻しそうだったが、それでも太郎は忘れた鍵を取りに帰った」
少しはましだが、どうしてそこまでして文を繋げなければならないのか、と感じる。

③の場合は、④-1のニュアンスを伝えることが困難だ。

結論的なものを導き出すとすれば、1センテンスの中には、あまり多くの情報を盛り込まないほうがいい。
文章がねじれがちになり、読者が混乱しやすい。
それに、細かいニュアンスが伝わらない。
分かりにくい文章は問題外だが、分かりやすければいい文章と、小説の文章は違う。
特別の制約がない限り、私であれば冒頭の忘れた鍵を取りに帰るという動作には④の文章を使う。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村