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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

山岡鉄舟とあんぱん

2025年04月04日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
もう何十年も前、歴史にまったく興味がなかったころの話。
ハイキングに行った帰り、埼玉県比企郡の小川町を歩いていたら「二葉」という割烹があり「忠七めし」というお茶漬け風の名物料理を見つけた。
「剣豪・山岡鉄舟考案」とも書いてあり、これが初めての山岡鉄舟との出会いだった。

二葉のHPによると、日本には五大名飯というのがあるらしい。



それは、

忠七めし(埼玉・小川町)
深川めし(東京・深川)
さよりめし(岐阜・山岳地法)
かやくめし(大阪・難波)
うずめめし(島根県・津和野町)

だということだ。

前置きが長くなったが、山岡鉄舟の書は静岡県の吉原の旅館「鯛屋」でも見かけたことがあるし、鉄舟はいたるところで揮毫している。

その中のひとつ、木村屋總本店の看板も鉄舟の揮毫である。
どうして鉄舟が揮毫したかというと、もともと親交があったようなのだが、明治7年に日本人の口に合うようにと発明された酒種あんぱんが好物だったからとも言う。



木村屋總本店のHPから引用すると、明治8年、

明治天皇が水戸藩下屋敷(現在の向島)を行幸される折、巷で評判の酒種あんぱんを献上してはどうかと侍従山岡鉄舟よりお薦めの言葉を頂戴し、四月四日、奈良の吉野山より取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けを埋め込み焼き上げた、季節感たっぷりのあんぱんが明治天皇に献上された。 ことのほか、皇后陛下のお口にあい、両陛下より「引き続きおさめるように」とのお言葉を賜った。

とある。
このことから、4月4日があんぱんの日として知られるようになった。
山岡鉄舟については以前「吐しゃ物を食べた山岡鉄舟」という記事でも書いたがとても興味深い人物だ。



志士となった国定忠治の息子 

2025年02月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
上州国定村の忠治は博徒の親分として名高い。

しかし、忠治の晩年は中風を患い、知り合いの間をたらいまわしにされるというみじめなものであった。
不自由な身体のまま縄を受けた忠治は、大戸の関所に併設された処刑場で磔にされた。

唐丸駕籠で運ばれた忠治であるが、その駕籠の中には高級品である更紗の座布団を二枚重ね、さらに真っ赤な座布団を重ねるという豪華仕様であった。
また忠治のいでたちは、無地の浅黄に白無垢を重ね着し、白い手甲と脚絆を着け、首からは大きな数珠を掛けていた。
この派手な格好をして、堂々と立ち振る舞う様子は見事なもので人々の脳裏に強烈な印象を残した。
磔のあと、いよいよ槍を突き刺される段になっても動じたところを見せず、逆に役人を励ましたというエピソードは忠治の人気を高めた。
さらに芝居で取り上げられるようになり、忠治の人気は不動のものとなる。
その忠治に息子がいたのは意外と知られていない。

忠治の女性関係は華やかであった。正妻の鶴のほかに、よく知られたところだけでも愛妾の町、徳などの女性がいた。
大久保一角という武家崩れの娘に生まれた貞も忠治の妾のひとりである。
その貞と忠治の間に生まれたのが寅二である。
もっとも、忠治が処刑されたのが寅二8歳(数え年)のときであり、実際に会ったことがあるのかどうかも分からない。
元服して国次と改名するようになった寅二は、さらには真言宗の寺である出流山万願寺に入門し、千乗と名乗る。


下って、時は慶応三年(1867年)十一月。
明治になる一年前。
幕府挑発のため、薩摩藩が御用盗と呼ばれる江戸市内での強盗や放火などのテロ行為を指示していたのはよく知られているが、江戸以外での地方でも工作が行われた。
薩摩藩の意向を受けた竹内啓、西山謙之助らの勤王志士は薩摩藩主・島津忠義夫人の安産祈願という触れ込みで万願寺に入った。
彼らは寺に入るやいなや、討幕の意を露わにする。
その決意に共感した千乗こと国次は、以来、大谷刑部、あるいは大谷国次と名乗り、志士たちに合流する。

下野国に集まった志士たちは本気で討幕を試みていたであろうが、薩摩の上層部としては、幕府を威嚇して戦闘の口火を切らせるための陽動作戦でしかなかった。
赤報隊の悲劇にも共通するが、いわば切り捨てられた部隊だった。
たいした戦果を挙げることもできず、敗戦する。

国次は志士たちの群れに参加してからわずか一か月ほどしか経っていない慶応三年十二月十八日、処刑された。
わずか24年という短い生涯だった。
大谷刑部と名乗ったのは、関ケ原の合戦で散った名将・大谷刑部吉継にあやかったのは間違いない。
処刑されるときに国次の脳裏に浮かんだのはどのような考えであったのだろか。


緑が美しい万願寺の山門。


万願寺は、滝行ができることでも有名。


奥の院には、鍾乳洞でできた十一面観世音菩薩がある。


現在では出流そばでにぎわっている。


巴波川に架かる念仏橋(現在の幸来橋)の付近では、激しい戦いが行われた。


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宇田川三代 ~ 岡山県津山市

2025年02月03日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
先日、岡山県津山市に行った。
この地は洋学が盛んだった地で、宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕按三代の所縁がある。
個人的には「舎密開宗」を表した宇田川榕按の名前は知っていたが、宇田川三代と言われるとよくわからない。
そこで調べてみました。

宇田川玄随(1755-1797) うだがわーげんずい
津山藩(現岡山県津山市)は、江戸城鍛冶橋門の内側に一万二千坪の拝領敷地を持っていたが、この江戸上屋敷で生まれたのが宇田川玄随である。
もとは漢方医で西洋医学を白い目で見ていたが杉田玄白らと付き合ううちに西洋医学の重要性に気づき、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)を刊行する。
蘭学者の大槻玄沢は、玄随の容姿を「色が白く体は小作り、顔付きは柔和で鼻は顔の釣り合いより大きく、眉は真っすぐ」と書いている。
また、性格については「常に控えめで、争いを好まない物静かな性格だったため、言葉や挙動が穏やかで婦人のようだった」とし、友人は玄随の号の東海を取って、東海婦人と呼んでいたそうです。




宇田川玄真(1770年 - 1835年)うだがわーげんしん
伊勢国(現三重県)の生まれ。
宇田川玄随の知己を得たのち、杉田玄白の養子となり、順風満帆のようにみえたが、養子になった直後から放蕩が始まる。
怒った玄白に離縁され、路頭に迷う暮らしに転落。
心を入れ替えた玄真は、「蘭日辞典」を編纂中の稲村三伯を助け、「ハルマ和解」を完成させる。
この努力が認められ、玄随の養子となる。
「西説内科撰要」を表し、蘭学者としての名声を得る。
その後、蕃書和解御用に命じられ、藩医のかたわら月に8回ほど幕府の仕事をした。
弟子には佐藤信淵、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫といったそうそうたる顔ぶれがいる。




宇田川榕按(1798年 - 1846年) うだがわーようあん
大垣藩の藩医の息子として江戸にて生まれる。
14歳のとき、玄真の養子となる。
玄随が西洋医学の先駆けとして現れ、玄真が玄随の考えを継ぐ一方、翻訳業にも精を出したのに対し、榕按は植物学と化学に歴史的な足跡を残した人物である。
榕按は、日本で初めての植物学の植物学書である『理学入門植学啓原』(しょくがくけいげん)全3編を書く。
さらに『舎密開宗』(せいみかいそう)は日本の化学史に残る燦然たる実績である。
伊地智昭亘氏によると、榕按が作った言葉としては、

圧力、亜硫酸、塩酸、王水、温度、還元、気化、蟻酸、凝固、希硫酸、金属、金属塩、珪土、結晶、琥珀酸、酢酸、酸、酸化、酸性塩、試薬、煮沸、蓚酸、昇華、蒸気、蒸散、蒸留、親和、水鉛、吹管、青酸、成分、、装置、炭酸、中性塩、中和、潮解、尿酸、白金、物質、沸騰、分析、ほう酸、法則、飽和、溶解、容積、硫化、硫酸、流体、燐酸、るつぼ、濾過

などがあるとされる。
また19歳のとき『哥非乙説」という論文を書いて、コーヒーを紹介している。
珈琲という当て字を作ったのも榕按だとされている。



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川上貞奴と各務原~各務原歴史民俗資料館

2023年02月18日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
かがみはら百科+「川上貞奴と各務原」 
各務原歴史民俗資料館(令和4年1月29日発行)

川上貞奴は、日本で最初の近代女優と言われた女性だ。
本名は、小山貞。
明治4年(1871年)両替商を営む小山久次郎の12番目の子どもとしてうまれた。
実家の没落に伴い、日本橋葦町(よしちょう)の芸者置屋の浜田屋の女将・可免(かめ)の養女となる。
人気芸者となった貞は、16歳のときに「奴」を名乗るようになる。
このときの後ろ盾は初代総理大臣の伊藤博文らであった。
23歳のとき、貞奴はオッペケペー節で一世を風靡した新派劇の創始者・川上音二郎と結婚。
芸者の世界から離れる。

音二郎の一座は、アメリカやイギリス、フランスへ公演に行く。
海外での公演で、男性が女性役を演じるのは気味悪がられたため、貞奴は「仕方なく」女優となった。
ピカソやロダンなども貞奴に夢中になったという。
帰国後、音二郎は茅ヶ崎に三千坪の松林を購入し、「萬松園(ばんしょうえん)」と名付けた新居を建てた。
音二郎は明治44年(1911年)11月に逝去。
貞奴は、その後も一座を率いたが、大正六年(1917年)に女優を引退。
引退のときの記念品として、貞奴は、
「兎にも角にも 隠れ住むべき 野菊かな」
と焼き付けた白磁の湯呑を配った。

福沢桃介は、旧姓岩崎。
福沢諭吉の次女・房(ふさ)と結婚して福沢姓となった人物である。
貞奴が15歳のときに、成田山まで参詣に行った際、野犬に襲われた。
その危機を救ってくれたのが岩崎桃介であった。
それ以来、貞奴は桃介と交際するようになったのだが、1年後に桃介が房と婚約し、ふたりの仲は破局してしまう。
貞奴が音二郎と結婚した後は、桃介は一座の後援者として裏で貞奴を支えた。
音二郎の死後、貞奴と桃介は急接近。
大正8年(1919年)には名古屋市東区二葉町に「二葉居」と名付けた新居を完成させる。

桃介はのちに「電力王」と呼ばれる実業界の実力者であったが、その元となる財力は諭吉の七光りではなかった。
明治28年(1895年)北海道炭鉱鉄道の石炭主任として働いていたころ、結核となってしまい、会社を辞め入院した。
これが不幸中の幸いとなる。
入院中、桃介は相場で小金を儲け、さらにその儲けを株式に投資して巨利を得る。
ここから、桃介の快進撃は始まる。

大正3年(1914年)名古屋電灯株式会社の社長に就任した桃介は、木曽川の水力発電事業に乗り出す。
大正13年(1924年)11月、木曽川電力開発事業の中で最難関と言われた大井発電所が完成。
桃介は昭和13年’1938年)2月15日、東京の渋谷邸で永眠。

貞奴は、昭和4年(1929年)に木曽川のほとりに別荘を建て、茅ヶ崎と同じ「萬松園」と名付ける。
東京の牛込河田町に住んでいた貞奴は、1月、5月、9月のそれぞれ28日に萬松園を訪れ、10日ほど滞在した。
その貞奴は昭和21年(1946年)12月7日に肝臓がんのため逝去。

貞奴は菩提寺である成田山貞照寺に「八霊験絵図」を寄贈した。
これは貞奴が画家の岡田如竹(おかだにょちく)に彫らせた木版である。
そこには貞奴の人生のピンチが描かれている。
第二面には、桃介の出会いとなった野犬に襲われた場面、第五面には音二郎と小舟で相模湾を漂流した場面が描かれている。

貞奴にっとては音二郎に対する愛情も、桃介に対する愛情も本物だった。
男に追従するのではなく、自分の道を貫いたといえる。
裏ではいろいろ言われたに違いないが、信じる道をまっすぐに歩いた貞奴の姿勢には圧倒される。




音二郎との結婚式



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SONYと味噌

2015年01月20日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
盛田久左衛門という人物をご存じだろうか。
久左衛門は踏襲名であるので、15代・盛田久左衛門。
正式には、盛田久左衛門昭夫。
正解は、SONYの創立者である盛田昭夫氏である。

今は株式会社となっている盛田は、1665年創業の酒蔵である。
後に、味噌も作り始め、明治になると、醤油を製造するようになる。
愛知県知多半島にある常滑市小鈴谷が工場所在地。
分かりやすく言うと中部セントレア空港の近くである。
すぐ目の前には、海が広がる。
昭夫氏は、名古屋の旧武家地である東区の白壁町の生まれで、育ちも同地。
夏の間は、小鈴谷に来ていた。
当地には、盛田が創った鈴渓(れいけい)義塾という私塾があったから、昭夫氏は、小鈴谷では、のんびりとスイカをかじっている暇もなく、勉強に励んでいたのではないだろうか。

酒、味噌、醤油といった日本独特の文化から、SONYが生まれたというのは非常に興味深い。
これらの業種は、当時、非常に儲かった産業であり、昭夫氏も生まれながらの、ブルジョアであり、経営者であったと言える。
盛田家は、江戸時代、イメージ戦略を計り、灘の酒に対抗するブランド力の立ち上げに成功したし、明治に入ってから、いちはやくワインをつくりだしたりと、進取の気性には富んでいた。
ちなみに、東海地区にはCOCOストアというコンビニがあるが、このコンビニは、日本で最も早くできたコンビニと言われている。COCOストアは、早い時期に店内での調理を行っていたし、各地の名産を扱ったりするなど、結構面白いことをやっているが、このコンビニを作ったのも、盛田である。

こう見て来ると、酒蔵がSONYを創ったというのは、突拍子もないことのようでいて、その実、盛田の家風だったのかも知れないと思えてくる。


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昭夫氏とシンディ・ローパー。二人の人柄をしのばせるようないいショット!

松本良順と海水浴と幸福と

2014年08月18日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
逗子海岸では、今年から遊泳者に対して、音楽禁止、飲酒禁止、タトゥー禁止など、かなり厳しい条件を突きつけた。
酒のみの私としては、飲酒禁止というのは辛いが、海の家内では呑めるらしいと聞いて、少しほっとした。
結局は個人のモラルに帰するとは恩うのだが、自分にとっての「好」が他人にとっての「忌」になる場合も多々あり、問題は簡単ではない。

海水浴と聞いて、思い出したのは、松本良順である。
明治18年頃、日本で初めて海水浴を推奨したのが良順だったからだ。
良順は、長崎海軍兵学校の講師だったポンペに、海水浴が健康によいと教えられた。
それ以来、良順は海に興味を持っていたが、神奈川県の大磯を旅したとき、大磯海岸が最も海水浴に適していると感じた。
そこで大磯の旅館「宮代屋(みやだいや)」の主人・宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強く勧めた。
大磯に日本で初めての海水浴場がオープンしたが、東京から歩いて来るにしては大磯は遠い。
明治20年に鉄道が開始となると、それまでは芳しくなかった客足が急に伸びて行った。
牛乳を日本に広めたのも、良順である。

良順は一般には知名度が少ないかも知れない。
吉村昭の「暁の旅人」の中の一説が分かりやすい。

洋学医の大家・佐藤泰然の子として生まれ、幕府奥医師松本良順の婿養子となり、幕府の医官として長崎に遊学し、オランダ医ポンペについて西洋医学を身につけた。江戸にもどって医学所頭取となり、幕府崩壊を眼にして奥州に脱出し、いずれも幕府への忠誠をくずさぬ会津、庄内両藩のもとで戦傷者の手当につくした。

良順で思い出すのは、下岡蓮杖と並んで日本で写真の祖と言われる上野彦馬とのエピソードだ。
当時の器具では、写真を撮るためには5分以上も身動きをせずじっとしている必要があった。
写真を撮られると魂を抜かれると信じた写真嫌いの人間がほとんどだった。
モデルを引き受けてくれる人物はいなかった。
その際に、よく駆り出されたのが良順であった。
露出を稼ぐために白粉を顔に塗りたくられたまま、じっとしている良順を鬼瓦だと間違えた人もいる、という落ちもついている。
良順は義理固く、情に厚い面倒見のいい人間だったに違いない。

海水浴を勧め、牛乳を広めようとした頃、良順は新政府の兵部省に勤めるようになっていた。
大学東校(後の東京大学)が僻むほどの病院もオープンさせていた。
すべてが順風満帆のような良順順だが、現実はそうではない。
明治12年にはドイツに留学に行っていた長男・太郎を脱疽で亡くす。
明治26年には妻・登喜を劇症肺炎で亡くす。
さらに、同じ年、次男の之助を溺死で亡くす。

人生には色々な不幸があるが、配偶者や子供を亡くす経験は、不幸の中でも最たるものだ。
人格者で、面倒見のいい良順がなぜこんな不幸に続けざまに見舞われなくてはならなかったのだろうか。
「神様は耐えられる者には、強い試練を与える」だったか、「神様は、耐えられないほどの試練は与えない」だったか忘れたか、どこかで聞いた言葉だ。
だが、人間ってそんなに強いものじゃない。
少しのことで心が折れてしまうのが人間だ。

いい人間が必ずしも、幸福にならないのが人生のように思う。
もしかすると、良順はあまりにも自分に厳しい人間だったのかも知れない。
周囲にいた人間も良順の生き方に従おうとするあまり、ついつい自分を追い詰めて行ってしまった可能性もある。

いい人間。
幸福な人間。
どちらを選ぶのか。
両方選べれば問題はない。
必ずしも両立できないとも思えない。

二者択一ではなく、両方を選ぶ感覚。
自分も幸せ。
他人も幸せ。
WIN WIN の関係を求める気持ちが大事なのではないだろうか。

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徳川宗春の墓と金網

2014年07月21日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
八代将軍・徳川吉宗と張り合った尾張徳川の徳川宗春は、吉宗との政争に敗れ、謹慎処分となった。
元文四年(1739年)のことである。ときに、宗春三十歳。
六十九歳で没するまで、宗春は政治と離れ、ひっそりと暮らす。
この辺りは最後の将軍であった徳川慶喜と似ているが、宗春の場合は外出も許されなかったから、籠の中の鳥として寂しく生き延びた。
政敵・吉宗は宝暦元年(1751年)死去。
吉宗の死去三年後の宝暦四年には、宗春は三の丸から下屋敷に移ることを許される。
その後、幾分か処置は緩和され、特別の場合の外出も許可された。
明和元年(1764年)、死去。
葬儀は尾張徳川の菩提寺である建中寺にて行われ、同寺に墓も建立された。
死後も謹慎処分を解かれていない宗春は、死してもなお墓に金網が被されたと言う。

ここで問題となるのは、墓の金網だ。
私も何の問題も持たずに、事実だと信じ込んでいたが、どうも事実というにはあやふやだ。
まず、宗春の墓に金網が被さっていたというのは、どこからの引用か判明していない。
確かな著書に事実が記されている訳ではない。

謹慎処分から三十年後の死去の際には、政敵・吉宗もこの世にいない。
誰が金網を被せるように指示したのだろうか。
将軍の座には、家重を経て、家治が就任している。
家治は吉宗の孫であり、吉宗の英才教育を受けている。
老中主座には、吉宗の頃から幕閣にいる松平武元。
この二人ならあり得る指示と思わせるが、家治と武元は田沼意次を重用している。
政策的には倹約から宗春が提唱した産業振興政策に移行しつつあった。
自分たちの政策を棚に置いて、過去の亡霊となった宗春に今さら構うのも、藪蛇になる恐れがある。
また、御三家筆頭にありながら、将軍を生み出していない尾張家を下手に刺激するのもどうかとの思惑もあったはずだ。

もともと金網とは罪人にの墓に被せるものだ。
たとえば、小塚原の回向院の例を見てみると、ねずみ小僧だとか、高橋お伝などの墓に金網が掛けられている。
こういった罪人と並んで、幕府が御三家筆頭の尾張元藩主の墓に金網を掛けるとは到底考え難い。

松平定信は老中主座になると、かつての政敵・田沼意次の墓を潰し、相良城を破壊した。
これは、相手との間にあきらかに力の差があるからであって、尾張家と将軍家の間にはそれほどの力差はない。

考えてみればみるほど、宗春の墓に金網説は怪しい。
清水の次郎長=大男説と同じ類なのかも知れない。

参考資料:徳川宗春(風媒社)北川宥智
     規制緩和に挑んだ「名君」(小学館)大石学



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山岡鉄舟と明治天皇

2014年07月20日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
山岡鉄舟は頑固一徹というか、信念の人だった。
剣豪と呼ばれながら、乱れた幕末の世にあって、ひとりも斬ることがなかった。
彼の根本にある思想は「剣禅一致」と「勤皇」である。
幕末、幕府側にありながら、常に勤皇の意思を持ち続け、明治になってからは、禅によって剣の極致を極めんと日夜努力した。
明治十三年、「天地の間には何物もないのだという心境」になって悟りをひらいた。
そんな鉄舟には興味深いエピソードが数限りなくある。
明治天皇と相撲を取った、という話も面白い。
鉄舟は、明治五年、西郷隆盛と岩倉具視らに求められて宮内省御用掛になった。
明治天皇二十一歳の時で、この後、天皇が三十歳になる血気盛んな十年間を傍に仕えた。
日時は詳らかでないが、ある日の晩餐で酒杯を重ねた天皇は法治国家の重要性を口にし、「道徳など何の役にも立たない」と極論した。
これに対し、酒席で議論が起こり、意見を求められた鉄舟は天皇に反論した。
天皇は俄かに厳しい形相となり、唐突に「相撲を取ろう」と言いだした。
鉄舟は座ったまま立とうとしない。
天皇は「ならば座り相撲だ」と言い、鉄舟を倒そうとするが、鉄舟はびくともしない。
しびれをきらした天皇は、目を突こうと飛び込んできたので、やむを得ず鉄舟は身体を僅かにそらした。
その拍子に天皇は前のめりに倒れて「無礼な奴だ」と怒る。
その後、別室で控えさせられた鉄舟は周囲に「謝罪せよ」と勧告されるが、固辞した。
「なぜ、わざとでも倒れなかったのか」との問いには「倒れれば、自分が陛下と相撲を取ったことになる。
君主に仕える身が君主と相撲を取るなど道に外れることだ」と論破。
「避けた拍子に陛下が転んだ」との指摘には、「酔った席で陛下が臣下の目を砕いたとあっては天下に暴君と呼ばれるであろう」と指摘。
開き直っているのではない。
「もし陛下がわたしの措置を不服とするのであれば、この場で腹を切る」と加え、別室に留まった。
陛下は休まれたので一旦帰れ、との侍従の言葉にも頑固として首を縦に振らず、端坐したまま夜を明かす。
翌朝、目覚めた天皇は、まっさきに「山岡はどうした」と尋ね、「別室にて控えております」との返事を得ると「朕が悪かったと伝えよ」との言葉を残した。
鉄舟は天皇の謝罪の言葉を聞いても満足せず、「実のあるところをお示しください」と要求。
ついに天皇は「以後、相撲と酒はやめる」との言葉を得た。
鉄舟はこの答えに落涙し、以後、自らの意思で自宅謹慎し、一ヶ月後にやっと出仕した。
その際には、ワイン1ダースを手にしていた。
天皇はワインを見て「禁酒のほうは、そろそろやめにしていいのか」と聞き、鉄舟が頷いたので、美味しそうにワインを口にしたとのことだ。
主従関係の在り方として、何ともいい話だ。

その鉄舟は明治二十一年七月十九日、九時十五分、座禅のまま五十三歳の短い生涯を閉じた。



鉄舟に手よる達磨の図

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徳川家達と慶喜

2014年06月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
徳川慶喜は最後の将軍と言われる。
もちろんその通りなのだが、世間の耳目を集めた最後の徳川家宗主は徳川家達である。
大政奉還の四年前の文久三年に御三卿のひとつ、田安家に生まれ、昭和十五年に鬼籍に入った。

慶喜は良きにつけ、悪きにつけ、幕末の一瞬に華々しく閃光を放った。
慶喜の自意識の強さは何かにつけ喧伝されるが、自意識では家達も負けてはいない。
慶喜と家達の年齢差は二十六歳。
年齢差を考えると、年長の慶喜は、家達のよきアドバイザーだったかのようにも思われるがさにあらず。

慶喜は宗家当主である家達の管理下に置かれていた。
こんなエピソードもある。
さる大名家に招かれた際、慶喜が先に到着し、上座に座っていたところ、あとから着いた家達が「わたしの座るところがない」と告げ、慶喜は慌てて席を譲ったと言う。
家達は「慶喜は徳川家を滅ぼした人。わたしは徳川家を立てた人」と常々口にしていたという。
また家達は「明治以後の新しい徳川家の初代だという意識が強くて、将軍家の十六代ではない」と言っていた。

明治三十六年、家達は貴族院の議長に選出された。
このポストを家達は五期、三一年もの長期に亘って勤めた。
評価をみてみると、政治家としての能力は特筆すべき点はないが、職務遂行と言う点では何ら問題ない、といったものだった。
その家達に大きなチャンスが訪れたときもある。

大正三年、山本権兵衛内閣がシーメンス事件で退陣すると、国民の反発を避ける意味合いで門閥色の強い家達に組閣の白羽の矢が立ったのである。
家達は同族会議を開いて首相の座を辞退するという結論を出したため、大隈重信内閣が誕生する。
生々しい政治の第一線から距離を置いたのは、よきアドバイザーだった勝海舟の影響が大きかった。

昭和四年になると家達は、日本赤十字社社長に就任。
ゲーリー・クーパーと一緒に写真に収まっていたりする。
このポストは家達にはぴったりだったのではないかと思う。
家達は社交家で、政治には一家言を持たず、協調精神にあふれていた。
それに英語にも堪能。
虚栄心も満足させてくれる日本赤十字社社長ははまり役だった。
幕末に将軍に即位していたらどうだったかと思うが、歴史でイフを考えても仕方がない。
家達は、幸せな時代に生まれ育ったのではないか、と思う。
一瞬の輝きと、永い日陰の暮らしを過ごした慶喜とは余りにも対照的である。

参考資料:第十六代 徳川家達(祥伝社新書)樋口雄彦



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吉良上野介と東条城と葛飾北斎

2014年06月04日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
愛知県の吉良は、県外の人にはあまり知られていないだろうが、リゾート地である。
ワイキキビーチなる海水浴場もある。
どこかの国とは違って、きちんとハワイから名前使用の許可を取っているところが日本らしい。

この地名を名字として名乗るようになったのは、足利義氏の長男・長氏で、時代は承久三年(1221年)にまで遡る。
この流れが、忠臣蔵で有名になったあの吉良氏に繋がる。
居城は東条城。

忠臣蔵はいかにも日本人好みの話で、赤穂は義士、吉良は悪い殿さま、という図式が出来上がっているが、田沼意次のように必ずしも吉良上野介だけが悪かったのではないというのが近年の通説に変わってきているようである。
考えてみれば殿中で斬りかかった浅野内匠頭{たくみのかみ}のほうが一方的に悪い訳で、切腹のうえ御家断絶の処置は厳し過ぎたとは言えない。
トップの無分別な行動で職を失った赤穂藩士のその後の身の処し方は立派とも捉えられるし、切腹といった罰が科せられた時点で伝説となった。

一方で哀れなのは、吉良藩士である。
もし討ち入りの際、返り討ちにしていたら「忠臣蔵」はどのように変わっていたのだろう。
実際は、返り討ちどころか四十七士が怪我人二人だけだったのに対し、十七名もの死者を出している。
そのうえ、吉良上野介義央{よしひさ}の息子・吉良義周{よしちか}は、討ち入りの際、背中を斬られていたところから逃げたのではないか、との嫌疑を掛けられ、諏訪に流された。
そのうえ、赤穂浪士に味方する世論にも影響を受け、吉良家は所領を没収され、東条城も廃城となる。
義周は、この事件の四年後に、配流地の諏訪で二十二歳の短い人生を終えている。
このとき、義周の死を看取った旧臣は、二人だけだったと言われている。
赤穂浪士が英雄視されるなか、武士の身分も失い、周囲から冷たい目で見られた吉良藩士こそ、悲劇的だ。

ところで、討ち入りの日の死者の中のひとり、小林平三郎央道が葛飾北斎の祖父だったとう説がある。
この説はどうも眉唾ものだが、話のネタとしては面白い。

もうひとつ、内匠頭と上野介の確執が、塩を巡るものとする説がある。
赤穂の塩の製造方法を教えて欲しいといった上野介の申し出を内匠頭が断ったことから確執が生まれたとする説だ。
吉良の塩は、饗庭塩{あいばじお}と呼ばれ良質の塩であった。
その証拠に、下って大正三年に塩業整理が行われたときも、東日本では宮城県、千葉県と並んで三大産地として存続された。
赤穂の塩はにがりが多く、吉良の塩はにがりが少ない特徴があるが、必ずしもにがりの多い塩がいい塩とは限らない。
どうもこの説も疑わしい。


東条城の城址は「古城公園」として物見やぐらが再建されている。しかしどうにも中途半端という印象を拭えない。場所も分かりにくい。


かつては饗庭塩として名声を博した吉良塩も今では単発で作られるのみ。高校生が授業の一環として作っているというが、地域活性化のためにもぜひレギュラー商品化してほしい。

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