木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

堀与平衛②

2009年08月29日 | 江戸の写真
堀与平衛の堀家は、出自が現在の本巣郡と言われているが、与平衛は1826年、京都で生まれている。もとは廻船問屋に勤めていたが、大坂の道修町でガラス製造が行われるようになると、ガラス工場に弟子入り。ガラス職人としての腕を身につけた与平衛は京に戻り、唐物雑貨を扱って生計を立てるようになった。この当時、女性の間で砂金玉という舶来の髪飾りが評判になり、非常な高価で売買されていた。この砂金玉は、実はガラス玉に過ぎないということを見抜いていた与平衛は、自作の飾り玉の製造に成功。この発明は当時の日本の技術としては画期的なもので、与平衛の作った飾り玉は大評判、一躍、与平衛は財を成した。ガラス職人としての評判を耳にした蘭学者辻礼輔は、ガラス製の化学実験用器の製造を依頼しに、与平衛の店を訪ねた。礼輔の話から、舎密(化学)の存在を聞いた与平衛は一遍に舎密の魅力に取り憑かれてしまう。礼輔は明石博高の主催する研究グループに属しており、与平衛も懇願して、そのグループに参加する。そこで写真を知り、それ以降、与平衛は家業も手につかないほど写真にのめり込んで行く。
この頃の写真は湿板法といって、撮影の際に良質で厚さが均一のガラス板が不可欠であった。その意味でガラス職人と舎密研究者の結びつきはベストマッチであった。
文久三年(1863年)、与平衛は紙写真の製造に成功する。江戸で鵜飼玉川が写場を開いた年に遅れること2年後の快挙であった。
その後、不安定な政局の中、もっとも危険地帯であった京にあって掘与平衛は写真師として成功していく。
以上は、ほとんどが『写真事始め』の抜粋であるが、著者は宇高随生氏。
初版が1979年であるから、もうかなり昔のことになる。当時において、写真黎明史の研究は画期的であったと思う。
写真史に興味がある方には一読をお勧めします。

以上の事で個人的に興味を抱いたのは、与平衛と礼輔、博高らの結びつきである。
上野彦馬には堀江鍬次郎という津藤堂藩の舎密師がいたが、彼らの師は長崎海軍伝習所のポンペであった。
明石博高は、京都舎密局の校長となるが、その時にはポンペの後任でもあったハラタマワグネルなどの学者が招かれた。
ワグネルは島津製作所の設立にも影響のあった人物であり、脈々と続く日本化学史の混沌としながらも希望に満ちあふれた時代を想像させる。

写真事始め 宇高随生 柳原書房

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堀与兵衛①

2009年08月24日 | 江戸の写真

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古写真研究家の森重和雄さんから、近藤勇の写真は京の堀与兵衛が撮影したことが判明したとの連絡を頂いた。
古写真研究というのはあまり耳慣れない言葉かも知れないが、奥が深い。
ごく簡単に言うと、古い写真のうちどの写真がオリジナルであるかとか、写真の真偽、撮影者、撮影日時などを解明していく研究で、パズルのような根気のいる研究である。

たとえば、土方歳三の最も有名な写真である洋装軍服姿も、今多く目にするのはオリジナルではなく、目元に修正が施された加工品である。
なぜそのような写真が出回ったかというと、幕末期の志士たちの写真は、今日でいうブロマイドとして流通されていたからである。見栄えがいいように、顔に修正が加えられ、トリミングが行われた(中には江藤新平のように斬首刑後の晒し首をブロマイドにされてしまった者もいたが)。
また、写真を写真で撮影するということも多く行われたようで、複写品も多い。伝えられる写真が偽物である場合は簡単に分かるが、オリジナルかどうか、というのは簡単には分からないそうだ。

幕末志士の肖像写真の中で、一番有名なのは、坂本龍馬のものであろうか。
この写真は、よく上野彦馬が撮影されたとされるが、実際に写したのは彦馬のところに修行に来ていた井上俊三である。
一般の人には井上俊三と聞いてもよく分からないに違いないし、龍馬を撮影したのは彦馬だと書いてある本も多い。
冒頭の堀与平衛にしても同じである。知名度は低い。
大体、幕末の写真家というと、西に上野彦馬、東に下岡蓮杖しかいなかったかのように思う人も多いだろう。
司馬遼太郎も、「燃えよ剣」の中で彦馬が近藤勇を撮影するような場面を描いていたし、大島昌宏は「幕末写真師 下岡蓮杖」の中で蓮杖が近藤を撮影したように描写している。
けれども、この両名とも近藤勇も土方歳三も撮影していない。

じつは、時代も慶応期ともなると、写真家の数は両手でも数えられないほどの人数に上っていた。
江戸薬研堀「影真堂」の鵜飼玉川を初めとして、京の堺町御門前「大与」こと堀(大阪屋)与平衛、彦馬門下からは京の知恩院の近くに写場を構えた亀谷徳次郎、明治期になって天皇の御影を撮影することとなる内田九一、蓮杖門下としては横山松三郎がいた。そのほか、一橋家に召抱えられた島霞谷、北海道では魁といえる木津幸吉(なぜか志村けんにそっくり)、その弟子の片脚の写真師、田本研造(森重さんの研究により、例の歳三の写真を撮ったのは研造とされる)など、綺羅星のような写真師が誕生していたのである。

中には、さきの島霞谷の妻・隆(りう)のように女性の写真師もいた(もっとも、実際に活動するようになるのは明治期になってからであろう。その頃には井上俊三の妻・さと亀谷徳次郎の娘・とよのように女性写真師も多くなってくる)。

何だか、堀与衛平に行く前までに長くなってしまったので、与衛平については後半に書かせてもらいます。



森重和雄さんの研究はこちら






エルカンタンテ

2009年08月23日 | 映画レビュー
私は、音楽がメインテーマになっている映画に弱い。
この『エルカンタンテ』もエクトル・ラボーというサルサシンガーを描いた伝記映画である。
全編に流れるサルサ。
エクトルを演じるのは、サルサの人気スター、マーク・アンソニー。彼は、実際に映画の中の歌も自分の声で熱唱している。
製作指揮は、出演もしているジェニファー・ロペス。
ジェニファーとマークは実の夫婦である。
映画は、エクトルの成功と、薬物中毒に溺れていく姿を核に進んでいく。
その中にちりばめられたサルサの名曲の数々。
マークの歌声は素晴らしく、トップシンガーとしての実力を遺憾なく発揮している。演技にも嫌味がないし、役どころ事体がはまり役である。
ジェニファーも、好演といっていいだろう。
流れる楽曲が素晴らしく、演技もまあまあ、カメラワークもよい。
それなのに、なにかもうひとつ映画に入り込めない。
映画の進展がジェニファー演じるところのエクトルの妻、プチへのインタビューに基づいて進めらていくという形式なのだが、そのインタビューの場面が多すぎて、その度に映画に入り込もうとする心を邪魔されるような思いだった。
「タイタニック」もローズの話から本編に入っていったが、「タイタニック」のようにインタビューの場面は最初と最後だけでよかったのではないだろうか。
夫婦共演による嫌味はあまりなかったと思うのだが、思い入ればかりが空回りしているような印象を受けた。
エクトルの栄光も、薬物中毒などの影の部分も共に描き方が中途半端で、音楽の素晴らしさだけが救いだったような感じである。
お勧め度は50%くらいかな。

エルカンタンテHP



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高山彦九郎②

2009年08月22日 | 江戸の人物
インターネットを見ていたら、高山彦九郎は今で言ったらオタクのような存在だったかも知れない、という記述を見つけた。
最初は随分、突飛な意見だと思っていたがよくよく彦九郎の行動を見ていくと、確かにオタクっぽいところがある。
彦九郎は日記マニアであり、コレクターでもあった。彼が集めていたのは全国の美談といった類のものだ。
もっと系統立てて、風俗なども書いていたなら、たとえば「守貞漫考」のような歴史的資料になっただけに、残念である。
彦九郎が現代に生きたなら、さしずめ熱心なブロガーになったであろう。

彼を一言で表す漢字は「純」だろうか。
彦九郎は経世家というが、学者ではない。一派立てて、学説を論じた訳でもないのだが、強烈といってもいいほどの尊王、あるいは敬親といった考えを持って、各地を遊説して廻る。

この彦九郎の一大転機ともいえるのが、光格天皇に拝謁したことであろう。一途な彦九郎は、ますます尊王思想に傾倒するようになり、後に尊号問題では京師にうまく利用されたとも言えなくもない。
尊号問題とは時の光格天皇が実父である閑院宮に太上天皇の尊号を与えたいと主張し、それを松平定信が大反対したという事件を言う。
天皇に在位しなかった親王に天皇の称号を与えるというのはどう見ても異例で、定信の反対意見のほうが筋が通っていたが、朝廷は、繰り返し認可するように主張した。

この問題は、実は江戸と京の綱引きであり、京の揺さぶりであった。
この時、京側のPR担当として彦九郎は活躍するのであるが、幕府から見れば、目の上のたんこぶに等しい。
次第に要注意人物として危険視されるようになり、西国に活動の場を移すが、西の地に行っても、依然、幕府側の監視は厳しく、ついに自刃してしまう。

彦九郎は、優れた思想を遺した人物ではない。
しかし、幕末の志士にも少なくない影響を与えた。
それは彦九郎の思想よりも、彼の純な行動によるところが大きかったのである。

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高山彦九郎①

2009年08月19日 | 江戸の人物
寛政の三奇人と言われたのは、林子平、蒲生君平、高山彦九郎の三人である。
現代となっては、林子平の知名度が一番であろうか。
ちなみに高校の参考書を読んでみると、ちゃんと三人の名前は挙がっている。

寛政時代の経世家、高山彦九郎(1747~93)が尊王思想を説いて全国をめぐり、蒲生君平(1768~1813)は歴代天皇の陵墓の荒廃をなげいて「山陵志」を著し(中略)、いずれも尊王を説くものの倒幕を論じたものではなかった。

外圧の接近とともに、幕政に警鐘を鳴らしたのは海防論であった。(中略)寛政時代には、仙台の人林子平が「海国兵談」を著して海防を厳にすべきことを説いた。


子平の「海国兵談」は、*付きで欄外に引用までされている。

日本は海国であり『細カに思へば、江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也』と説いて海防の必要を説いた。

この文頭の文句は大学入試にも出題されたことがあるほどで、やはり子平の知名度は抜きん出ている。
君平も宇都宮に蒲生神社が建てられ、学問の神様として名高い。

他の二人と比べて彦九郎はどうであろうか。
彦九郎も高山神社が建てられ、記念館も生まれ故郷の群馬県にはあるが、変なところで最も有名である。
それは京都の京阪三条。
彦九郎は土下座という別名で知られていると言う。
そこには彦九郎が膝をついた姿勢の銅像があり、待ち合わせ場所として有名だそうだ。
だが、地元民でも銅像の主である彦九郎が何をした人物であるか知らない人が大部分であるし、名前すら知らない人も多い。
実は銅像がモチーフとしているのは、土下座をしているわけではなく、御所を見た際に思わず膝まづいた姿勢らしい。

では、彦九郎とはどのような人物であったのであろうか?
次回に内容を見てみたい。

「詳細日本史研究」 笠原一男 (山川出版社)

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幕末のイケメン・渋沢平九郎

2009年08月08日 | 江戸の人物
「悲劇の戊辰戦争」という本を読んでいると、南條範夫氏が書いた榎本武揚の項の文が目に付いた。

榎本は、堂々とした体つきの、非常な美男子であった。この点では、明治元勲のだれもかなわない。彼が宮中に出仕すると、女官たちが騒ぎ立てたといわれる。

そう言われてみると、榎本も整った顔立ちのように思えるが、稀代一と言い切っていいものかどうか。
では、誰が幕末一番のイケメンだったであろうか。暑い夏の暑気払い程度に考えてみたい。

まず、思いつくのは新撰組土方歳三。沖田総司はそんなに二枚目でなかったというのが通説となっているが、歳三は函館で田本研三が撮ったと思われる写真によりイケメンの座を獲得している。
おまけに歳三の写真は、目元に修正も加えられイケメン度を増している。

続けると、木戸孝允なども男前で、よく一緒に写った伊藤博文は木戸の引き立て役のようになっている。
勝海舟も小柄ながら母性本能をくすぐりそうな顔をしている。財閥の大物となった薩摩の五代友厚もなかなかいい顔である。個人的には、山岡鉄舟などもいい顔だと思う。
中には徳川慶喜をイケメンという人もいる。龍馬をイケメンという人もいるが、贔屓倒しのような……。

歴史的には著名ではないが、イケメンとして人気ある人物に池田筑後守がいる。筑後守は、遣欧使節団の正使として巴里に赴いた人物であるが、若くして政治から離れしかも、早世してしまったためあまり知られていないが、「いい男」であるのは間違いないであろう。
下に島霞谷の手になるスケッチを掲載したが、同じ時期に描かれた同じ遣欧使節団の一員、河田相模守も甘いマスクの「いい男」である。

その中であえてイケメンNo1を選ぶとしたら、個人的には渋沢平九郎を推したい。

平九郎は、天野八郎一派により彰義隊を追われた渋沢成一郎の養子である。平九郎は、振武軍参謀として現在の埼玉県本能市の入間川と高倉方面で官軍と激突。激闘のすえ、敗戦した平九郎らは顔振峠から黒山方面に逃走したが、追い詰められてこの地で自決した。

越生町のHP

幕末の人物といっても、何回も写真を撮っている伊藤博文のような人物は例外で、一葉の写真しか残っていない人物が多い。そうすると、その一枚の写真写りというのが、その人の評価にも関わってくる。
たとえば、中原中也も帽子を被った例の写真の写りがよかったから更に名声を得たとも言える(?)し、松平容保なども写真写りがよかったといえる。
平九郎も、残っている写真は紛れもなくかっこいい。
いかがでしょうか?



池田筑後守


河田相模守


渋沢平九郎

幕末諸隊 秋田書店 栗原隆一
悲劇の戊辰戦争 小学館
島霞谷 松戸市戸定歴史館
幕末の志士199 学研

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龍馬・総司の字体

2009年08月05日 | 江戸の幕末
新人物往来社から沖田総司、土方歳三、坂本龍馬の三士の手紙の複製が発刊されている。
手紙の他に小冊子がついているが、その記事の中で興味深かったのは、筆跡鑑定である。

性格分析を行っているのは、筆跡鑑定家の森岡恒舟氏。

大変面白かったので、上の三人の性格分析をまとめてみる。

沖田総司・・・優秀な運動神経の持ち主。重い剣を遣う。迫力と非情さを感じる。人から頭を押さえられると反発する。人から支配されるのを好まない孤高型。心身のどこかに苦しいところが感じられる。字体としては源義経と似ている。

土方歳三・・・頭領的立場よりは付いていくほうで、感受性豊かでロマンチストである。明治に生まれてきたらピアニストになったかも知れない。剣の腕は抜群のものを思わせる。

坂本龍馬・・・字からは運動神経のよさを感じると言う。発想力が豊かで角が立たず、どこにも苦しいところがないように気を配る。楽観的で、豊臣秀吉の字体と似ている部分がある。


驚くほど当たっているが、三人の性格は周知なので、もっとあまり知られていない人の性格もみてもらいたいように思う。


坂本龍馬が姉に宛てた手紙

沖田総司、土方歳三、坂本龍馬の手紙 新人物往来社


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舟橋

2009年08月01日 | 江戸の交通
前回、佐屋路について述べたが、宮からは東海道と中山道を結ぶ美濃路という脇往還も通っていた。
土地勘がないと分かりにくいのだが、美濃路は宮から名古屋、清州、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣を経て垂井に至る道である。
現代の土地名でいうと、名古屋から清州、稲沢、一宮を経て大垣、垂井に至る道のりである。
この宿の一つ、起は、舟橋で有名であった。
この橋は、起川(木曽川)上に架けられたものである。
270隻の舟の上を橋を渡し、全長は800mになった。
起川は通常は渡船によって渡ったが、将軍上洛時や朝鮮通信司が通行の際は、臨時の舟橋を設けた。
この橋を渡す労力はかなりのもので、撤収にも何ヶ月も掛かったという。

この川は、吉宗が輸入した象も渡った。
その際は三方を囲んだ巨大な筏をつくり、その絵に象を乗せて運んだという。


模型は一宮市尾西歴史民族資料館にて見ることができる。
0586-62-9711 一宮市起字下町211番地 月曜休館

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