木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ハムスター~ゆっきーちゃん

2012年10月29日 | ハムスター

ハムスターは8匹在宅中だけれど、先日ホームセンターのペットショップに行ったら「里親募集中」の張り紙。

ジャンガリアンの女の子が前足骨折とかで、里親募集になっていた。

このペットショップは目の見えないホーランドロップや今回のようなハムスターの里親をときどき募集している。

触らせてもらうと足のハンデなど感じさせないほど元気。

迷わず里親を申し込む。

今では元気に活動しています。ただ、ひとりの時間が長かったせいか、他のハムスターに対して攻撃的なので隔離しなければならないが、うちでは基本的にはひとり一部屋

なので問題はない。

名前は、ユッキーに決定。

徐々に慣れていってくれると思っています。

きょう写真を撮ろうとしたら、空を見上げるポーズをとってくれました。

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モルモット ぶ~たろう

2012年10月22日 | モモンガ

今日はモルモットの「ぶ~たろう」くんもご紹介。
当初はモルたん、と呼んでいたのだがこちらの顔を見るたびにいつも「ご飯くれ~、ご飯くれ~」と鳴くので、いつの間にかぶ~たろうと呼ぶようになった。
ぶ~たろうは呼ぶ分にはまだしも、文字にするとカッコ悪いので、診察券などには、「モルたん」と書いている。ペンネームのようなものだろうか(?)。
非常に臆病で今でも人気を感じるとすぐに自分の定位置に戻る。
定位置は百均で買ったお風呂で使う子供用の椅子の下である。
何回も慣れさせようとしたのだが、どうにもこの臆病さゆえ、あまりなつかない。
まあ個性なのでそれは仕方ないのだろう。
モルモットは臆病で大人しいので飼いやすいことは飼いやすいが、結構糞尿の量が多く、しかも臭う。
まあこまめに朝夕と掃除をすればいいのだが、ものぐさな人には面倒くさいだろう。

このぶ~たろうであるが、一度、死にそうになったことがある。
それは何かとても痒そうにしているので、近くの獣医さんで診てもらった。
その際に処方してもらった薬が見事に外れて、体力も食欲も激減。ぐったりしてしまった。
慌てて名医と言われているワシヅカ獣医科病院に急ぐ。
痒みの原因はごく微小なノミと判明、すぐに治療をしてもらう。
時間はかかったが完治し、今では元気にしている。
獣医さんは犬猫中心で、比較的ペット人口の多いフェレットですら経験不足のところが多い。
特にもっとマイナーな小動物は、推してしかるべし。
近いからと言って、安易に病院を選ぶのは間違いだと反省した次第です。



初めての接近。まるでキスをしているよう。

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金原明善~少年の眼差し

2012年10月21日 | 人物伝
司馬遼太郎の作品を読んでいていつも思うことがある。
司馬作品に出てくる主人公は大概が生まれつきのように自分に自信があって、迷わず自分の道を突き進むような人間が多い。
迷いも葛藤もなく、自分の道を邁進するような人間だ。
すかっとするものの、私が自信なき人間であるせいか、何か違和感を感じてしまう。

金原明善(1832年・天保三年~1932年・大正12年)、浜松安間生まれ。
金原の一生は司馬遼太郎の主人公のように、何の迷いもぶれもない。

本物ほどシンプルになっていくものであるが、人間も一言で言い表せる者ほど本物だ。
金原は、その一言で言い表せる数少ない人間である。
一生を賭けて何を行ったかというと「天竜川の治水」に他ならない。
「あばれ天竜」と呼ばれた天竜川の治水の必要性を痛切に感じた金原は、天竜川の治水事業に取り組む。
更に「水害は山から来る」との考えから天竜川の上流に植林し、金原林を造った。
天竜川を治めるためであったら個人の財産も道楽も要らなかった。
明治10年には、天竜川の治水のために全財産63,517円を政府に寄付している(加藤鎮毅氏の計算では現在の1億7410万円)。

この金原明善とはどのような人間なのであろう。
あまりにも私心がなさ過ぎて、胡散臭い。
いくら難事業のためとはいえ、ポンと全財産を寄付してしまう人間がいるのだろうか。
そんな疑問をもとに、いろいろ当たって行くと、松本清張の「対談 昭和史発掘」(文春新書)という本に辿り着いた。
この本では、「政治の妖雲・隠田の行者」の項で日本のラスプーチンと呼ばれた飯野吉三郎を取り上げている。
飯野はかなり怪しい人物である。その中で金原の名前が出てくる。
読んでみると「飯野は儲けた金を金原と組んで満州に投資してさらに大儲けした」と書いてあり、金原に関しては「政商」と記している。
私には特に「政商」という文字が引っかかった。
金原は財産を全額寄付した後もたびたび多額の寄付をしている。
一文無しになったはずの金原がなぜ多額の寄付ができたのだろう。
この疑問に答えてくれるのが「政商」の二文字である。
財産全額寄付は当時内務卿の地位にあった大久保利通を通じて行われている。
地方の有力資産家が中央への確固たるポストを得るために「財産全額寄付」という一か八かの派手なパフォーマンスを行ったのではないか。
実際、寄付の後、金原の名は中央界に知れ渡った。
この試みは成功し、金原は政府とのパイプの下、後日、金原銀行を経営するなど安定した地位を築くことができた。

ここまでの推論は先の「対談 昭和発掘史」と「金原明善伝」「あばれ天竜を恵みの流れに」の三書を読んだ時点でのものである。
その推論が根底から覆されたのは、浜松の明善記念館に行ってからである。
金原の肖像は描かれたものしか見ていなかったのであるが、頑固そうな唇に、意思は強いが意地悪そうな目付きのものであった。
しかし、その肖像の元である写真を見て、びっくりした。
金原の目は少年のように純粋にきらきら光っていたからである。
私はここまで雄弁に人格を語りかけてくる写真を見た覚えがない。
この目の持ち主なら無私の人であってもおかしくない。
私の考えは180度変わった。

「金原明善の一生」(三戸岡道夫著)を読むとかなり明善の考えが分かってきた。
三戸岡氏は色々な金原の言葉を紹介している。

また明善は「慢損謙得」という訓えを説いている。その意味は、
(傲慢であれば、必ず何かで損をし、謙遜であれば、いつか利益を受ける)
という、実践道徳を説いたものである。

家訓の柱は、次の六カ条であった。
一.君国を重んずること
二.財産を重んずること
三.衣食住に制限を設くること
四.人はみな、その力に食むべきこと
五.家計は一定の年額を設くべきこと
六.家伝二宝のこと

第六条の「家伝二宝のこと」とは、金原家に永遠に伝えるべき『二つの宝』を規定したものである。二つの宝とは、
一は、よく忍ぶこと
二は、嗜むことなし
という二つの教訓である。


そしてこの六カ条全体を通して、
(行いを先にして、言を後にすべし)
と強調したのである。すなわち、議論ばかりしていても駄目だ、行動を先にしろということである。

わしは国家宗だから、一向に国家につくすことを考えている

私心一絶万成功
私心がなければ万功は成るが、これに反して少しでも私心があると万功は望むべきもない


不足をがまんして、他人が困っているのを救うのが真の慈善である。美しい着物を着て、うまい物を食い、美しい家に住み、そして余った金を世に施すのは、真の慈善ではない。それは単なる名分にすぎない。

わたしの社会事業は一種の道楽といってもいいでしょう。その道楽が人のためになり、しかもわたしの名前が残る、こんな結構なことはないではありませんか。span>


それまで、天竜川の治水に一生を懸けようとした金原の動機が不明だった。
ひどいものになると、「青年期に不治の病に罹ったが、天竜川の水を飲んだら完治した。その恩義に対するため」などという的外な説明があったりする。
金原明善というキーワードをひも解いていくと、金原にとって天竜川とは自らを表現するキャンパスに過ぎなかったと分かる。
天竜川の近くに住んでいなかったなら、金原は何か別の難事業を見つけ、そのために一生涯を懸けたであろう。

当初に飯野との関連を述べ、トンチンカンな考えを披歴してしまった私であるが、100%間違っているのではない。
二宮尊徳は「経済なき道徳は寝言である」との考えを示したが、金原の考えも同様である。
金原には金儲けに対して天性の才能があった。
「町で儲けた金を田舎で使う」とも言っていたが、この考えを具体的に示している本がある。
「幸せの風を求めて」(西まさる著)だ。
知多に榊原弱者救済所を作った榊原亀三郎を描いたノンフィクションである。
間接的にではあるが、榊原に弱者救済所の設立を示唆したのが金原である。
次の一語が金原の考えを端的に示している。

汚い金でも善いことに使われれば、それは善い金だ。どんなにきれいな金でも悪いことに使われれば、それは悪い金だ

目的と手段が明確に分かれているのであるが、不正をしてまで金を稼いだ訳ではない。
ただ、金原は清濁あわせ持つ器量であったのだろう。

金原は「こいつだったら出来る」と思った相手には放任主義を取る。
弱者救済所が開設後、危機的な状況に陥っても、金原はたいした援助もしない、激励に訪問にも行かない。
それでいながら、目の端ではしっかりと動きを捉えて、影では支援している。

西氏が紹介するエピソードは人間臭い、いかにも金原らしいものである。
弱者救済所一〇周年となったある日、榊原は金原の訪問を受ける。榊原はいいところを見せようとして、ことさら倹約を強調してみせたり、節制の度合いを自慢する。
布団も二人で一枚だと告げ、板の間に金原を寝せる。深夜になって榊原は、金原に呼ばれ、話をしてやるから布団に入れと告げられる。布団に入った榊原はいきなり金玉を鷲掴みにされた。驚く榊原に「人間、急所を掴まれると他愛ないものだ」と笑った金原は続けて、

「亀三郎、きょうのお前を見ていると、わしに勝とう勝とうとしているのが見える。わしに勝つのが目的か、それとも救済事業の成就が目的か。わしに勝つのが目的ならすぐに負けてやるぞ。そうじゃないだろう。慈善事業にたずさわる者は、そんな勝気じゃよろしくない。人の本質が見えなくなる」

と説教したそうである。
なんとも人間臭い金原の人間操縦術である。

金原は勲章を与えると言われた時も強硬に固辞した。金原の前には金も名誉も必要なかった。
偉人には間違いないが、規格外の偉人である。
その生き方を見ると、誰もが人より優れている、人には負けていない、ということばかりに汲々となっている我々に清々しい風を感じさせてくれる。

最後にまた引用。

「お前さんは強がって見栄をはって生きている。強がって肩をはるから疲れるだろう。でも、その割に満足は少ないはずだ。そんなに虚勢を張らねば生きていけないとは、まことに気の毒なことだ」(幸せの風を感じて)





(参考資料)
対談 昭和発掘史(文春新書)松本清張
あばら天竜を恵みの流れに(PHP)赤座憲久
金原明善伝(タンハマ編集部)御手洗清著・加藤鎮毅監修
金原明善の一生(栄光出版社)三戸岡道夫
幸せの風を求めて(新葉館出版)西まさる
明善記念館パンフレット

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モモちゃんの日光浴

2012年10月18日 | モモンガ

もともとモモンガは夜行性なので、昼間はいつも寝ている。

うちのモモちゃんも一番活発なのが夜中の3時頃なので、同じ部屋に寝ていると起こされてしまう。

あしずめ夜中の運動会とでも言った感じで、うれしそうな鳴き声まで挙げて騒いでいる。

だから昼間は起こされるのは迷惑以外のなにものでもないのだろうけれど、たまには起こしてしまう。

庭の伸びきった芝生の中に入れてみると、ご覧のとおり眠そうな目。

やっぱり迷惑なんだろうなあ。

でもたまには日光浴も必要ですよ!

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モモンガ・モンちゃん紹介

2012年10月16日 | モモンガ
先日の名古屋レプタイルズワールドに今年も行ってきた。
蛇、とかげ、クモといった大量のコワモテ(?)が並ぶなか、ちょっぴり展示されている小動物はなおさら可愛く見える。
今年もフクロモモンガをお持ち帰り。
「今年も」というのは、実は一昨年、昨年もモモンガを求めたのだが、二匹とも一年を待たずに他界してしまったからだ。
今年こそ、との意気込みで、一目惚れしたモンちゃん(♂)と共に家路についた。

それから約1か月。
通常だったらまだお母さんのおなかにいるくらいのベビーであるモンちゃん。
先日、ケージの締め方が悪かったらしく、いるはずのモモちゃんが行方不明。
先代のときも同じようなことがあって、そのときは夜行性のモモンガに合わせて夜を徹して見つけた覚えがある。
今回はベビーだけに早く見つけてあげないと。
必死で部屋を探すが見つからない。
一旦諦めて鼻をかもうとして取り上げたネピアティシュの箱。
すると、ギーギー鳴く声が。
驚いて箱をよくみると、微妙な膨らみができている。
モモちゃんはティッシュペーパーの入った箱内に忍び込んで寝ていた。
確かにティッシュは柔らかい布団。
とてもお気に入りな様子なので、箱ごとケージに戻した。
今も、ネビアハウスで寝ている。
箱をしげしげとみると、nepi nepi と書いてある。
ネピアハウスよりも、ネピネピハウスのほうが可愛いから、ブログ名もネピネピハウスに決定!

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天保の改革と日光参拝~水野忠邦

2012年10月11日 | 江戸の人物
水野忠邦というと、悪名高い天保の改革の指揮者として有名である。
ときの将軍・家慶が好物の初ショウガも食べられず、ぼやいた話も残っている。
しかし、別の一面もある。
忠邦は、吉宗以来途絶えていた何かと費用の掛かる日光参拝を復活したのである。
同じく倹約令を敷いていた吉宗が久しぶりに日光参拝を復活した点も面白い共通項だ。

最後に家綱が日光に参拝した寛文三年から実に六十五年が経った享保十三年。
八代将軍吉宗がのちに享保の改革と呼ばれる緊縮財政を行なっているときに、日光参拝は復活した。その後も歴代ごとに行なわれることがなく、十代家治、十二代家慶の御世にのみ行なわれた。
日光参拝が敬遠された理由は、費用が掛かりすぎる点にあった。
大御所政治を敷いた家斉も、文政九年に日光参拝を計画しながらも、金銭的理由により断念した。
この日光参拝に並々ならぬ意欲を燃やした男がいる。ほかならぬ老中・水野忠邦である。
忠邦は、天保の改革の倹約政治だけが喧伝されるが、一方では思い切った金の使い方をした人物である。
家慶の日光参拝を忠邦が計画し始めたのは、天保十一年頃と言われ、同年十月には作事奉行若林佐渡守と勘定吟味役中野又兵衛を日光に霊廟や諸堂社の修復のために派遣している。翌十二年正月には日光神領の改革も開始されている。
忠邦は参拝の費用は倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした。三年来の長期計画を立てた念の入れようで、相当な散財となるこの行事を成功に導いた。
寛政六年、忠邦は肥後国唐津六万石の藩主水野忠光の子として生まれている。十九歳にして家督を継ぐと、幕政の中枢への憧れ捨て難い彼は浜松藩六万石への転封を上申する。唐津藩は長崎警護の任務があり、幕閣に列席できなかったからである。
浜松藩も唐津とお同じ六万石であったが、石高には表高と内高がある。表高は格式とも言うべきもので、この大小によって家の格式や江戸城での部屋が決定される。内高は実質的に収穫される石高のことである。浜松は格式が高い家だったので、表高も内高もほぼ同じ六万石であったのに対し、唐津は表高六万石、内高二十万石であった。
家臣の猛反対を押し切って浜松に転封になった忠邦はそれ以降、中央への足掛かりを作ることに成功していくのだが、この計算などを見ても、忠邦は人とは違った算盤を持っていた男と言える。
「天高く」より引用


注目されるのは参拝の費用を「倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした」という点である。
日光参拝は徳川幕府の権威復活を示すデモンストレーションであったが、天保の改革の倹約も、費用捻出ための一環であったのだ。

忠邦が老中を罷免されたとき、江戸町民は忠邦の屋敷に石を投げて喜んだと言う。
そんな没落を見て、かつてはこびへつらうように従っていた町奉行・鳥居耀蔵らは手のひらを返したように冷たく接したのであるが、忠邦は翌年に再び老中に返り咲いている。

忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。

時代に逆行したと言われる天保の改革を行った忠邦は過小評価される場合が多いように思うが、信念の人だったには違いない。
政策的な評価は別として、私の目には忠邦は魅力的な人物に映る。

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