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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

天狗党の危うさ

2014年08月21日 | 幕末エピソード集
福井県敦賀市。
敦賀駅からもそう遠くない地に、天狗党党首・武田耕雲斎の銅像が建つ。
銅像の脇には、歴代水戸市長らの名を冠した記念植樹が植わっている。
知る人は多くないと思うが、水戸市と敦賀市は姉妹都市なのだ。
水戸と敦賀の結びつきは、元治二年(1865年)まで遡る。
この年、京を目指して進軍していた天狗党の面々が敦賀の地で大量処刑に遭っている。
敦賀の人は天狗党に対して同情的で、切腹も許されず、罪人のように斬り捨てられた天狗党の諸士を手厚く葬った。
これが縁となって敦賀氏と水戸市の姉妹都市提携が結ばれた。

では天狗党と何か、天狗党の目的は何か、と言われると答が長くなる。
すごく乱暴な私見を披歴すると、「家中の派閥争いに勝つため」と言える。

水戸家では天狗党と諸生党と呼ばれる二代派閥がしのぎを削るように争っていた。
「争っていた」などという言い方は手ぬるく、「血みどろの抗争」とでもいったほうがいい、民族紛争にも似たドロドロの戦いを繰り広げていた。
徳川斉昭は名君だったと指摘する人もいるが、私はちっともそう思わない。

ここでは天狗党うんぬんを述べるのが本論ではないので、話を戻す。

捕えられた天狗党員は、取り調べを受けて、その結果により死罪か否かを決められたいた。
取り調べといってもごく簡単なもので、
「進軍中、お前は刀を取って戦ったか?」
の一問だった。
諾といえば死罪、否といえば死罪には処せられなかった。
NOといえば助命される。
Yesと答えれば打ち首に遭う。
隠れキリシタンの境遇にも似ているようにも思えるが、一種の危うさを感じてしまう。
捕えられた者は約800名。
刑死者は353名。
半数近くが自らの意志で死を選んでいる。
だが、果たして集団の中で自分の主張を表だって言える人間がどれほどいたことか。
武田耕雲斎の孫、武田金次郎が死罪を免れたのも、問いに対して、
「否」
と答えたからだ。
これは周囲の説得があったからに違いない。
家庭事情だとか、天狗党を守るためにだとか、自らの意思というよりも周囲に「選定」されて生死が決定されてしまったのではないだろうか。
先に「危うい」と述べたのは、この「集団的判断」だ。

幕末、水戸家は雄藩と並ぶほどの期待を浴びながら、近視眼的に「家中」での政争に汲々として、気が付いてみれば、維新の蚊帳の外に置かれていた。
優秀な人材も殺し合いで絶えていた。

幕末史上、最大の汚点とも言える天狗党の乱の事後処理だが、もしかすると、処罰した幕府側もこれまで多くの人間が「Yes」と答えるとは思っていなかったのかも知れない。
幕末の水戸家では自分の意見を言えるような雰囲気ではなかった。
自分の考えを主張すれば、簡単に抹殺されかねなかったのだろう。
高い教養を持ち、御三家としての格式も身分も持ち合わせた水戸家にあって、これほどひどい環境に陥ってしまった原因は何かと考えされられる。
原因は何であれ、個人個人が自分の意見を主張できる世界。
何よりも大事なものだと思う。

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天誅組隊士のその後

2014年03月17日 | 幕末エピソード集
天誅組の変,文久三年(1863年).
尊王攘夷の魁として位置づけられる政変である。
主将に公家・中山忠光。
総裁に岡山の藤本鉄石、土佐の吉本寅太郎、刈谷の松本奎堂。
総勢は38人。

それまで別々であった攘夷思想を尊王思想に結び付け、決起した点は評価できるが、具体的なプランに欠けていた。
直後に起こった8月18日の変で、禁裏から攘夷派の公卿と長州家が一掃されてしまうと、世の情勢は公武合体一色となる。
この時点で、攘夷行動と尊王討幕は再び切り離されて考えられるようになる。
世の中の情勢が自分たちに不利なように動いても潔く退けないところが若さである。
若い天誅組員も、振り上げた拳を下すことができず、猪突猛進していくことになる。

結果として、38人の中で生き延びたのは4人。
「広報ひがしよしの」に4人のその後の消息が書かれている。
非常に興味深いので、抜粋してみる。

平岡鳩平・・・・・天保四年、法隆寺村出身。明治以降、北畠治房(はるふさ)と改名。天誅組当時、追討軍探索隊として先行するが、そのまま逃亡。明治五年、江藤新平に認められ司法省に入局。横浜開港裁判官、京都裁判所所長、東京裁判所所長、横浜裁判所所長、大審院判事などを歴任。奈良県が大阪府から分かれて誕生する際に尽力。明治二十九年、男爵。大正十年死去。享年89歳。

伊吹周吉・・・・・天保十年、高知県安田町出身。後に、石田英吉と改名。天誅組の変以降、長州に走り、翌年の禁門の変にも出征。その後、坂本龍馬の海援隊にも参加。明治になると、長崎県大参事、秋田県県令、長崎県令、千葉県知事、高知県知事を歴任し、第一次伊藤博文内閣で農商務次官。そのご、貴族院勅撰議員。明治二十九年男爵。明治三十四年死去。享年62歳。

水郡(にごり)長義・・嘉永五年、富田林出身。天誅組には、父親である小荷駄奉行・水郡善之状祐とともに従軍。当時、13歳。維新後はアメリカに留学。帰国後、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任。明治四十三年、死去。享年59歳。

伊藤三弥・・・・・・天保七年、刈谷出身。後に伊藤謙吉と改名。天誅組には、同郷の松本奎堂、宍戸弥四郎と共に参加。岩倉具美に親書を届けると言って戦線離脱。明治になると、佐賀、徳島の始審裁判長を歴任。三重県大書記官を経て、衆議院議員。高知県寒川鉱山を経営、東京歌舞伎座社長、東京株式取引所理事を務める。大正六年死去、享年82歳。

抜粋にならないくらい、輝かしい歴々の面々である。

吉村寅太郎ら天誅組の隊士の一部は、明治十六年になって靖国神社に合祀され、明治二十四年には贈位が行われた。
松本奎堂や宍戸弥太郎は生誕の地である刈谷や、戦死した場所には石碑が建てられた。

だが、生き残った者の活躍をみると、死んだ者のために建てられた石碑がなんぼのもんじゃい、と思われてくる。
幕末を見ると、非常に優秀な人物も呆気なく死んでいる。
坂本龍馬しかり、清水港の咸臨丸上で斬り殺された春山兄弟。
呆気なくはないが、五稜郭で戦死した中島三郎助、自決した川路聖漠謨、長岡の河合継之助。
明治以降に生き延びていれば、間違いなく活躍した人物である。
その一方で、榎本武揚のように、死のうとしても死ななかった強運の人もいる。
改めて運の不思議さを感じる。
それにしても、生き残った者が勝ちなんだなあ、と改めて思った。


刈谷市にある松本奎堂石碑

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志士と女

2013年03月31日 | 幕末エピソード集
学生運動が盛んだった時代、私はまだ洟垂れ小僧だったので、内容はよく知らない。
けれども、幕末の志士と言われる人々の行動を見ていると、学生運動に身を投じた人たちと似ているような気がする。
志士とはそれまでは意見を求められなかった被支配層にある下級武士、農民、町民などを中心として構成されていて、学生もまだ社会的に力を持たないと言う点で似ている。違っていたのは時代のうねりが志士に味方したという点である。
学生運動は徹底的に弾圧され鎮火していったが、志士の活動は弾圧する幕府の弱体化もあり、却って火に油を注ぐ格好となった。
もともと志士とは、中国では道徳的勇者を指したが、日本では「有志之士」の略であり、「天下のために憂うる人」を意味した。
幕末になって初めて現れたのではなく、田沼時代以降、幕藩体制に揺らぎがみえる頃になるとちらほらと現れた。
さらに黒船来航後、幕府が野にも広く意見を求める姿勢を打ち出すと、春になって地中の虫が地上に姿を現すかのように、次から次へと表出するようになった。
尊王攘夷を声高に叫ぶ志士たちを幕府は弾圧するようになるが、そうなると志士はテロリストとしての性格を強めていった。
安政の大獄(安政六年・一八五九年)から桜田門外の変(万延元年・一八六十年)辺りからで、この後、暗殺件数は急速に増えていく。
明治の指導者となった雄藩の政治家たちもテロリスト上がりであるが、自らが政権を取ると、自分たちの行ってきた所業には蓋をして、テロ活動禁止を命じている。

既述したように下級階層の人間が多く、しかも二男三男が多かった。この余計者意識が志士に冷酷な所作をものともしない果断な決断を与えたともいえる。
志士の年代別構成を見ると、20~30歳が全体の65%を占める。
若く、憂国の士という自己陶酔を身にまとい、明日をも知れない命ともなれば、生活は退廃的なものとなる。
志士の生活に酒と女と馬鹿騒ぎはつきものであった。
芳賀登氏の「幕末志士の生活」を引用する。

暗殺にあけくれる志士たちは、みずからまいた種をみずから刈りとらねばならない乱世の到来をかなり恐れていたのではあるまいか。
人を殺せば、自分もまた殺されねばならない。そうした生命の危機感が、彼らをして、いっそう狂気の騒ぎへいざなっていくのであろう。


このような心境から、志士たちは派手な女遊びをするようになる。
伊藤博文(俊輔)などはその典型的な例で、政府の高官になってからも女遊びは止まることがなかった。
明治当時、「不潔な娯楽に日を送る、チョイト不忠なひひ老爺{じじい}」という戯れ歌が流行ったらしい。
愚直な権力者と言われた山県有朋(狂介)の場合はどうであろう。
伊藤之雄氏は「山県有朋」(文芸春秋)の中で、次のように書いている。文中のつるとは当時山県と深い仲にあった女性で、時は文久二年(一八六二年)、山県が結婚する五年前の話である。

山県はつるを妻にしようとしたが、つるが長女であったのでそれができなかったという。山県は優等生的青年でありすぎ、優しい一面があった。このため、倒幕に命をかける勇気はあっても、中村つるを強奪するような情熱はもちあわせていなかった。

まったく逆な記述もある。
前出の「幕末志士の生活」を再び引用する。

後年、謹厳で有名となった山県有朋などは、狂介時代には美人漁りで有名で、伊藤俊輔をしのぐほどの機敏さであったといわれている。
彼は、馬関稲荷屋の芸者お職女郎津山太夫におもいをかけていたが、津山が名題の女であったので、あきらめざるを得ず、その後、報国隊の壮士仲間で長府藩士の石川良平の娘に目をつけた。
嫁にもらいうけたいと申しこんでも、なかなからちがあかなかったので、ごうを煮やした山県は壮士とともに宅へ入りこみ、掠奪結婚をしてしまった。これが山県の第一夫人のお友の方である。


このふたつの間には、五年の歳月が存在する。
五年は、多感な青年にとって長い。
多分、このふたつとも真実なのだろう。
失恋の痛手を負った山県青年は、志士の生活にのめりこんでいって、退廃的な暮らしに染められていったのだ。

志士としての生活は想像を超えるような刺激と魅力と危険に満ちていたに違いない。
伊藤博文にしろ、志士の生活で知り合った馬関芸者・お梅を妻にしている。
その他に芸者を妻にした例としては、木戸孝允の祇園芸者・幾松、陸奥宗光の新橋芸者・小鈴などが挙げられる。
芸者との間に、戦友のような意識が働いていたのは想像に難くない。

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ある明治人の記録

2011年07月14日 | 幕末エピソード集
旧会津藩士ながら、陸軍大将にまで登りつめた柴五郎が晩年に認めた書をまとめた「ある明治人の記録」。
もっとも有名な箇所は、下北半島陸奥国に封された五郎ら家族が、飢えのため、犬を食べる場面であろう。

武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らうて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。

犬肉が喉につかえて、吐き気を催した五郎少年を父親が叱責する場面である。
カニの爪のように伸びた下北半島は両側を海に囲まれ、冬の寒さは、同じ北国である会津藩士の想定外のものだった。
会津藩士は、この地を希望を持って、斗南藩と名付けた。これより南はみな帝の地であるとの意である。しかし、陸奥の自然は、会津藩士の希望など吹き飛ばすほど過酷なものだった。
斗南藩への移転は政府の強制であったのだが、実は会津藩にはもうひとつの選択肢があった。旧領地である猪苗代への移封である。狭くて慣れた土地か、広いが辺境の地の、二者択一を迫られたのである。
そのとき、広沢安任の提言があった。

蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国、広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。

敗戦の後遺症が強く残る猪苗代よりは、未知であっても可能性の残る陸奥へ行こうという気風があったと思われるが、広沢の進言により、背中を押された会津藩は、結局、自らの意思で下北半島への移住を決める。
その割には、リサーチが徹底的に不足していて、厳寒の地に赴くのに、あまりにも準備不足であった。

会津よりこの地に移封さるるとき、陸奥の地がかくも乏しき痩地なりとは知らず、希望を抱きてはるばる来つるものを、いまになりて嘆き怒りても甲斐なし、ただひたすらに堪えぬくばかりなり。

この驚くほどの無知さは、まだ幼かった五郎少年のものであるが、案外、藩士全体の共通認識だったかも知れない。
では、ものすごくリサーチが行きとどいていたら、猪苗代に行ったのかというとそれも疑問だ。与えられたのが順境でなく、逆境であっても、見事乗り越えるのが武士魂であるといった意地が会津藩士にあったからだ。

会津の士は正義の士であったとはよく聞く。
幕末の幕臣も、腹芸の下手な人物が多かった。
それに比べ、西軍には、策士が豊富だった。

正義の定義は状況により変わる。
会津兵は馬鹿が付くほど正直であったし、倒れ行く幕府を支えようとした幕臣の中にも正直な人間が多かった。
しかし、戦時には正直が必ずしも正義となるとは限らない。
嘘をつき、腹芸を使うのが、戦争回避となるならば、『嘘も方便』ではないだろうか。
戦争には、一方的な正義も、一方的な悪もない。
そして、戦争を回避できるのなら、卑怯と言われようと、卑屈と言われようと徹底的に避けるべきであるというのがわたしの考えである。
同じような考えを藤原帰一氏が端的に述べておられるので、引用する。

平和って、理想とかじゃないんです。平和は青年の若々しい理想だとぼくは思わない。暴力でガツンとやればなんとかなるっていうのが若者の理想なんですよ。そして、そんな思い上がった過信じゃなく、きたない取引や談合を繰り返すことで保たれるのが平和。この方がみんなにとって結局いい結論になるんだよ、年若い君にとっては納得できないだろうけれどもっていう、打算に満ちた老人の知恵みたいなものなんです。

近頃の軍人は、すぐ鉄砲を撃ちたがる、国の運命を賭ける戦というものは、そのようなものではない(柴五郎)

ある明治人の記録 石光真人編著 中公新書
正しい戦争は本当にあるのか 藤原帰一 ロッキン’オン

広沢安任については青森県総合社会教育センターHP


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壮士の墓~咸臨丸の災難・清水港

2010年09月15日 | 幕末エピソード集
菅VS小沢の勝負は菅総理の勝利をもって終結したが、敗れた小沢氏も表面上は、にこやかな笑みを絶やさないでいた。
話し合いや選挙で結果が得られるところが民主主義のよいところだ。
江戸幕府から明治政府への移行も一部の反乱軍を除いて、平和裏に成されたという表現を多々見受けるが、決してそんな綺麗事で済まされるものではなかった。

先日、静岡の清水港の近くを走っていると「壮士の墓」という文字がナビに現れた。
さっそく車を走らせると、その墓は咸臨丸の船員のものであった。
事の経緯は、こうだ。

慶応四年八月一九日夜半、榎本武揚は品川港を出航し、箱館を目指した。開陽、回天、蟠竜、千代田形の軍艦四隻、神速丸、長鯨丸、咸臨丸、美加保丸の運送艦四隻の榎本艦隊である。艦隊は品川から房総沖を通って仙台へ向かう予定であった。
出航の際には悪天候が予想されたが、翌日は晴れ間が見えた。その艦隊には、松平定敬、元陸軍奉行の松平太郎、渋沢成一郎以下、彰義隊の残党、伊庭八郎率いる遊撃隊、新選組など二千余人が乗船していた。中には澤太郎左衛門、松岡磐吉のように長崎の元海軍伝習所生も混じっていた。
しかし、艦隊が犬吠埼に差しかかる頃、猛烈な嵐に遭遇し、美加保丸は鹿島灘に沈没、咸臨丸は救助の蟠竜丸に伴われて下田から清水港に回り、修理を行っていた。
清水港に回ったのは徳川宗家のいる駿府に行き、降伏するためだったとも言われている。
一方、咸臨丸が下田から清水方面に向かったと方を受けた政府軍は艦隊を進め、清水港に着く。
咸臨丸の副館長・春山弁蔵は白旗を揚げて降伏を試みる。船員は多くが上陸していたし、咸臨丸はマストを折って、自力航海不能となったときから、交戦の意図を失っていた。
乗り組んだ政府軍は榎本隊の意思を無視して、そのほとんどを斬殺してしまう。
さらにひどいのは、海中に投げ捨てた死体の引き上げ、埋葬を禁じたことである。
江戸時代、死罪に処せられた罪人が埋葬を禁止されたのと同じ理屈であり、上野の彰義隊の死体も当初は投げ捨てであった。
もっとも、この禁止令には異論もあって、徳川側が政府に遠慮して自粛したという説もある。

この死体を自らの危険を冒して埋葬したのが清水の次郎長である。
次郎長が引き揚げたのは、副館長であり、長崎海軍教習所の一期生でもあった春山弁蔵と鉱蔵の兄弟、加藤常次郎、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、長谷川得蔵の七人。
後日、次郎長の功をねぎらい、墓の文字を書いたのが山岡鉄舟であった。

榎本艦隊は反対勢力には違いなく、その中には薩長からすれば、憎き会津藩士や新選組隊員なども含まれる。
けれども、日本古来の美徳とされてきた思いやりや武士道と言われてきたものは、この状況からは全く消え失せてしまった。
政府の裁断とはいえ、あまりにもひどい仕打ちである。
それゆえに、次郎長の行為が美談として伝承されたのであるが、勝敗がついてもノーサイドとならないのが戦争である。
繰り返して言うようだが、幕末~明治は決して無血革命などではなかった。



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美しい国

2010年06月06日 | 幕末エピソード集
黒船の来航に、日本政府は慌てふためいて、成す術もなく右往左往していたのであろうか。
開国すれば、鎖国という国策を放棄しなければならなく、攘夷をスローガンにしている幕府にしてみれば、矛盾を含んだ問題であった。
江戸時代は徳川の独裁政治であったと思う人も多いかもしれないが、決してそのようなことはなく、現在でいえば、超有力な一政党が徳川であったという表現のほうがよい。
海外から交渉に来るのは、プチャーチン、ペリー、ハリスなど有能な人物ばかりである。
上からの方針は、はっきりしない。
そのようなジレンマの中、外渉に当たった人物の苦労には頭が下がる思いがする。
川路正路、岩瀬忠震、永井尚志などである。
隣の清国では侵略・略奪を繰り返した諸外国が日本に対しては、きわめて紳士的に振舞っている。
これは交渉に当たった日本側の人的な努力が大きい。
だが、もうひとつ大きいのは日本の持つ風土である。
日英修好条約を結びに来たイギリス使節エルギン卿とともに来日して『エルギン卿遣日使節録』を表したローレンス・オリファントが両親に充てた手紙の中に日本の感想が述べられている。

「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は、貧しさや物乞いのまったくいない唯一の国です。わたしはどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます。もしかりに私がその国の総領事に任命されたならば、お母さんもパパもきっと喜ぶでしょう」

日本を美しい国であるといった首相がいたのは随分前のことのような気がするが、実際に日本は美しい国であった。
沖縄問題くらいで揺れ動き、「国民が耳を傾けなくなった」と首相が政権を放棄してしまう今の日本。
責任を転嫁する積もりではないが、大丈夫だろうかと思ってしまうのは、わたしひとりではあるまい。


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薩摩藩士、強さの秘密

2009年07月13日 | 幕末エピソード集
上野の森で彰義隊が壊滅した後、薩摩藩士は死体の太股の肉を抉って食した、とどこかの本で読んだ記憶がある。
どこで読んだのか定かでなく、真偽のほども怪しいのであるが、あり得ない話ではないと思った。事実だとすると、薩摩藩士は、肝試しの一環として行っていたのであろう。
徳川泰平三百年の間に士風は廃れ、武士は弱体化したのに、薩摩藩士のみが闘争本能を全開にした勇者、蛮者の群れだったのであろうか。

司馬遼太郎の小説に、薩摩藩士の肝試しの場面が出てくる。
天井から紐で結んだ火縄銃を吊るし、車座になって酒を飲む。吊された火縄銃はゆっくりと回転している。いつ暴発してもおかしくない状況で平然と酒を飲めなければ、一人前の薩摩藩士とは認められなかったという。
精神を鍛えるという意味のほかに、団結心を強める効果を狙った肝試しだと思う。
団結心が強まると、人は、独りでは考えもしなかったような行動に出る時がある。集団心理である。

一方の幕府軍はどうであろうか。
渋沢清一郎の後任として彰義隊の頭取となった天野八郎が、官軍と一戦を交えている時に部下を背後に従えて、黒口門に駆け上がった。「俺についてこい」と勇ましく叫んで走っていったのはいいが、敵弾の飛び交う黒口門まで行って後ろを振り向くと、ついてくる者は誰もいなかった、というエピソードがある。

幕府軍では、負けそうになると我先に逃げ出すという集団心理が働いたのに対し、薩長ではたとえ敗色が濃くても一歩も引いてはならないという集団心理が働いた。
戊辰戦争における勝敗の差は、作戦の是非や火力の差などといわれるが、発生した集団心理の違いも勝敗に大きく影響を及ぼしたのではないだろうか。

薩摩藩士が彰義隊士の人肉を食したというのもひどい話であるが、薩長藩士は会津藩の領民には、もっとひどい仕打ちを行っている。

官軍という名の薩長兵は婦女子を捕らえて裸踊りを強要し、抵抗する者があれば情け容赦なく、一刀のもとに斬り殺した。
(中略)男女老幼区別なく、殺し、強姦を重ね、藩内の妻や娘らを陣所や宿舎などに捕らえて来て、侍妾とするものもいたので会津藩士はおおいに憤慨した。


正義や忠義心を口にする前に、人としての道はどこへ行ってしまったのだろう。
この時、暴行を行った薩長藩士の中にも、年頃の子供を持つ親もいただろうし、老いた親を持つ者もいたであろう。
それが、会津藩の領民というだけで、強姦したり、虐殺してしまうのは、一対一の人間同士ではなし得ない行為である。
その時、働いているのも集団心理だ。
虐殺や強姦に反対などしようものなら、自分自身まで殺されかねないという状況もあったのだろう。
だからといって、許される行為ではない。だが、戦という名の下に、罪は問われることはない。普段だったら殺人であり、略奪であっても、戦争時には、正当な行為と見なされる。
このような行為を非難する前に、戦争そのものを非難しなければならないのだ。
幕末は江戸無血開城が行われるなど、流血の痛みなしに成し得た革命だという説があるが、決して無血革命などではない。明治維新といえども、失われなくてもよい沢山の血の上に成り立ったものであるという事実を忘れてはならないと思う。


幕末・維新の群像(4)~悲劇の戊申戦争 小学館

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小枝橋~滝川播磨守の判断

2009年07月06日 | 幕末エピソード集
戊辰戦争の際、勝敗を分けたのは火力の差であったという説をよく耳にする。
新政府軍はアームストロング砲を始めとして英国流の兵器を多数所持していた。
だが、幕府軍もミニエー銃や山崎関門にはカノン砲などフランスの指導による兵器を所持しており、単純に新政府軍の火力が優っていたとは断言できない。
たとえば、前回書いたように、山崎関門でも、新政府側に転向した津藩は、対岸の福井・小浜藩と淀川を挟んで砲撃戦を行ったが、幕府側の死傷者が300名を超えたのに対し、津藩の死者は僅かに1人であった。
津も当初は幕府側に従くと決めていた。当初から有意な戦法が取られていれば、明らかに火力で優勢な拠点となったはずである。

ここでいささか疑問に思うことがある。
戊申戦争は、小枝橋の小競り合いから始まった。
北上する幕府軍の指揮者である大目付滝川播磨守具挙と薩軍の間で、淀川を渡る小枝橋を「通せ」「通さぬ」の押し問答が続いた後、強引に進行しようとした幕府軍に薩軍が発砲し、戊申戦争の初端を開かれた。
薩摩としては、相手が先に攻撃してくるのを待っていたのだが、結局、幕府の強引な進軍によって開戦に踏み切った。
薩摩藩は配下の浪士隊を使って江戸の町を攪乱扇情、開戦のきっかけを作ろうとした。
薩摩の挑発に乗ったような格好で三田の薩摩邸を焼き討ちした幕府であるが、結局、これも直接は開戦に結びつかない。

いずれは始まったであろう戊申戦争ではあるが、薩摩も幕府も相手に刀を先に抜かせようとしていた。
特に、薩摩は相手が先に抜いてくれる必要があったのだが、結果としては、最初に手を出している。
これ以降、開戦の正当性というのは曖昧なままに本格的な戦いに突入していく。
薩摩側は、ここまで苦労して工作してきた割には、何となく開戦してしまった感がある。

しかし、逆から見ると、滝川播磨守の態度には、薩摩を開戦に踏み切らせるようなものがあったのだろう。
そして、播磨守は、まさかここで薩摩が発砲してくるとは考えていなかったに違いない。

あまり指摘されていないが、戊申戦争の幕府側の敗退は、現場指揮者、敢えて言えば、滝川播磨守の判断ミスが大きな要因になっているといえる。



昔の小枝橋は、今はコンクリートの橋となっていて昔の面影はない。現場には、石で出来た標識と簡単な説明板が残るのみである。


南の方角を眺める。昔は田んぼ道だったいうが、幕府軍はその田舎の道を歩いて来たのだろう。緊迫感が薄く、ここで攻撃されるとは思っていなかったと想像される。


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藤堂藩の寝返り

2009年04月20日 | 幕末エピソード集
幕末史において、津藤堂家の戊辰戦争における『裏切り』が幕府の敗北を決定付けた、という表現がよく見られる。その行為に関しては、『幕府軍が不利とみるやいなや転向した』とか『高虎以来寝返りの家風であるから』などというのが一般の風評だ。
しかし、これは単眼的な偏った見方で誤解である。

幕末は結局、薩長と幕府の政権交代の戦いでしかなかった。そこに攘夷だとか、尊王だとか、もっともらしい理由をつけてはいるが、早い話、現在の政権争いとまったく変わらない。攘夷やら尊王というのは、彼らにとっては思想というよりも政策であった。
多くの藩が勝ち組につきたいのは人情である。だが、雄藩、幕府どちらが勝つのか分からない。
戊辰戦争の時期はまさにそういった混沌とした時であり、どの藩も、どちらに就くのか鮮明にしていない。

津藩はその最たるものであったかも知れない。
津は、外様ではあったが、準譜代の扱いを受けており佐幕であったが、長州征伐の頃から局外中立に転じている。
一応ニュートラルなポジションを置いていたわけで、すぐに倒幕に傾いたわけではない。

もともと、津は勤皇思想の強い土地であり、しかも、開明派も多かった。
公武合体はこの藩のもっとも望むところであったが、攘夷は本心ではなかった。

山崎奉勅と言われ、幕府軍に砲撃を加えた津藩ではあるが、この時、藩主の高猷の指示は、「砲門は開くな」との厳命であった。
これには伏線がある。
当時、砲門を指揮していたのは藤堂采女と吉村長兵衛であった。
この両名のところには、幕府、薩軍双方から、味方になるようにと使者が来た。
幕府の使者としてやってきたのは、滝川播磨守であった。
この人選は、まったくの誤りであった。
天誅組の際、津藩も制圧に当たっていて、采女、長兵衛の両名も出動している。その際に総指揮をとったのが滝川であった。
津は勤皇思想の強い土地柄で、天誅組にも同情し、捕らえた後も厚遇している。幕府に渡す際も、寛大な処置を依頼している。それなのに、滝川は津藩の意向をまったく無視、全員を極刑に処している。
ただでさえ、滝川憎しの感情のあるところに加え、孤立する砲台に幕府軍を少人数でも送りこんでくれれば、旗色も鮮明にできると申し出たのに、幕府軍は一人もやってこない。多分、滝川はその場では、いい返事をする人間だったのであろう。
天誅組の時も、砲門の時も、返事はいいが、実行が伴わなかったため、反感は大きくなる。
そうこうしているうちに、薩軍が錦の御旗を持ち、再度接触してきたので、采女、長兵衛もそれ以上は、要請を拒めなかった。
この時、両名は高猷の許可を得ておらず、切腹の覚悟だったという。
これはかなり苦渋の判断であったわけだが、現場を預かる指揮官としては、ぎりぎりの選択であったのだろう。

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凌霜隊と陰謀

2009年03月20日 | 幕末エピソード集
郡上八幡は、郡上踊りで有名である。
振り付けはごく簡単であるゆえに、誰でも参加できる。
振り付けが簡単がゆえに、奥が深いとも言えるのだが。
郡上でもうひとつ有名なのは、郡上一揆であろうか。
映画にもなった(ひどく分かりづらかったが)この一揆が起こったのは、宝暦年間。
領主金森家は、領地を取り上げられ、その代わりに封せられたのが青山家。
東京の青山の地名の由来となった殿様である。八幡藩は、石高四万八千石。
幕末、この藩に凌霜隊(りょうそうたい)という隊があった。
手元の「藩史辞典」を引いてみる。

戊辰戦争の際、会津若松城に立てこもった「凌霜隊」は八幡藩の脱藩者であった。

と簡単に一行で済ませている。
郡上八幡の歴史博物館に行っても、幕府に忠義を尽くした正義の徒、のようなことが書かれている。
しかし、これは、大きな間違い。
それらの事情については、栗原隆一氏の「幕末諸隊一〇〇選」が詳しい。
内情を知ると美談どころか、藩内の政争絡みのひどい話である。

幕末の八幡藩には二大勢力があった。

①江戸家老、朝比奈藤兵衛・・・勤皇派
②国家老、鈴木兵左衛門・・・佐幕派

藩主幸宣は、まだ14歳でしかない。
明治元年。戊辰戦争が始まると各藩は、勝ち組につこうとして、勤皇派となるか、佐幕派となるか態度を決めかね、日和見を続けていた。
その中にあって、兵左衛門は、勤皇軍が八幡藩に援軍を求めた際に、出兵を承諾した。
老獪な兵左衛門は、もし幕府軍が勝利を収めたときのことも考えて、徳川軍にも援軍を送っている。
どちらが転んでも名分が立つようにである。しかし、公に佐幕軍を送ったのではまずいので、脱藩者という扱いにした。
数は47名に過ぎない。隊の名ばかりは、「凌霜隊」と勇ましいものにした。青山家の紋章である菊が冬を耐えて春を待つところからつけられたという。
さらに、兵左衛門の狡猾なところは、「凌霜隊」の隊長に藤兵衛の長男であり一子の茂吉を選んだことである。
勤皇派が勝てば官賊として藤兵衛を退け、もし、幕府側が勝てば、自らの発案とばかりに手柄を独り占めできる。
三月に結成されたこの隊は、半年に亘る歴戦のすえ敗戦。11月に郡上藩に戻された。
その際、茂吉は囚人なみに唐丸篭に入れられ、「朝敵之首謀者・朝比奈茂吉」と大書きされていた。
隊士は、全員死罪を言い渡されるが、新政府の命により、放免された。
もとは勤皇派でもあった藤兵衛ではあったが、家族から朝敵を出したとされ、二千石取りから平侍に格下げとなった。
それを言い渡したのは、もとは、佐幕派であったが、いまや新政府の大参事となった鈴木兵左衛門であった。

栗原氏は、凌霜隊の目的を「郡上藩存続のための犠牲部隊」としている。
とても分かりやすい説明だ。

前にも書いたが、幕末に正義はない
あるのは自陣が有利となるか、不利となるかの算盤勘定だけである。


八幡城。


城から城下を望む。

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幕末諸隊一〇〇選 栗原隆一 秋田書店  ← 名著です!!
藩史辞典 藤井貞文・林睦郎監修 秋田書店
大名の日本地図 中嶋繁雄 文芸新書

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