木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

湯屋のはなし ①

2006年05月31日 | 江戸の風俗
松平定信が行った寛政の改革。
日本史の教科書で、
「これまでの男女混浴を禁止した」との一文を見て、半ば羨望に似たまなざしで、
「江戸もそれまでは、混浴だったのか」
と、感慨に耽ったのを、今でもはっきりと覚えている。
その時、疑問に思ったことがある。
①年頃の娘など、恥ずかしくなかったのだろうか?
  また、男たちは女性の裸を見ても何とも思わなかったのだろうか?
ということである。
禁止令が出た湯屋(銭湯)の混浴だが、天保の改革の時もまた混浴禁止令が出されている。
しかし、明治まで混浴はなくならなかった。
そこで、
②なぜ、湯屋の経営者は禁止令に逆らったのか?
という新たな疑問が湧いてくる。
湯屋は、混浴がそんなに好きだったのだろうか?

②については今でも地方へ行くと混浴が存在することがヒントになる。
単純に行ってしまえば、改造の設備投資や浴槽をふたつにすると湯の供給も煩雑になるという経営サイドから見たコストの問題から湯屋は混浴を好んだのである。

ただし、江戸時代の湯屋と現代の銭湯では、構造上の違いがある。
湯屋に行った客は、男女別に分かれた入り口から番台を通って、脱衣所に行く。
さらに洗い場があるが、ここは板の間で、現代のように豊富に湯を使えるわけではなく、中央に置かれたため湯から少量の湯を掬って使った。当時は石けんなどなく、糠を袋に入れて使ったので、泡も出ず、少量の湯でこと足りたのである。
と、ここまでは、大体どこも男女別だった。
浴槽は、湯の保温を考え、洗い場と浴槽の間を壁で区切ってあった。
壁の下にはざくろ口と呼ばれる狭い入り口があり、客は腰をかがめて浴槽に入った。
電気もない時代であるから浴槽内は薄暗く、湯気ももうもうと立ちこめ、誰が誰だか分からなかったという状態であった。
薄暗くしたのは、湯の汚れを目立たせないという意図的な狙いもあったと思われる。
寛政の改革以降は、一つの浴槽の真ん中に仕切り板を設け、男女別とした湯屋が多かった。
しかし、仕切り板は上の部分だけで、湯の部分には仕切りがなく、通り抜け可能であった。

そうすると、①の疑問も、
男女混浴と言っても、湯に浸かってしまえば、あまり見えなかったのではないだろうか、という結論になる。
年頃の娘も単独で行くことは少なく、大概が年増の女性と行ったであろうから、彼女らがガードしたであろうということも想像がつく。

ずっとそう思っていたのだが、最近読んだ文献で面白いものを発見した。
これについては、後述したい。

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上水

2006年05月26日 | 江戸の話
今では蛇口をひねると、簡単に水が出る。あまりにも当たり前な話だが、ひと昔前までは水を汲むというのは面倒な作業だった。特に江戸中期(享保以降)になって井戸の掘削技術が進むまでは、海が近く水質の悪かった江戸では、水の手配には相当苦労した。
水道、という言葉も歴史は古く、この頃は文字通り水の道であった。
飲料水には、上水という言葉が当てられ、全盛期には江戸には六つの上水があった。
神田上水(?~明治) 水源・井の頭池 小川町、神田、柳原、両国、大手前、神田橋、鍛冶橋、京橋川、小網町
玉川上水(承応二年~明治) 水源・多摩川 四谷、麹町、赤坂、愛宕、金杉橋、桜田門、虎ノ門、数寄屋橋、八丁堀、築地 
亀有上水(万治二年~享保七年) 水源・元荒川(越谷) 本所、深川
青山上水(万治三年~享保七年) 水源・玉川上水分水 青山、三田、芝、白金
三田上水(寛文四年~享保七年) 水源・玉川上水分水 同上
千川上水(元禄九年~享保七年) 水源・玉川上水分水 小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草御殿の給水が目的だが、神田上水が給水できなかった本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などへ給水
上水は最初、江戸城への水路確保の意味で着手され、それが町方にも供給されるようになった。
玉川上水が承応二年(1653年)であり、最も遅い千川上水が約40年遅れの元禄九年であるが、前述の通り井戸の掘削技術の進歩とともに上水は井戸水へと代わっていく。
上水廃止後は用水になったり、舟路になったりした。
千川上水は享保七年に一旦廃止後、天明元年に再開、わずか五年後の天明六年に廃止になるのであるが、水路が具体的にどのような流れだったのか詳細に見てみるのも面白い。千川上水は、保谷で玉川上水を分かれ、巣鴨から江戸に入り、最初に小石川御殿に入る。ついで、板橋から、王子、本郷、湯島と南下。湯島天神あたりを通りながら、上野広小路、浅草、蔵前という水道路を形成していた。上水廃止後は、明治期以降も用水として使われていたので、今も一部は暗渠としてその足跡を残している。
また、玉川上水は今も昔の面影を残していて、興味深い。

江戸上水道の歴史 伊藤吉一 吉川弘文館
東京都水道歴史館 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html

黄表紙

2006年05月19日 | 江戸の風俗
山東京伝という人物がいる。1761年~1816年に生きた作家である。最初、歌舞伎の脚本からスタートし、黄表紙を書き、後には読本の作者に転向した。日本史の教科書的には、寛政三年三月、寛政の改革により手鎖五十日の刑に服し、版元蔦屋重三郎は身上を半分にされた、というところだろう。
これだけ見ると、寛政の改革って厳しかったんだな、と思われるかも知れないが、どうも出版元、辣腕プロデューサー蔦屋重三郎が、「まあ、これくらいだったら大丈夫だろう」と、お上をなめていたきらいが感じられる。黄表紙出版禁止が申し渡されたので表紙の色を変え、教訓本と書いた帯を巻いて、黄表紙と同じ内容のものを出版したのだから、罰せられない方がおかしいのではないか、と思う。この頃、蔦屋は飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、周囲が見えなかったのかも知れない。
しかし、今回は、そういった歴史背景ではなく、黄表紙そのものにスポットを当ててみたい。
黄表紙は表紙が黄色かったのでそう呼ばれた。
当然、違う色の本もあって、子供向けが赤本、青年向けが青本、黒本と呼ばれたのであるが、その黄表紙の内容はどのようなものだったのだろう。
寛政の改革の時、風紀を乱すという理由で罰せられたのだから、アダルトな内容なのでは、と思う方も多いのではないかと思うが、そうではなく、政治的な風刺がとがめられたのである。
黄表紙は、「文武二道万石通」だとか「江戸生艶気樺焼」だとか「桜姫全伝曙草紙」だとか漢字ばかり並ぶので、現代人には、たいそう難しそうに思えるかもしれないが、何のことはない、今で言えば、漫画のようなものだ。
挿絵がドン、と描いてあって、あいたスペースに本文がずらずら書いてある。
挿絵はとってもシュールだが、有名画家葛飾北斎なども絵を提供している。
内容もこれまたシュール。荒唐無稽なストーリー、シニカルなギャグの連続である。
といっても分かりづらいだろうから、黄表紙のひとつ「箱入娘面屋人魚」(画・北尾重政)のあらすじを紹介する。

浦島太郎は乙姫との結婚が倦怠期を迎え、繁華街である中州で芸者の鯉と浮気する。
中州は現在の箱崎町あたりであり、実際の繁華街であったが、黄表紙では設定上、川の中に水没しており、竜宮城のようになっている。
二人は事に及び、鯉は妊娠し、出産。浦島太郎はその子供を押し付けられてしまう。
女の子だったが、魚と人間のあいの子であったので、人魚(絵がかなりすごい)である。
困った浦島太郎は、その人魚を海に流してしまう。
後日。
漁に出た平次は、網にかかった大きな魚があるので、見て仰天。
成人(成魚)した人魚だった。
平次は大事に家に持って帰ってこっそり女房にする。
どこで聞きつけたか、見世物小屋の主人が、売らないかなどと言うが、平次は即座に断る。
しかし、家は貧乏で街金にも金を借り、家賃も滞納するありさま。
そこで、人魚は自らを女郎屋に売り込むことにする。
珍しもの好きの女郎屋主人が人魚をもらいうけ、花魁にする。
上客がついたのはいいが、初床の際、あまりに人魚が生臭くて、臭いに我慢しきれず、客は逃げ出してしまう。
結局、人魚は家に追い戻されるが、借金の山。
困った二人が儒学者に相談したところ、人魚をなめると、若返るので商売にすれば、と言い出す。
それを聞いた庶民はひとなめ一両以上もするのに老若男女が押し寄せるように人魚をなめにくる。
「もっと下の方がなめたい」などという下品な客もいたが、大盛況。
二人は一気に金持ちに。
女房に鯉のぼり!を着せて、偽商売を始めた者もいるがすぐにばれて、夫婦ケンカが始まる。
一方、自分も若返りたいと人魚をなめすぎた平次は子供になってしまう。
そこに浦島太郎が玉手箱を持参して現れる。
玉手箱をあけてびっくり、平次は油の乗り切った男盛り31歳に。
人魚もなんだかんだしているうちに、皮がむけて、普通の人間になった。
この皮も薬として売れて、二人はさらに金持ちになる。
それから平次は年をとると人魚をひとなめし、若返り、もう何百年も生きているという話。
二人が住んだ所をもとは人魚町と呼んだが、今はなまって人形町になったと最後にこじつける。


あらすじよりも原作は数倍面白い。
下記出版社から本がでているので興味ある方は実際に手にされてはいかがだろう?
   
左が箱入娘面屋人魚、右の画は葛飾北斎

江戸戯作草紙 棚橋正博 小学館
ポケット文学辞典 文研出版

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KATANA

2006年05月17日 | 江戸の武器
日本が第二次世界大戦に負けて残念だったと思うことに、何万本もの刀が海外に二束三文で流出してしまったことがあげられる。
刀は古代には太刀(たち)と呼ばれ、反りのない直刀であった。それが平安期になると反りのあるものに変化していく。そして、戦国時代になると、が登場。
太刀と刀。なんの違いが?と思われるかも知れない。
大きく違うのは、太刀は刃を下にして吊るすように携帯する。これを佩(は)くという。
一方、刀は刃を上にして、携帯した。これは、差すと表現された。
また、太刀は三尺(約90cm)くらいあったが、刀は二尺三寸(約70cm)以下が標準であった。
武器としての攻撃力よりも、軽量化が求められるようになったのである。
これは、「我こそは」と名乗りを上げてから切りあったいささかのんびりした感のある馬上の戦いから、至近戦へと戦法が移行していったという事情による。

さて、武士にはステイタスシンボルとして必需品だった刀。
時代劇では素浪人が腰に差しているのは竹光だったなどという設定も好まれて使われているようだが、お値段はいくらくらいだったのだろう?
石川英輔氏の「大江戸番付つくし」は、1800年代のものと思われる名刀の番付表を紹介している。
そこにはしっかりと価格まで記されている。
目についた所を書き示して見ると、三人の行事役の一人に大坂の粟田口忠綱(20両)、副主催者に虎徹(30両)。東の大関には、42歳で夭逝した天才、津田越前守助廣(30両)、西の大関には地刃の出来の優れた大坂の井上真改(30両)。個人的に好きな近江忠廣(7両)は西の前頭に位置している。
番付の端を見ると1両という値段も見える。
この頃の一人前の大工の年収はだいたい20両。
前項に登場の淡野氏の試算によるとこの頃の1両は12万円と見ているが少しレートが低いかも知れない。
仮説的に1両=15万円としてとらえると、刀は15万円くらいから、450万円くらいだったと言える。
かなりの格差である。現代で言うと、車であろうか。
中古車から高級車という並びになる。
浪人が刀を質屋に入れるのは現代人が車を中古車センターに売るようなものかもしれない。

さて、有名人はどのような刀を使っていたのだろう?
鬼平こと長谷川平蔵は、二尺二寸九分の粟田口忠綱をメインに井上真改を使った。どちらも高級品だ。忠綱は、江戸城内で田沼意知が佐野善左衛門によって殺害された時に使われた刀である。佐野は賄賂政治家の息子を倒したと、庶民から「世直し大明神」としてもてはやされ、忠綱の価格も高騰したという。同じ時代に生きた平蔵もそのこともあり、愛用したのではないだろうか。
近藤勇は、虎徹。近藤の刀は実は偽虎徹だったという説もあるが、真偽は明らかでない。

虎徹は、現代で言う彦根市長曽根の生まれ。
福井で鎧師として既に名匠としての地位を築いていた。
あるとき、御前で名刀と名兜とどちらが強いかが話題になり、勝負することになった。
もちろん、兜は虎徹作。
いざ勝負の時。
刀匠が、満身の気迫を込めて刀を振り下ろそうとしたその刹那。
虎徹は「しばし」と言って、
「位置が少し曲がっておりますゆえ」と兜の位置を直した。
それを刀匠は怒ったような顔で見ていたが、
再び、満身の力で刀を振り下ろした。
しかし、兜はびくともしなかった。
刀匠は、返す刀で近くにあった石の灯籠を斬ると、灯籠はまっぷたつに割れた。
将軍は二人ともあっぱれであると、ふたりに褒美を下さったが、勝敗は明らかである。
虎徹は、勝った。
しかし、虎徹はその直後、兜作りをやめてしまう。
そして、その刀匠に弟子入りをし見知らぬ地に行ったのである。
後日、虎徹は、
「あのときは刀匠の気迫十分で、負けたと思った。それで、気迫をそぐために待ったをかけたのだ」
と告白している。
そして、
「そんな自分が恥ずかしくてならなかった」
と言っている。
時に、虎徹50余才。御前試合に勝ったと、自慢し、鎧師としての地位を更に確固たるものにしてもよかった。
当時の50歳は、多くが隠居する年齢である。
しかし、虎徹は、その年齢から奮起して、日本一の刀匠としての地位を確立したのだ。
現代で言えば、60過ぎのオーナー社長が、その椅子をかなぐり捨て、違う分野で成功を納めたようなものだ。
虎徹は、延宝六年(1678年)に上野池之端で74歳で亡くなっている。当時としては、高齢だ。
チャレンジ精神があったから、高齢まで生きられたのか、それとも、それくらいまで生きられる生命力のあった人だから、50歳を過ぎてもチャレンジすることができたのか。
それはわからないが、人は成し遂げたいことがあるうちは老いないものじゃないかな、と思う。
いい話だ。

写真は私の愛刀

大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社
ここに生きる道がある 心に残るエピソード集 花岡大学 PHP 
図説日本刀大全 学研
岡山の優品展覧 備前長船博物館
歴史読本 1993年8月号
カット&ラリー http://www.n-p-s.net/

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酒のはなし

2006年05月17日 | 江戸の味
「下らない」という言葉がある。
江戸時代は京都が首都であったから、関東から関西へ行くのが上りで、関西から関東へ行くのが下りであった。
この時、江戸は大消費地にはなってはいたが、高級品はまだ関東では作れず、関西から来る「下りもの」は高級品であった。
関西から送られてこないものは、当然「下りもの」ではなく、「下らないもの」であった。
これが「下らない」の語源である。
下るもの、下らないもの、と二分化され特にブランドイメージが強力だったもののひとつに酒(日本酒)がある。
江戸時代は貧しかったようなイメージがあるが、実際のところ元禄時代(17世紀末~18世紀初)には、江戸の人々は年間ひとりあたり54リットルの酒を飲んでいたという。今の日本人の年間消費量は70リットルだそうで、現代は飲んでいるお酒がビールあり、ウイスキーありと、お酒の度数が違うので単純比較はできないが、元禄の江戸庶民は現代人と比較しても遜色ない量のアルコールを飲んでいたことになる。
話が横道にそれたが、高級酒の製造元は関西に独占されていた。
関西でも初期の生産の中心地は摂津の伊丹や池田であったが、のちには灘五郷と呼ばれる兵庫県西宮から神戸へかけての地区へ移行していく。
この背景には阪神タイガース応援歌で有名になった六甲おろしと呼ばれる寒気と、夙川を中心とした川の流れを利用した24時間利用可能な水力による搗米のイノベーションがあった。
ところで、当時のお酒はいくらくらいだったのだろう?
淡野史良氏は著書の中で志賀理斎の「三省録」を引用して、慶安期(1648~1652)の酒の価格を表している。
それによると、各1升で、

関東並酒    二十文(600円)
関東上酒    四二文(1260円)
大坂上酒    六四文(1920円)
西宮上酒    七二文(2160円)
伊丹西宮上酒 八十文(2400円)
池田極上酒  百文 (3000円)


となっている。

醤油が銚子物で六十文(1800円)、そばが十六文(480円)としている。
淡野史良氏は一文=30円としてレート換算している。
この手の物価計算の整合性としてはよくかけそば一杯の価格が引き合いに出されるが、今風に言うとラーメンの価格と言った方が通りがいいかも知れない。
すなわち、この例でいうと、ラーメン一杯=480円が妥当かどうかである。
私は妥当だと思う。
すると、潤沢な消費量を前にして、米文化であった江戸時代の日本酒は意外なほど安かったのかも知れない。
1.8L 600円とはどんな酒かと思うけれど。それにしても酒のなかでも下り物とそうでない酒の価格差は凄い。
それだけ、ブランド品は儲かったということにもなるのだろう。実際、灘の造り酒屋は今でも大金持ちである。

現代では、どうか。
インターネットで調べてみると、売れ筋の久保田が万寿で9380円、千寿が2880円。関西だと灘の黒松白鹿特別本醸造が2380円、剣菱で3055円。価格差はないようにも見えるが、実際には楽天の売れ筋ランキングベスト30位内にかつてのブランド灘の酒の名前は一つも入っていない。白鹿の中にも高価格のものは存在するが、価格的には逆転してしまったと見るのが妥当だろう。

かつてはブランド品であった関西の日本酒メーカーが、新潟あたりの日本酒にブランド力を奪われ、今は大衆酒を中心に造っており、そのブランド品である関西以外の酒米に兵庫県産の山田錦が多く使われているというのはアイロニーには違いない。

最後に、時代劇の間違い指摘をひとつ。
よく居酒屋などで客が現代の徳利を使って酒を飲んでいるが、あれは間違い。
このころは、ちろり、という錫でできた酒器を使っていた。
今でもおでんの屋台などに行くとたまに見かける容器である。
縄暖簾(居酒屋)では、惣菜が酒一合の値段より安かった。現代でも生ビールは料理より高いケースが多いのでそれは同じかもしれない。
その点でも江戸時代は、非常に現代と近似している気がしてならない。


大江戸番付づくし 石川英輔 実業之日本社
町屋と町人の暮らし 平井聖 学研
数字で読むおもしろ日本史 淡野史良 日本文芸社
日本酒造組合中央会 http://www.japansake.or.jp/sake/
ちろり http://allabout.co.jp/gourmet/sake/closeup/CU20041210A/↓ よろしかったら、クリックお願いします
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豆腐

2006年05月16日 | 江戸の味
豆腐の話から始めたい。
愛知県豆腐商工業協会のHPによると、豆腐の歴史は中国で初めて製造されたのが紀元前2世紀。日本には遣唐使により伝えられ、文献に登場するのは1183年の春日大社の神主の日記だと言う。しかし、永らくは高級食としての位置づけで、江戸中期までは庶民はなかなか口にできなかった。それが、江戸中期になると一大グルメブームが起こり、田沼意次のバブル期天明2年(1782年)には料理方法を書いたグルメ本である「豆腐百珍」が出版され、豆腐人気に火がつく(この「豆腐百珍」は現在でも新潮社刊の新書で入手可能)。この本はなかなか優れた本で現代でも通用するような豆腐料理が数多く紹介されている。「ふわふわ豆腐」「ぶっかけうどん豆腐」「雲かけ豆腐」などのネーミングも優れていて「どんなものだろう」と想像力をかき立てられる料理がずらっと並ぶ。特徴的なのは調理方法。現代だったら、変わり奴のような冷や奴にトッピングを加える料理も多いようだが、百珍では、煮るが55品、焼くが20品、揚げるが16品、生が2品、その他が7品という構成になっており、加熱加工が中心となっている。生ものを尊ぶ江戸の町人にあって、豆腐というのが極めて上品なものだったことが伺える。当時の大村益次郎も大好きだったという豆腐。暖かくなってきた最近、奴で一杯。今夜あたりいかがだろうか?

おまけ
おまけに酒の肴に超簡単、味噌豆腐の作り方。
①豆腐をキッチンペーパーで包み電子レンジで2分加熱。
②ペーパーを代え、よく水気を切る。
③全体に味噌を塗りつけ、ラップで包み、密閉容器に入れ、冷蔵庫に保管。
④2~3週間すると、あら不思議。おいしい味噌豆腐のできあがり。見た目はあまりよくないが酒の肴に最高です。




日本豆腐協会 http://www.tofu-as.jp/index.html
愛知県豆腐商工業協会 http://www.aiweb.or.jp/otoufu/
豆腐百珍の全て http://www.tofu-ya.com/t-hyakuchin/h-subete.htm
福田浩、杉本伸子、松藤庄平 『豆腐百珍』(新潮社、1998年)

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