木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

天狗党の危うさ

2014年08月21日 | 江戸の幕末
福井県敦賀市。
敦賀駅からもそう遠くない地に、天狗党党首・武田耕雲斎の銅像が建つ。
銅像の脇には、歴代水戸市長らの名を冠した記念植樹が植わっている。
知る人は多くないと思うが、水戸市と敦賀市は姉妹都市なのだ。
水戸と敦賀の結びつきは、元治二年(1865年)まで遡る。
この年、京を目指して進軍していた天狗党の面々が敦賀の地で大量処刑に遭っている。
敦賀の人は天狗党に対して同情的で、切腹も許されず、罪人のように斬り捨てられた天狗党の諸士を手厚く葬った。
これが縁となって敦賀氏と水戸市の姉妹都市提携が結ばれた。

では天狗党と何か、天狗党の目的は何か、と言われると答が長くなる。
すごく乱暴な私見を披歴すると、「家中の派閥争いに勝つため」と言える。

水戸家では天狗党と諸生党と呼ばれる二代派閥がしのぎを削るように争っていた。
「争っていた」などという言い方は手ぬるく、「血みどろの抗争」とでもいったほうがいい、民族紛争にも似たドロドロの戦いを繰り広げていた。
徳川斉昭は名君だったと指摘する人もいるが、私はちっともそう思わない。

ここでは天狗党うんぬんを述べるのが本論ではないので、話を戻す。

捕えられた天狗党員は、取り調べを受けて、その結果により死罪か否かを決められたいた。
取り調べといってもごく簡単なもので、
「進軍中、お前は刀を取って戦ったか?」
の一問だった。
諾といえば死罪、否といえば死罪には処せられなかった。
NOといえば助命される。
Yesと答えれば打ち首に遭う。
隠れキリシタンの境遇にも似ているようにも思えるが、一種の危うさを感じてしまう。
捕えられた者は約800名。
刑死者は353名。
半数近くが自らの意志で死を選んでいる。
だが、果たして集団の中で自分の主張を表だって言える人間がどれほどいたことか。
武田耕雲斎の孫、武田金次郎が死罪を免れたのも、問いに対して、
「否」
と答えたからだ。
これは周囲の説得があったからに違いない。
家庭事情だとか、天狗党を守るためにだとか、自らの意思というよりも周囲に「選定」されて生死が決定されてしまったのではないだろうか。
先に「危うい」と述べたのは、この「集団的判断」だ。

幕末、水戸家は雄藩と並ぶほどの期待を浴びながら、近視眼的に「家中」での政争に汲々として、気が付いてみれば、維新の蚊帳の外に置かれていた。
優秀な人材も殺し合いで絶えていた。

幕末史上、最大の汚点とも言える天狗党の乱の事後処理だが、もしかすると、処罰した幕府側もこれまで多くの人間が「Yes」と答えるとは思っていなかったのかも知れない。
幕末の水戸家では自分の意見を言えるような雰囲気ではなかった。
自分の考えを主張すれば、簡単に抹殺されかねなかったのだろう。
高い教養を持ち、御三家としての格式も身分も持ち合わせた水戸家にあって、これほどひどい環境に陥ってしまった原因は何かと考えされられる。
原因は何であれ、個人個人が自分の意見を主張できる世界。
何よりも大事なものだと思う。

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。
人気ブログランキングへ


天誅組隊士のその後

2014年03月17日 | 江戸の幕末
天誅組の変,文久三年(1863年).
尊王攘夷の魁として位置づけられる政変である。
主将に公家・中山忠光。
総裁に岡山の藤本鉄石、土佐の吉本寅太郎、刈谷の松本奎堂。
総勢は38人。

それまで別々であった攘夷思想を尊王思想に結び付け、決起した点は評価できるが、具体的なプランに欠けていた。
直後に起こった8月18日の変で、禁裏から攘夷派の公卿と長州家が一掃されてしまうと、世の情勢は公武合体一色となる。
この時点で、攘夷行動と尊王討幕は再び切り離されて考えられるようになる。
世の中の情勢が自分たちに不利なように動いても潔く退けないところが若さである。
若い天誅組員も、振り上げた拳を下すことができず、猪突猛進していくことになる。

結果として、38人の中で生き延びたのは4人。
「広報ひがしよしの」に4人のその後の消息が書かれている。
非常に興味深いので、抜粋してみる。

平岡鳩平・・・・・天保四年、法隆寺村出身。明治以降、北畠治房(はるふさ)と改名。天誅組当時、追討軍探索隊として先行するが、そのまま逃亡。明治五年、江藤新平に認められ司法省に入局。横浜開港裁判官、京都裁判所所長、東京裁判所所長、横浜裁判所所長、大審院判事などを歴任。奈良県が大阪府から分かれて誕生する際に尽力。明治二十九年、男爵。大正十年死去。享年89歳。

伊吹周吉・・・・・天保十年、高知県安田町出身。後に、石田英吉と改名。天誅組の変以降、長州に走り、翌年の禁門の変にも出征。その後、坂本龍馬の海援隊にも参加。明治になると、長崎県大参事、秋田県県令、長崎県令、千葉県知事、高知県知事を歴任し、第一次伊藤博文内閣で農商務次官。そのご、貴族院勅撰議員。明治二十九年男爵。明治三十四年死去。享年62歳。

水郡(にごり)長義・・嘉永五年、富田林出身。天誅組には、父親である小荷駄奉行・水郡善之状祐とともに従軍。当時、13歳。維新後はアメリカに留学。帰国後、大阪、和歌山、姫路などの地方裁判所の検事を歴任。明治四十三年、死去。享年59歳。

伊藤三弥・・・・・・天保七年、刈谷出身。後に伊藤謙吉と改名。天誅組には、同郷の松本奎堂、宍戸弥四郎と共に参加。岩倉具美に親書を届けると言って戦線離脱。明治になると、佐賀、徳島の始審裁判長を歴任。三重県大書記官を経て、衆議院議員。高知県寒川鉱山を経営、東京歌舞伎座社長、東京株式取引所理事を務める。大正六年死去、享年82歳。

抜粋にならないくらい、輝かしい歴々の面々である。

吉村寅太郎ら天誅組の隊士の一部は、明治十六年になって靖国神社に合祀され、明治二十四年には贈位が行われた。
松本奎堂や宍戸弥太郎は生誕の地である刈谷や、戦死した場所には石碑が建てられた。

だが、生き残った者の活躍をみると、死んだ者のために建てられた石碑がなんぼのもんじゃい、と思われてくる。
幕末を見ると、非常に優秀な人物も呆気なく死んでいる。
坂本龍馬しかり、清水港の咸臨丸上で斬り殺された春山兄弟。
呆気なくはないが、五稜郭で戦死した中島三郎助、自決した川路聖漠謨、長岡の河合継之助。
明治以降に生き延びていれば、間違いなく活躍した人物である。
その一方で、榎本武揚のように、死のうとしても死ななかった強運の人もいる。
改めて運の不思議さを感じる。
それにしても、生き残った者が勝ちなんだなあ、と改めて思った。


刈谷市にある松本奎堂石碑

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。

人気ブログランキングへ









志士と女

2013年03月31日 | 江戸の幕末
学生運動が盛んだった時代、私はまだ洟垂れ小僧だったので、内容はよく知らない。
けれども、幕末の志士と言われる人々の行動を見ていると、学生運動に身を投じた人たちと似ているような気がする。
志士とはそれまでは意見を求められなかった被支配層にある下級武士、農民、町民などを中心として構成されていて、学生もまだ社会的に力を持たないと言う点で似ている。違っていたのは時代のうねりが志士に味方したという点である。
学生運動は徹底的に弾圧され鎮火していったが、志士の活動は弾圧する幕府の弱体化もあり、却って火に油を注ぐ格好となった。
もともと志士とは、中国では道徳的勇者を指したが、日本では「有志之士」の略であり、「天下のために憂うる人」を意味した。
幕末になって初めて現れたのではなく、田沼時代以降、幕藩体制に揺らぎがみえる頃になるとちらほらと現れた。
さらに黒船来航後、幕府が野にも広く意見を求める姿勢を打ち出すと、春になって地中の虫が地上に姿を現すかのように、次から次へと表出するようになった。
尊王攘夷を声高に叫ぶ志士たちを幕府は弾圧するようになるが、そうなると志士はテロリストとしての性格を強めていった。
安政の大獄(安政六年・一八五九年)から桜田門外の変(万延元年・一八六十年)辺りからで、この後、暗殺件数は急速に増えていく。
明治の指導者となった雄藩の政治家たちもテロリスト上がりであるが、自らが政権を取ると、自分たちの行ってきた所業には蓋をして、テロ活動禁止を命じている。

既述したように下級階層の人間が多く、しかも二男三男が多かった。この余計者意識が志士に冷酷な所作をものともしない果断な決断を与えたともいえる。
志士の年代別構成を見ると、20~30歳が全体の65%を占める。
若く、憂国の士という自己陶酔を身にまとい、明日をも知れない命ともなれば、生活は退廃的なものとなる。
志士の生活に酒と女と馬鹿騒ぎはつきものであった。
芳賀登氏の「幕末志士の生活」を引用する。

暗殺にあけくれる志士たちは、みずからまいた種をみずから刈りとらねばならない乱世の到来をかなり恐れていたのではあるまいか。
人を殺せば、自分もまた殺されねばならない。そうした生命の危機感が、彼らをして、いっそう狂気の騒ぎへいざなっていくのであろう。


このような心境から、志士たちは派手な女遊びをするようになる。
伊藤博文(俊輔)などはその典型的な例で、政府の高官になってからも女遊びは止まることがなかった。
明治当時、「不潔な娯楽に日を送る、チョイト不忠なひひ老爺{じじい}」という戯れ歌が流行ったらしい。
愚直な権力者と言われた山県有朋(狂介)の場合はどうであろう。
伊藤之雄氏は「山県有朋」(文芸春秋)の中で、次のように書いている。文中のつるとは当時山県と深い仲にあった女性で、時は文久二年(一八六二年)、山県が結婚する五年前の話である。

山県はつるを妻にしようとしたが、つるが長女であったのでそれができなかったという。山県は優等生的青年でありすぎ、優しい一面があった。このため、倒幕に命をかける勇気はあっても、中村つるを強奪するような情熱はもちあわせていなかった。

まったく逆な記述もある。
前出の「幕末志士の生活」を再び引用する。

後年、謹厳で有名となった山県有朋などは、狂介時代には美人漁りで有名で、伊藤俊輔をしのぐほどの機敏さであったといわれている。
彼は、馬関稲荷屋の芸者お職女郎津山太夫におもいをかけていたが、津山が名題の女であったので、あきらめざるを得ず、その後、報国隊の壮士仲間で長府藩士の石川良平の娘に目をつけた。
嫁にもらいうけたいと申しこんでも、なかなからちがあかなかったので、ごうを煮やした山県は壮士とともに宅へ入りこみ、掠奪結婚をしてしまった。これが山県の第一夫人のお友の方である。


このふたつの間には、五年の歳月が存在する。
五年は、多感な青年にとって長い。
多分、このふたつとも真実なのだろう。
失恋の痛手を負った山県青年は、志士の生活にのめりこんでいって、退廃的な暮らしに染められていったのだ。

志士としての生活は想像を超えるような刺激と魅力と危険に満ちていたに違いない。
伊藤博文にしろ、志士の生活で知り合った馬関芸者・お梅を妻にしている。
その他に芸者を妻にした例としては、木戸孝允の祇園芸者・幾松、陸奥宗光の新橋芸者・小鈴などが挙げられる。
芸者との間に、戦友のような意識が働いていたのは想像に難くない。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!
人気ブログランキングへ

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=kinkiraumenzu-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4639001614&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>




 



遠島・島流し

2012年02月12日 | 江戸の幕末
遠島の話をします。

江戸時代の刑罰は、基本的には、肉体刑、自由を奪う刑、そして死刑の三種であった。
肉体刑というのは、鞭で打つとか、あるいは各藩独自の刑であるが、鼻や耳を削ぎ落とすといった刑である。
自由を奪うというのは、家に閉じ込める蟄居・幽閉であるとか、手鎖の刑、所払いなど一定の場所への出入りを禁止する刑である。
牢獄へ入るのは、未刑囚であり、現代で行われている刑とは全く異なって、牢獄への収監は刑でなかった。

自由刑で最も重いのが遠島である。
「御定書百箇条」によると、遠島に処せられるのは、人殺しの手引きをした者、指図をして人を殺した者、人殺しの手伝い、寺持僧侶の女犯、客を溺死させた舟主、幼女への強姦・傷害、イカサマ賭博、大八車で人を引っ掛けて怪我を負わせた者などとある。
悪法名高い生類憐みの令で、犬を蹴飛ばして遠島になった者もいる。
送られたのは、江戸からは大島、新島、御蔵島、利島、神津島、三宅島、八丈島の伊豆七島などで、大坂からは隠岐、薩摩、五島列島、天草などであった。
遠島で辛いのは、まず流刑者が手に職だとか、学問などの特殊技能があるか、あるいは実家からの仕送りがある、などの場合を除くと、食の部分で支障をきたす点である。
現代のように多種多様の野菜もない江戸時代では島国で栽培できる野菜は限られていたし、流刑者は舟の所持を許されていなかったので豊富な魚類を捕獲することも叶わなかった。

伊豆七島の中でも最も食糧事情がよいとされたのは八丈島で、島内には水田もあった。それでも、水田の規模は74町、畑408町。米は4000人いる島民の半数の需要を満たすのがやっとであり、粟や稗も常食された。
ちなみに、大島は水田なし、畑63町。新島、三宅島は更に悪く、利島、御蔵島に至っては畑すらなかった。
正式な島民すら食糧に困っていたのである。流刑人が食べ物に困るのは、ごく当然のことである。
おまけに、遠島は刑期が決まっていない。約4割が御赦免となったとうが、いつ帰れるのか、あるいは、一生帰れないのか分からない状況は非常に辛かったに違いない。
一方、本土からの仕送りがあると、かなりいい暮らしもできた。
白木屋お常は、大岡裁きで知られる女性罪人であるが、御蔵島に送られた後も、仕送りで風流な暮らしを送った後、御赦免になって江戸に戻っている。

島内での帯妻は黙認された。
たとえば、千島、択捉島を探検した近藤重蔵の息子、近藤富蔵は百姓殺害の咎を追い、八丈島に流された。
島での富蔵は、蚊一匹殺さないようになり、『八丈島実記』の大著を残す。
富蔵は、島で妻をめとり、子供を設ける。その後、明治13年に放免になり東京に戻るが、二年後には再び八丈島に戻っている。
人間至るところに青山あり、と言い、住めば都、とも言う。
島の暮らしがいつの間にか富蔵にとって、かけがえのないものになったのであろうか。

遠島―島流し 大隈 三好 江戸時代選書
江戸の流刑  小石 房子 平凡社新書
江戸町奉行所辞典 笹間良彦 柏書房

↓ よろしかったら、クリックお願いします。

人気ブログランキングへ


中條景昭の奮闘~静岡茶と旧幕臣

2011年09月23日 | 江戸の幕末
静岡県は日本一のお茶の産地である。日本全体のお茶生産量の40%のシェアを占める。
(ちなみに2位は鹿児島で同20%、以下三重、京都と続く)
中国から伝来したお茶は、奈良時代には日本にも存在した。
しかし、量産されるようになったのは最近である。
知られているようで、あまり知られていないお茶の黎明期についてQ&A方式で書いてみたい。

Q1.静岡でのお茶の生産はいつからこのように盛んになったのか?

A.お茶の生産が盛んになるのは、明治に入ってからであった。これは海外との貿易が始まり、お茶の輸出が急速に拡大した事情による。輸出需要に応えるべく、これまた急速に栽培面積を増やしていったのが静岡である。
静岡県榛原郡金谷町以南に広がる牧之原台地は面積5千ヘクタールに及び、静岡のお茶の生産面積の4分の1を占める。牧之原は古くは布引原とも呼ばれ、荒涼の地であった。
ここに開墾団として入ったのが、徳川慶喜の護衛を目的として作られた幕府精鋭隊の武士たちであった。精鋭隊の武士は、徳川宗家を引き継いだ家達が駿府に赴くのに従い、久能山付近に住んでいたが、無禄移住であり、自分たちの飯の種を自ら見つける必要性があった。中條景昭を隊長として、彼ら二百二十戸が牧之原に移ったのは、明治二年(1869年)。この年から静岡茶の歴史は新たな一歩を踏み出したと言える。

Q2.誰が牧之原への移住を言い出したか?

A.勝海舟のアイデアであると書いてある記事や文献を見ることがあるが、これは完全に間違い。
実際は松岡神社までできている松岡萬が大井川水路を視察に行ったときに見つけたのか、あるいは後に静岡県知事になる関口隆吉が見つけたのか、景昭が言いだしたのか諸説あるが、単独の意見ではなく新番組(旧精鋭隊)の内部で合議の結果、ここを開墾するのがよかろうという結論に達したと思われる。景昭は勝海舟の許しを得て、この荒れ果てた地を貰い受ける。
明治三年には大谷内竜五郎率いる彰義隊の残党八十五戸が入植し、三百戸以上の人々が牧之原に入った。
開墾した地で栽培する作物にお茶を選んだのは、お茶の輸出増加を見据えた上での勝海舟の卓見であった。

Q3.牧之原のお茶は大井川人夫が作ったというのは本当か?

A.勝海舟の話と同様、これもたまに聞く話である。
大井川越制度の廃止により、職を失った人夫は千三百人と言われる。彼らの救済に奔走したのが総代・仲田源蔵である。仲田の努力に共鳴した丸尾文六らも現れ、南部地帯三百町歩に百戸が入植する運びになった。しかし、支度金が支給されるとその中の六十七戸(!)はどこかに逃げてしまい、実際に入植したのは三十三戸であった。彼らは明治六年までに三十九町歩を開墾したが、牧之原の一部だけであり、牧之原のお茶は大井川人夫が作ったというのは、いかにも大袈裟である。

Q4.では、牧之原のお茶――静岡のお茶――の歴史は旧幕臣が作ったのか?

A.開墾団は、語り草にもなった開墾に当たって刀を差しながら鍬を持ったというように武士根性が抜けきれず、また後に資金運営のために作った笱美館の不正経理からの失敗のように、武士の商法でも失敗を重ねた。
静岡茶(荒茶)の生産量は明治16年2,710トン、明治23年5,411トン、明治43年10,128トン、大正9年14,666トンと飛躍的に増えていくが、逆に牧之原開墾団員の数は明治16年までに3分の1に激減、明治30年に60戸、昭和5年に16戸、昭和33年に10戸となってしまった。
歴史的に見ると、旧幕臣の試みに刺激を受けた周辺の農家が静岡茶を作ったというのが実際のところだ。
しかし、旧幕臣が静岡茶の黎明期を作ったのは紛れもない事実である。
中條景昭は明治11年には、将来を見据えて共同製茶工場設立を画策した。実際に工場が造られたのは、景昭の死後の明治30年であるが、これは景昭に先見の明があったことの証左である。

住み慣れた江戸を離れ、未開の地とも言える牧之原台地の固い土と格闘した開墾団の意気込みを思うと、胸に迫るものがある。



大井川を望む屋敷跡に建てられた中條景昭像

↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ





ある明治人の記録

2011年07月14日 | 江戸の幕末
旧会津藩士ながら、陸軍大将にまで登りつめた柴五郎が晩年に認めた書をまとめた「ある明治人の記録」。
もっとも有名な箇所は、下北半島陸奥国に封された五郎ら家族が、飢えのため、犬を食べる場面であろう。

武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを食らうて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。

犬肉が喉につかえて、吐き気を催した五郎少年を父親が叱責する場面である。
カニの爪のように伸びた下北半島は両側を海に囲まれ、冬の寒さは、同じ北国である会津藩士の想定外のものだった。
会津藩士は、この地を希望を持って、斗南藩と名付けた。これより南はみな帝の地であるとの意である。しかし、陸奥の自然は、会津藩士の希望など吹き飛ばすほど過酷なものだった。
斗南藩への移転は政府の強制であったのだが、実は会津藩にはもうひとつの選択肢があった。旧領地である猪苗代への移封である。狭くて慣れた土地か、広いが辺境の地の、二者択一を迫られたのである。
そのとき、広沢安任の提言があった。

蝦夷より下北半島を通りて帰藩せる広沢安任、陸奥の国、広大にして開発の望みありとの意見に従い、陸奥を復興の地と定めて斗南藩に移れる次第なり。

敗戦の後遺症が強く残る猪苗代よりは、未知であっても可能性の残る陸奥へ行こうという気風があったと思われるが、広沢の進言により、背中を押された会津藩は、結局、自らの意思で下北半島への移住を決める。
その割には、リサーチが徹底的に不足していて、厳寒の地に赴くのに、あまりにも準備不足であった。

会津よりこの地に移封さるるとき、陸奥の地がかくも乏しき痩地なりとは知らず、希望を抱きてはるばる来つるものを、いまになりて嘆き怒りても甲斐なし、ただひたすらに堪えぬくばかりなり。

この驚くほどの無知さは、まだ幼かった五郎少年のものであるが、案外、藩士全体の共通認識だったかも知れない。
では、ものすごくリサーチが行きとどいていたら、猪苗代に行ったのかというとそれも疑問だ。与えられたのが順境でなく、逆境であっても、見事乗り越えるのが武士魂であるといった意地が会津藩士にあったからだ。

会津の士は正義の士であったとはよく聞く。
幕末の幕臣も、腹芸の下手な人物が多かった。
それに比べ、西軍には、策士が豊富だった。

正義の定義は状況により変わる。
会津兵は馬鹿が付くほど正直であったし、倒れ行く幕府を支えようとした幕臣の中にも正直な人間が多かった。
しかし、戦時には正直が必ずしも正義となるとは限らない。
嘘をつき、腹芸を使うのが、戦争回避となるならば、『嘘も方便』ではないだろうか。
戦争には、一方的な正義も、一方的な悪もない。
そして、戦争を回避できるのなら、卑怯と言われようと、卑屈と言われようと徹底的に避けるべきであるというのがわたしの考えである。
同じような考えを藤原帰一氏が端的に述べておられるので、引用する。

平和って、理想とかじゃないんです。平和は青年の若々しい理想だとぼくは思わない。暴力でガツンとやればなんとかなるっていうのが若者の理想なんですよ。そして、そんな思い上がった過信じゃなく、きたない取引や談合を繰り返すことで保たれるのが平和。この方がみんなにとって結局いい結論になるんだよ、年若い君にとっては納得できないだろうけれどもっていう、打算に満ちた老人の知恵みたいなものなんです。

近頃の軍人は、すぐ鉄砲を撃ちたがる、国の運命を賭ける戦というものは、そのようなものではない(柴五郎)

ある明治人の記録 石光真人編著 中公新書
正しい戦争は本当にあるのか 藤原帰一 ロッキン’オン

広沢安任については青森県総合社会教育センターHP


↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ



壮士の墓~咸臨丸の災難・清水港

2010年09月15日 | 江戸の幕末
菅VS小沢の勝負は菅総理の勝利をもって終結したが、敗れた小沢氏も表面上は、にこやかな笑みを絶やさないでいた。
話し合いや選挙で結果が得られるところが民主主義のよいところだ。
江戸幕府から明治政府への移行も一部の反乱軍を除いて、平和裏に成されたという表現を多々見受けるが、決してそんな綺麗事で済まされるものではなかった。

先日、静岡の清水港の近くを走っていると「壮士の墓」という文字がナビに現れた。
さっそく車を走らせると、その墓は咸臨丸の船員のものであった。
事の経緯は、こうだ。

慶応四年八月一九日夜半、榎本武揚は品川港を出航し、箱館を目指した。開陽、回天、蟠竜、千代田形の軍艦四隻、神速丸、長鯨丸、咸臨丸、美加保丸の運送艦四隻の榎本艦隊である。艦隊は品川から房総沖を通って仙台へ向かう予定であった。
出航の際には悪天候が予想されたが、翌日は晴れ間が見えた。その艦隊には、松平定敬、元陸軍奉行の松平太郎、渋沢成一郎以下、彰義隊の残党、伊庭八郎率いる遊撃隊、新選組など二千余人が乗船していた。中には澤太郎左衛門、松岡磐吉のように長崎の元海軍伝習所生も混じっていた。
しかし、艦隊が犬吠埼に差しかかる頃、猛烈な嵐に遭遇し、美加保丸は鹿島灘に沈没、咸臨丸は救助の蟠竜丸に伴われて下田から清水港に回り、修理を行っていた。
清水港に回ったのは徳川宗家のいる駿府に行き、降伏するためだったとも言われている。
一方、咸臨丸が下田から清水方面に向かったと方を受けた政府軍は艦隊を進め、清水港に着く。
咸臨丸の副館長・春山弁蔵は白旗を揚げて降伏を試みる。船員は多くが上陸していたし、咸臨丸はマストを折って、自力航海不能となったときから、交戦の意図を失っていた。
乗り組んだ政府軍は榎本隊の意思を無視して、そのほとんどを斬殺してしまう。
さらにひどいのは、海中に投げ捨てた死体の引き上げ、埋葬を禁じたことである。
江戸時代、死罪に処せられた罪人が埋葬を禁止されたのと同じ理屈であり、上野の彰義隊の死体も当初は投げ捨てであった。
もっとも、この禁止令には異論もあって、徳川側が政府に遠慮して自粛したという説もある。

この死体を自らの危険を冒して埋葬したのが清水の次郎長である。
次郎長が引き揚げたのは、副館長であり、長崎海軍教習所の一期生でもあった春山弁蔵と鉱蔵の兄弟、加藤常次郎、今井幾之助、長谷川清四郎、高橋与三郎、長谷川得蔵の七人。
後日、次郎長の功をねぎらい、墓の文字を書いたのが山岡鉄舟であった。

榎本艦隊は反対勢力には違いなく、その中には薩長からすれば、憎き会津藩士や新選組隊員なども含まれる。
けれども、日本古来の美徳とされてきた思いやりや武士道と言われてきたものは、この状況からは全く消え失せてしまった。
政府の裁断とはいえ、あまりにもひどい仕打ちである。
それゆえに、次郎長の行為が美談として伝承されたのであるが、勝敗がついてもノーサイドとならないのが戦争である。
繰り返して言うようだが、幕末~明治は決して無血革命などではなかった。



↓ よろしかったらクリックお願いします。
人気ブログランキングへ

美しい国

2010年06月06日 | 江戸の幕末
黒船の来航に、日本政府は慌てふためいて、成す術もなく右往左往していたのであろうか。
開国すれば、鎖国という国策を放棄しなければならなく、攘夷をスローガンにしている幕府にしてみれば、矛盾を含んだ問題であった。
江戸時代は徳川の独裁政治であったと思う人も多いかもしれないが、決してそのようなことはなく、現在でいえば、超有力な一政党が徳川であったという表現のほうがよい。
海外から交渉に来るのは、プチャーチン、ペリー、ハリスなど有能な人物ばかりである。
上からの方針は、はっきりしない。
そのようなジレンマの中、外渉に当たった人物の苦労には頭が下がる思いがする。
川路正路、岩瀬忠震、永井尚志などである。
隣の清国では侵略・略奪を繰り返した諸外国が日本に対しては、きわめて紳士的に振舞っている。
これは交渉に当たった日本側の人的な努力が大きい。
だが、もうひとつ大きいのは日本の持つ風土である。
日英修好条約を結びに来たイギリス使節エルギン卿とともに来日して『エルギン卿遣日使節録』を表したローレンス・オリファントが両親に充てた手紙の中に日本の感想が述べられている。

「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は、貧しさや物乞いのまったくいない唯一の国です。わたしはどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます。もしかりに私がその国の総領事に任命されたならば、お母さんもパパもきっと喜ぶでしょう」

日本を美しい国であるといった首相がいたのは随分前のことのような気がするが、実際に日本は美しい国であった。
沖縄問題くらいで揺れ動き、「国民が耳を傾けなくなった」と首相が政権を放棄してしまう今の日本。
責任を転嫁する積もりではないが、大丈夫だろうかと思ってしまうのは、わたしひとりではあるまい。


↓ よろしかったら、クリックお願いします!
人気ブログランキングへ





龍馬・総司の字体

2009年08月05日 | 江戸の幕末
新人物往来社から沖田総司、土方歳三、坂本龍馬の三士の手紙の複製が発刊されている。
手紙の他に小冊子がついているが、その記事の中で興味深かったのは、筆跡鑑定である。

性格分析を行っているのは、筆跡鑑定家の森岡恒舟氏。

大変面白かったので、上の三人の性格分析をまとめてみる。

沖田総司・・・優秀な運動神経の持ち主。重い剣を遣う。迫力と非情さを感じる。人から頭を押さえられると反発する。人から支配されるのを好まない孤高型。心身のどこかに苦しいところが感じられる。字体としては源義経と似ている。

土方歳三・・・頭領的立場よりは付いていくほうで、感受性豊かでロマンチストである。明治に生まれてきたらピアニストになったかも知れない。剣の腕は抜群のものを思わせる。

坂本龍馬・・・字からは運動神経のよさを感じると言う。発想力が豊かで角が立たず、どこにも苦しいところがないように気を配る。楽観的で、豊臣秀吉の字体と似ている部分がある。


驚くほど当たっているが、三人の性格は周知なので、もっとあまり知られていない人の性格もみてもらいたいように思う。


坂本龍馬が姉に宛てた手紙

沖田総司、土方歳三、坂本龍馬の手紙 新人物往来社


↓ よろしかったらクリックお願い致します。
人気ブログランキングへ


薩摩藩士、強さの秘密

2009年07月13日 | 江戸の幕末
上野の森で彰義隊が壊滅した後、薩摩藩士は死体の太股の肉を抉って食した、とどこかの本で読んだ記憶がある。
どこで読んだのか定かでなく、真偽のほども怪しいのであるが、あり得ない話ではないと思った。事実だとすると、薩摩藩士は、肝試しの一環として行っていたのであろう。
徳川泰平三百年の間に士風は廃れ、武士は弱体化したのに、薩摩藩士のみが闘争本能を全開にした勇者、蛮者の群れだったのであろうか。

司馬遼太郎の小説に、薩摩藩士の肝試しの場面が出てくる。
天井から紐で結んだ火縄銃を吊るし、車座になって酒を飲む。吊された火縄銃はゆっくりと回転している。いつ暴発してもおかしくない状況で平然と酒を飲めなければ、一人前の薩摩藩士とは認められなかったという。
精神を鍛えるという意味のほかに、団結心を強める効果を狙った肝試しだと思う。
団結心が強まると、人は、独りでは考えもしなかったような行動に出る時がある。集団心理である。

一方の幕府軍はどうであろうか。
渋沢清一郎の後任として彰義隊の頭取となった天野八郎が、官軍と一戦を交えている時に部下を背後に従えて、黒口門に駆け上がった。「俺についてこい」と勇ましく叫んで走っていったのはいいが、敵弾の飛び交う黒口門まで行って後ろを振り向くと、ついてくる者は誰もいなかった、というエピソードがある。

幕府軍では、負けそうになると我先に逃げ出すという集団心理が働いたのに対し、薩長ではたとえ敗色が濃くても一歩も引いてはならないという集団心理が働いた。
戊辰戦争における勝敗の差は、作戦の是非や火力の差などといわれるが、発生した集団心理の違いも勝敗に大きく影響を及ぼしたのではないだろうか。

薩摩藩士が彰義隊士の人肉を食したというのもひどい話であるが、薩長藩士は会津藩の領民には、もっとひどい仕打ちを行っている。

官軍という名の薩長兵は婦女子を捕らえて裸踊りを強要し、抵抗する者があれば情け容赦なく、一刀のもとに斬り殺した。
(中略)男女老幼区別なく、殺し、強姦を重ね、藩内の妻や娘らを陣所や宿舎などに捕らえて来て、侍妾とするものもいたので会津藩士はおおいに憤慨した。


正義や忠義心を口にする前に、人としての道はどこへ行ってしまったのだろう。
この時、暴行を行った薩長藩士の中にも、年頃の子供を持つ親もいただろうし、老いた親を持つ者もいたであろう。
それが、会津藩の領民というだけで、強姦したり、虐殺してしまうのは、一対一の人間同士ではなし得ない行為である。
その時、働いているのも集団心理だ。
虐殺や強姦に反対などしようものなら、自分自身まで殺されかねないという状況もあったのだろう。
だからといって、許される行為ではない。だが、戦という名の下に、罪は問われることはない。普段だったら殺人であり、略奪であっても、戦争時には、正当な行為と見なされる。
このような行為を非難する前に、戦争そのものを非難しなければならないのだ。
幕末は江戸無血開城が行われるなど、流血の痛みなしに成し得た革命だという説があるが、決して無血革命などではない。明治維新といえども、失われなくてもよい沢山の血の上に成り立ったものであるという事実を忘れてはならないと思う。


幕末・維新の群像(4)~悲劇の戊申戦争 小学館

↓ よろしかったらクリックお願い致します。
人気ブログランキングへ