木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~2

2013年07月31日 | 人物伝
二宮尊徳は「経済なき道徳は寝言である」と言った。
金原明善は「汚ない金もきれいなことに使えばきれいな金だ。きれいな金も汚ないことに使えば汚ない金だ」と喝破した。
ヴォーリズはメンソレータムで儲けた金を私欲のためには使わなかった。
サナトリウムを建て、学校を建て、社会活動に使った。
聖書の一説、

わたしたちは何も持たずに生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない。食べるものと着る物があればわたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根源です。
(テモテⅠ 六・・・六~一〇)


をヴォーリズは忠実に実践したと言う。その考えは当時の近江兄弟社の給料制度にもよく現れている。
岩崎侑氏の「青い目の近江商人」を引用する。

管理職と雑役の従業員との給料に差はない。給料は相対的能力によるものではなく、相対的必要性によって決まる。例えば、独身者は十人の家族を抱える人物ほどには金を必要とはしない。(中略)給料を個人や家族のニーズに合わせるということだ。

個人の固有財産を持つことは禁じられていないものの、認められてはいない。

ヴォーリズ夫妻は衣類以外には何も持っていない。彼らは銀行に1ドルたりとも持っていない。彼らのサラリーは残ったら分配される。実際、近江兄弟社のメンバーはすべてこの上なく幸福で、無一文の状態なのである。


こうして書くと、なんだかカルト宗教のような印象を持つ人もいるかも知れないが、近江兄弟社は宗教団体ではない。
ただし、若き日のヴォーリズが雷に打たれたように感じとった使命(キリスト教の伝道)からすると、宗教団体っぽくなるのは当然の帰結である。
近江兄弟社の社綱領の第一条には、

近江兄弟社は近江の国において教派に関係なく、基督の福音を宣伝実践する事をもって、目的とする。

と明言している。
また、社綱領の第六条には、

近江兄弟社は、禁酒、禁煙、貞潔、思想の向上、冠婚葬祭・慣習の合理化実践、体育衛生・社会文化の向上進歩に努力し、青少年教育、社会風致の改善に従事する。


とあり、社員は禁酒、禁煙を求められる。
何かやはり固い印象を持つが、近江兄弟社が今も統一理念を「信仰と事業の両立による社会奉仕活動の実践」としている以上、当然なのであろう。
大事業を成し得ても、禁酒、禁煙、資産もなしという生き方を窮屈なものと捉える人もいるだろうが、何かを得るためには、何かを手放さなければならない。
幸福とは、何を手放し、何を得るか、の取捨選択に掛かっていると言っても過言ではない。
ヴォーリズが手放したものは多かったが、得たものはもっと多かったに違いない。

ただし、ヴォーリズがただの慈善家、「ひとのいいおじさん」だったかというと、そうではない。
ヴォーリズは、ときには厳しい商人でもあった。
ヴォーリズは語っている。

ビジネスは商人にとって教育や医療や伝道などの活動と同じように、社会奉仕であり、公共の利益のために取引者相互が尽くすべき一つの信頼であって、自己の利益を得るための戦いではない。

良心的で優れた仕事を成したあとには、正当な報酬を得なければならない。冒頭の二宮尊徳や金原明善にも繋がる考え方である。
理想の前には、しっかりとした暮らしがなくてはならない。
暮らしを支えるのは、しっかりとした仕事である。
熱心な基督信者であったヴォーリズが熱心な商人であったのは、ちっとも矛盾しなかったのである。

今津のヴォーリズ資料館に行くと、昼にはカレーライスが食べられる。
価格は、なんと300円。
肉は使わず、地元野菜を使った優しい味で、米は黒米(炊くと桜色になる)を選ぶこともできる(黒米の場合は330円)。
また、ヴォーリズセット300円もある。こちらはライスに漬物と野菜のみそ汁というシンプルなセットだが、この味噌汁が野菜たっぷりで素晴らしい。
どちらも、「御馳走」というよりは寺で頂く精進料理のような感じで、ほっとする味だ。

また調べていると、同志社大学のカレッジソングはヴォーリズが詩を付けたという文に出くわした。
意外なところで意外な事実があるものだ。





ヴォーリズ資料館:滋賀県高島市今津町今津175番地 0740-22-0981 
休館日:月曜、年始年末

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参考資料
青い目の近江商人~ヴォーリズ外伝(文芸社)岩原侑


ヴォーリズと同志社カレッジソングとカレーライス~1

2013年07月29日 | 人物伝
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年10月28日~1964年5月7日)。
アメリカ合衆国カンザス州に生まれ、日本に帰化した人物。
建築家、実業家にして熱心なプロテスタントの布教家。
彼の設計した建築物には関西学院、神戸女学院、大丸心斎橋店などが今も現存する。
と、ここまで書いてもピンと来ない人が多いと思うが、ヴォーリズの興した会社が近江兄弟社だと言ったら、ある年代以上の人には分かるかも知れない。
近江兄弟社はメンソレータムを製造・販売していた会社だ。
現在、メンソレータムはロートが販売権を持ち、近江兄弟社はメンタムを販売している。
ヴォーリズの名前は知らなくとも、メンソレータムなら大概の日本人は知っている。
近江兄弟社という会社名を風変わりな社名と捉えた人も多いのではないだろうか。わたしもそうだった。
兄弟が経営していた会社なのだろうか?
社名も変わっているし、そもそもヴォーリズとはどのような人物だったのであろう。

コロラド大学で建築学を学んでいたヴォーリズ青年は、一方でYMCA活動を熱心に行っていた。
カナダのトロントで開かれたYMCAの世界大会に参加したヴォーリズは、大会開催中に行われた講演会で中国で殉死した少年の話を聞き、天の啓示を受ける。
「お前はそこで何をしているのか」とキリストが直接語って来たかのように思った、と後にヴォーリズは回顧している。
講演会を境に、ヴォーリズは建築家としての道を捨て、宣教師への道を選ぶ。
1904年(明治38年)2月に26歳で滋賀県近江八幡市に英語の高校教師として来日。
彼が日本を選んだのは、殉教に困難な地を選んだからだという。
高校教師として生徒の信望も上々であったが、ヴォーリズの熱心な布教活動が保守的な田舎での反発を招く。
ときは、日露戦争のころである。
二年後の1906年には教職を解雇される。
不運であったが、この苦い経験が後の幸運に繋がる。

ヴォーリズは支援者の力を借りながらも京都に設計事務所を設立。
その後、シカゴでメンソレータム社の創業者A・A・ハイド氏と知り合い、日本でのメンソレータムの販売権を認められる。
ヴォーリズ合名会社を設立して実業家の道を歩むともに、近江ミッションという布教団体を創設し、近江八幡を中心とした布教活動にも力を入れる。

ヴォーリズの会社が一層の発展を遂げるのは、1920年、メンソレータムを販売するようになってからである。
近江セールズ株式会社を設立し、設計とメンソレータムの販売を二本の柱とする。
ヴォーリズがメンソレータムの販売権を得てから、日本での販売が10年もの日数を要したのは、設計の仕事、布教活動に多忙を極めた点と、メンソレータムが日本の風土に受け入れられるかはっきりと分からなかったからであろう。
実際、売りだした当時はまったく売れなかった。
価格も12g入りが現在の価格に換算して千円程度で、現在のメンタムの定価の3倍以上だった。
この価格で売れれば、ボロ儲けといってもいいくらいの高収益である。
当初は売れなかったメンソレータムは、次第に売れ行きを伸ばし、国内生産しなければ間に合わないほどになった。
ヴォーリズは、事業によって得たこの収益を何に使っていたのだろうか。
ヴォーリズが会社で得た収益を何に使っていたかを知ることが、近江兄弟社の社名の由来や、彼の考え方に繋がる。

~続く


大正12年に建てられた今津にある旧百三十国立銀行(現・滋賀銀行)。現在はヴォーリズ資料館として一般開放されている。

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踏み絵

2013年07月02日 | 江戸の文化
踏み絵は、以前はよく時代劇で目にしたが、最近ではあまり見ないような気がする。
実物も見たことがなかったのだが、先日名古屋の栄国寺に併設された切支丹遺跡博物館で本物の踏み絵を見た。
簡単な説明文によると「はじめは紙にキリストの像を書いたものを使い、破れるから木板の像、最後にはこのような銅板のものをつかうようになった」とある。
実際に見てみると、意外なくらい立派である。こんなところにも日本人の律儀さというか、手の細かさが感じられる。
やはり安っぽい踏み絵よりは、高そうな踏み絵のほうが確かにありがたみがある。
その分、切支丹にとっては踏みづらかったのであろう。

切支丹遺跡博物館



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