木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

初かつおと75日の延命

2007年06月29日 | 江戸の味
 前回に初鰹を食べると75日寿命が延びると書いた。
 これには、いわれがある。
 死刑囚は、処刑の前日に何でも望む物を食べることが許されたが、ある冬に季節はずれのものを所望した囚人がいた。その者は、初物が出回るまで処刑も延期されたという。
 このことと、初鰹がミックスされ、75日延命という話ができてきたのである。
 江戸中期の文化人太田南畝(蜀山人)は、安永十年に、「はつ鰹」という小咄集を表している。
 その冒頭に、
 「三浦三崎の初松魚(かつお)ふる背はいやよ、新計(ばかり)、道中急ぐ程谷(ほどがや)に、川さき品川打越て今日江戸入のはつ声は、まだ新しきはなしの親玉、アアつがもねえ」 
と書いている。
 (つがもねえ=たわいもない)
 三浦三崎は、言うまでもなく、神奈川県三浦三崎のことで、この辺りで獲れたかつおが良質とされた。特に初かつおともなると、早船でとり急ぎ江戸に入った。
 「はつ鰹」の序文で蜀山人が言いたかったのは、今までの小咄は新鮮さがない、俺の書くものは、初鰹のように新鮮だ、ということである。
 たいした自信だが、その内容はどうであろうか。
 その中にある「鰹」という小咄を引用してみる。
 ほととぎすの初音を聞いたの聞かぬの、咄の中へ出て
 「おらあ、きのふ鰹のはつねを聞いた」
 「とほおもねえ事をいふもんだ、何が鰹が鳴くもんだ」
 「それでも、きのふの初値が二〆(かん)五百」
 
 初音と初値を掛けた小咄である。
 いかがであろうか。
 江戸の小咄というのは、概してこのようなものである。
 鰹に関する小咄としては、同時期の安永八年に出版された「金財布」の中にある「精進日」という咄の方が面白い。
 精進日とは、先祖の命日で、この日には生ものは食べては行けないことになっていた。
 友達の所から初鰹をもらひ、ふっと思い出した処が精進日、喰わねエモごふ腹と、かのかつをを持って、持仏の障子を押し開き
 「もし親父様、この鰹を貰ひましたが折折おまへの御命日ゆへ、たべられませぬ、それともたべても大事ござりますせば、必ずご返事には及びませぬ」
 
 死人に口なし、仏にも口はない。
 うまく考えたものである。
 このように、江戸っ子から愛された鰹であるが、食べ方としては、今のように醤油をつけて食したわけではなかった。
 醤油は江戸中期から江戸にも広まっていくが、高価なもので、庶民としては、刺身には味噌をつけたり、酢辛子で食べたりした。ショウガや辛子、蓼(たで)といったものを薬味にして、辛子味噌などで食べたわけである。
 今ではあまり聞かない煎酒というものもある。
 これは酒に、鰹節、梅干し、塩などを加えて煮詰めたものである。
 関西では、鯵のたたきにニンニクをつけて食べるところがあるが、時、場所変われば、刺身の食べ方も千差万別である。
 なお、蛇足であるが、江戸小咄が出たついでに、少し落としておく。
 アムステルダムオリンピックの水泳、100m自由形で銅メダルを獲得した高石勝男選手は大人気で、彼が泳ぐ時は「かつおコール」が起きたという。これは、もちろん、高石選手の活躍にもよるが、「かつお」という意味がイタリア語で、男性器を意味しているからだった。ちなみに、いそのかつお、もイタリアへ行くとへんてこりんなことになってしまう・・・。
 
 「江戸小咄集」  東洋文庫  宮尾しげを編
 「大江戸風俗往来」 実業之日本社 久染健夫監修


初物

2007年06月26日 | 江戸の味
 江戸っ子の初物好きは高名である。
 「目に青葉 山ほとどきす初かつお」
 の句で初鰹が有名だが、江戸っ子は、鰹にとどまらず、いろいろな初物に高値をつけて、見栄を張った。
 たとえば、江戸の初期である慶長十九年(1614年)には、三浦浄心という人に言わせると、初鮭なども、「三十両、いや五十両に値する」と大げさなことを言っている。
 1668年には、幕府も商人の暴利を防ぐ意味と、庶民が奢侈に流れないようにする意味で、魚、野菜などの初売りの時期を定めた。
 「さけ八月より、あんこう十一月より、生たら十一月より、まて十一月より、しらうを十二月より」
 最初はある程度の効果を得ていたようだが、次第に守られなくなり、形骸化していった。
 江戸時代は封建社会で独裁者による恐怖政治が行われていたかのように思っている人も多いが、幕府の命も、意外なくらい人々は守っていなかったようなきらいがある。このような禁止令というのは、いろいろな形で庶民に「あれはするな、これもするな」と命令しているのであり、しばしば制定されたが、その効果は薄かったのが現実である。この件に関しては、寛政の改革に触れるにあたって、また述べることにする。
 さて、初鰹。
 江戸っ子が初鰹を好んだのは、鰹に「勝魚」という当て字をはめ込んだのと、初鰹を食べると寿命が七十五日延びるという迷信があったからである。

江戸食の履歴書 平野雅章 (小学館文庫)
 
 

ボラ

2007年06月21日 | B級グルメ
 西宮に夙川(しゅくがわ)という川がある。今では川沿いに公園が整備され、小さな川に見えるが、江戸時代は暴れ川だった。灘の酒が発達したのも夙川のような川の水力を利用して、24時間米を附くことができたからだという。さて、その夙川に今頃になると異様とも思えるほどの量の魚が遡上してくる。黒くて、頭が扁平なその魚はボラである。ボラは、汚いところでも住めるのか、きれいとはいいがたい夙川の水でも群れをなして生活している。その量たるや知らない人がみたらびっくりするような数である。そんな水質にいるボラであるから、臭いもひどく、とても食べられたものではない。総じて関西人は、ボラを食べない。関東人も食べない。しかし、東海の人間はボラを食べる。刺身で食べる。スーパーでも普通に売っている。食べてみると、あっさりした白身でなかなかおいしい。東海の人がボラを食べるのは、三重県の尾鷲というところがからすみの一大産地であることと関係していると思われる。
ボラは出世魚で、江戸時代には非常に好まれていた魚である。その出世は、スバシリ(オボコ) → イナ → ボラ → トド の順となる。「初々しい」ことを「オボコい」などというのは、ボラの幼魚から発している。また、江戸っ子の美学と言われる「いなせ」も「イナの背」に似た「イナ背髷」から出ている。さらには、結局というような意味で使う「トドのつまり」もボラの最後の名前から来ていると言う。
江戸っ子は、6月15日の山王祭や神田祭の頃からスバシリの初物を田楽にして食べ、秋風が吹くころになると、ボラを塩焼きや酢みそ、辛子和えを楽しんだ。そして、冬になると寒ボラとして油が乗って美味になったボラが食卓に上るようになる。
日常会話に使われるほど、庶民には一般的だったボラも今では一部の人しか食べなくなった。その凋落たるや甚だしい。ボラにとっては、幸いなことかも知れないが・・・。
ボラの刺身
江戸食の履歴書 小学館文庫 平野雅章

首都遷都

2007年06月20日 | 一九じいさんのつぶやき
 おいおい、今日、変な看板を見たぜ。
 わっちも、最近、車ってもんを運転できるようになったんだ。
 それで、岐阜、と言っても愛知県の瀬戸から上がっていった方だから、今風に言うと東濃って言うのかい?
 そこで、新首都は岐阜に、って看板を見つけたんだ。
 首都っていうのは江戸、じゃねえ、東京だったな。
 それが遷都という話が出ているのか?
 わっちとしては、面白れえ話だと思うんだが、既得の商権を握っている商人が、今の旨みを放すめえ。
 もともと、江戸なんていうのは、権現様が八朔に江戸城に入る前は、地の果てだったんだからな。
 いつからか、「三代続いたら江戸っ子」と言われたが、江戸自体がよそ者の集まり。
 武士なんて参勤交代だ何だで浅黄色ばかりだったんだからな。
 今で言う転勤族で、江戸も東京も大賑わいだったわけだ。
 そう考えてくると、江戸っていうのは特殊な土地だ。
 (八朔=8月1日 朔は一日の意味
  浅黄色=田舎武士  )