木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

島霞谷

2009年04月29日 | 江戸の写真
幕末には、上野彦馬と下岡蓮杖くらいしか写真師はいなかったかのように思っている人がいるが、そんなことはなかった。
京都には堀与兵衛がいたし、江戸には鵜飼玉川やこの島霞谷、妻の隆などがいた。多少のずれはあるが、写真という金のなる商売に興味を持った人間が増えたとしても不思議はない。
霞谷は、桐生の旅籠屋の息子。開成所で絵図調出役を仰せられるほど絵画に熟練しており、はやくから写真にも取り組んでいた。この頃の写真家は、蓮杖や横山松三郎も霞谷もみな絵師出身である。
彼の写真でもっとも有名なのは禁裏御守衛総督時代の徳川慶喜である。これは、100%霞谷の撮った写真というわけではなく、霞谷のものと伝えられる写真ではあるが、幕府のトップを撮った写真としては出色である。
霞谷は44歳で夭折しているので、歴史の舞台に大きな足跡を残すことができなかったが、日本写真史上で、忘れてはならない存在である。

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藤堂藩の寝返り

2009年04月20日 | 江戸の幕末
幕末史において、津藤堂家の戊辰戦争における『裏切り』が幕府の敗北を決定付けた、という表現がよく見られる。その行為に関しては、『幕府軍が不利とみるやいなや転向した』とか『高虎以来寝返りの家風であるから』などというのが一般の風評だ。
しかし、これは単眼的な偏った見方で誤解である。

幕末は結局、薩長と幕府の政権交代の戦いでしかなかった。そこに攘夷だとか、尊王だとか、もっともらしい理由をつけてはいるが、早い話、現在の政権争いとまったく変わらない。攘夷やら尊王というのは、彼らにとっては思想というよりも政策であった。
多くの藩が勝ち組につきたいのは人情である。だが、雄藩、幕府どちらが勝つのか分からない。
戊辰戦争の時期はまさにそういった混沌とした時であり、どの藩も、どちらに就くのか鮮明にしていない。

津藩はその最たるものであったかも知れない。
津は、外様ではあったが、準譜代の扱いを受けており佐幕であったが、長州征伐の頃から局外中立に転じている。
一応ニュートラルなポジションを置いていたわけで、すぐに倒幕に傾いたわけではない。

もともと、津は勤皇思想の強い土地であり、しかも、開明派も多かった。
公武合体はこの藩のもっとも望むところであったが、攘夷は本心ではなかった。

山崎奉勅と言われ、幕府軍に砲撃を加えた津藩ではあるが、この時、藩主の高猷の指示は、「砲門は開くな」との厳命であった。
これには伏線がある。
当時、砲門を指揮していたのは藤堂采女と吉村長兵衛であった。
この両名のところには、幕府、薩軍双方から、味方になるようにと使者が来た。
幕府の使者としてやってきたのは、滝川播磨守であった。
この人選は、まったくの誤りであった。
天誅組の際、津藩も制圧に当たっていて、采女、長兵衛の両名も出動している。その際に総指揮をとったのが滝川であった。
津は勤皇思想の強い土地柄で、天誅組にも同情し、捕らえた後も厚遇している。幕府に渡す際も、寛大な処置を依頼している。それなのに、滝川は津藩の意向をまったく無視、全員を極刑に処している。
ただでさえ、滝川憎しの感情のあるところに加え、孤立する砲台に幕府軍を少人数でも送りこんでくれれば、旗色も鮮明にできると申し出たのに、幕府軍は一人もやってこない。多分、滝川はその場では、いい返事をする人間だったのであろう。
天誅組の時も、砲門の時も、返事はいいが、実行が伴わなかったため、反感は大きくなる。
そうこうしているうちに、薩軍が錦の御旗を持ち、再度接触してきたので、采女、長兵衛もそれ以上は、要請を拒めなかった。
この時、両名は高猷の許可を得ておらず、切腹の覚悟だったという。
これはかなり苦渋の判断であったわけだが、現場を預かる指揮官としては、ぎりぎりの選択であったのだろう。

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映画「ありがとう」

2009年04月16日 | 映画レビュー
赤井英和主演の「ありがとう」という映画のDVDを観た。
主人公の古市忠夫は、実在の人物。
還暦目前にプロテストに合格した人である。
阪神・淡路大震災の被災者でもあり、映画には、大震災の状況がよく現されている。
私は、大震災の翌年から阪神間に住んでいたので、地震は他人事とは思えなかった。
その古市氏は、「努力」についてこう述べている。

奇跡とは、努力と才能と、努力を続けられることを感謝する気持ちによって起こる。

エジソンではないが、成功には、才能よりも努力の占める割合が大きいとはよく耳にする言葉であるが、感謝力というのは、古市氏独特の考え方だ。

努力することは立派だが、その行為に甘んじてはならないのだろう。
努力できる環境にも感謝するというのはなかなか思いつかない言葉であった。

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トイレの怪音

2009年04月14日 | 日常雑感
外で個室に入る。
トイレのことである。
洋式のトイレだと隣で、時々、気になる音を聞く。
カサカサ、シュッシュという音だ。
これは、どうもトイレットペーパーで靴を拭いている音のようだ。
表のトイレだと本を持ち込むわけにもいかないし(バッグでも持っていれば別だが)、手持ち無沙汰を解消しようとする心がなせる業なのであろうか。
隣に声を掛けて何をしているか聞いた訳でもなし、100%自信があるわけではないが、あれはやはり靴を磨いている音だろうな。
男性諸氏。
トイレで靴を磨くのは普通なのでしょうか?
女性は、磨かないだろうな。


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いまどきの給食

2009年04月08日 | B級グルメ
小学校では、たまに「給食を食べる会」というものが行われているらしい。
父兄が小学生と同じ給食を食べるのだが、興味がある。
今時の給食は、随分よくなっているらしくて、デザートもついている。
リンゴなどは、カットされひとつひとつ個包装になっているので、驚いた。
世の中には、骨なしの焼き魚もあるそうだが、少し過保護かも・・・・・・・。




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警報ベルにご注意!

2009年04月05日 | トマソン的町歩き
名古屋駅の近くを歩いていたら発見。
雑居ビルのような建物の入り口に貼ってあった張り紙である。
「警報ベルご注意ください」って、いったい、何に注意するのだろう。




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川本幸民と蛋白質

2009年04月04日 | 江戸の学問
タンパク質を漢字で書くと、蛋白質となる。
この蚤(のみ)にも似た蛋という字の意味はトリの卵である。
以前から、分かりにくい言葉だと思っていた。
なぜ、このような見慣れない漢字が使われるのだろう?

オランダ語では、eiwit で、ei は卵、 wit は白であるので、本来は「卵白」と約すのが普通だ。

この語を初めて日本に紹介したのは川本幸民。
文久元年(1861年)に『化学新書』を著した幸民は、蛋白の他に、葡萄(ぶどう)糖、乳剤、尿素などの語も紹介している。
「化学」という言葉を使用したのも幸民が初めてで、それまでは「舎密」(せいみ)と言っていた。

「卵」には、象形文字で「男性性器」の意味もあると言う。
これを幸民は知っていて、わざと「卵白体」とせず、「蛋白体」という表現を使った。
そのせいで、確かに意味が分かりづらくはなってしまった。

幸民は、そのほかに日本で初めてビールやマッチを作ったりもした。
これらを事業に結び付けていれば、金銭的な成功を得られたのではないかと思うが、幸民は学者肌であったようだ。

ただ、幸民には人間臭いエピソードも多い。
酒席で上司を刀で斬り付け、謹慎処分になったり、マッチの発明では、軽い愛想のつもりで「マッチなどという便利なものができたら50両支払いましょう」と言った人物に、きっちりと金を支払わせもした。

幸民は、今ではあまり知名度がないが、故郷の兵庫県三田市では、幸民を軸として町おこしを狙うプロジェクトまでできている。(詳細は、ここ

幕末から明治初期にかけて、化学の地位は低かった。
その実用性が認識されていなかったからである。
その中で、宇田川榕菴、川本幸民、あるいは、上野彦馬といった日本人と、ポンペ、ワグネル、ハラマタといったオランダ人教師たちが細々とながら、現在に脈々と繋がる日本の化学の基礎を築いた。
その道は、一朝一夕に成ったものではなく、凸凹な悪路ではあったが、未来への夢が見える道であっただろう。
今、化学の道は出来上がり、立派なものとなったが、果たしてその先に夢は見えているのだろうか。

(参考文献)
日本の化学の開拓者たち (裳華房) 芝哲夫

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ゼリー王国・豊橋~鈴木菊次郎

2009年04月03日 | 明治のはなし
豊橋がゼリーの一大生産地であることは、あまり知られていない。

明治元年、田原に鈴木菊次郎という人物が誕生した。
菊次郎の家は代々、大工を営んでいた。菊次郎も大工であったが、30歳の頃、たねを妻に迎えたことにより、彼の運命は大きく変わった。
田原地区では、内職で飴を作り、販売することがよく行われていた。
たねも、飴の製造を行っていたが、菊次郎は、独自の製飴機を発明。
さらに、飴の原料に当時安価であったジャワ米を使用することで原価を抑え、利益を得る。
翁飴」とネーミングし、販売を軌道に乗せた菊次郎は、大正に入ると、独自のゼリーを作り始めた。
この際に、ゼリーとゼリーがくっつかないように、オブラートを使用したのも、菊次郎の独創である。
この包装用のオブラートは特許化され、ゼリーにはなくてはならないものとなった。

ここでいうゼリーとは寒天を原料とし、砂糖、水飴、香料などを添加したものである。
このゼリーの出荷量の8割は豊橋が占めるという。
知らなかった。

鈴木菊次郎については、ここ

ゼリーについてはここ

(リンク修正H25.2.4)

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