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  <title>大江戸百花繚乱　花のお江戸は今日も大騒ぎ</title>
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  <dc:creator>tadious</dc:creator>
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   <title>大江戸百花繚乱　花のお江戸は今日も大騒ぎ</title>
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   <description>スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ～」を中心に書いています。</description>
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  <description>スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ～」を中心に書いています。</description>
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   <title>山岡鉄舟とあんぱん</title>
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<![CDATA[
もう何十年も前、歴史にまったく興味がなかったころの話。ハイキングに行った帰り、埼玉県比企郡の小川町を歩いていたら「二葉」という割烹があり「忠七めし」というお茶漬け風の名物料理を見つけた。「剣豪・山岡鉄舟考案」とも書いてあり、これが初めての山岡鉄舟との出会いだった。<br><a href="https://ogawa-futaba.jp/guide-futaba" rel="noopener" target="_blank">二葉のHP</a>によると、日本には五大名飯というのがあるらしい。<br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/d1/d6470451d09347fc1e328ae65dd1656c.png" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>それは、<br>忠七めし（埼玉・小川町）<br>深川めし（東京・深川）<br>さよりめし（岐阜・山岳地法）<br>かやくめし（大阪・難波）<br>うずめめし（島根県・津和野町）<br>だということだ。<br>前置きが長くなったが、山岡鉄舟の書は静岡県の吉原の旅館「鯛屋」でも見かけたことがあるし、鉄舟はいたるところで揮毫している。<br>その中のひとつ、木村屋總本店の看板も鉄舟の揮毫である。どうして鉄舟が揮毫したかというと、もともと親交があったようなのだが、明治７年に日本人の口に合うようにと発明された酒種あんぱんが好物だったからとも言う。<br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/25/e38b526f785ae92ef5f32cfa302f7ce9.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><a href="https://www.kimuraya-sohonten.co.jp/" rel="noopener" target="_blank">木村屋總本店のHP</a>から引用すると、明治８年、<br>明治天皇が水戸藩下屋敷（現在の向島）を行幸される折、巷で評判の酒種あんぱんを献上してはどうかと侍従山岡鉄舟よりお薦めの言葉を頂戴し、四月四日、奈良の吉野山より取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けを埋め込み焼き上げた、季節感たっぷりのあんぱんが明治天皇に献上された。 ことのほか、皇后陛下のお口にあい、両陛下より「引き続きおさめるように」とのお言葉を賜った。<br>とある。このことから、４月４日があんぱんの日として知られるようになった。山岡鉄舟については以前<a href="https://blog.goo.ne.jp/tadious/e/a3da5374c983def4ac87b2abab8c7520" rel="noopener" target="_blank">「吐しゃ物を食べた山岡鉄舟」</a>という記事でも書いたがとても興味深い人物だ。<br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/c4/655ce204a66d16b27d88b65252f19a61.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>
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   <category>人物エピソード～人を知れば時代が見えてくる</category>
   <dc:date>2025-04-04T12:00:00+09:00</dc:date>
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   <title>江戸時代の飛脚は現代にタイムスリップしたらマラソンランナーとして活躍できるか？</title>
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<![CDATA[
スポーツ時代小説を書いているとタイムスリップというシチュエーションをよく考える。走りのプロだった飛脚が現代にタイムスリップしてきたら、マラソンや駅伝で活躍できるか、ということも考えた。佐川急便のキャラクターにもなっている飛脚。かなり速いイメージがあるが、実際のところはどうだったのであろう？<br>「上方・下方抜状早遅調」という記録が残っている。ややこしい名前だが、カミガタ シモガタ ヌキジョウ ソウチ シラベと読む。京～江戸間の運行表であり、鉄道でいえば時刻表に当たる。実物は東京都港区の物流博物館に展示がある。博物館のホームページには写真が載っているが、無断掲載禁止なので、興味がある方は<a href="https://www.lmuse.or.jp/collection/gallery/edo/05.html">こちら</a>からご覧ください。<br>江戸～京間は、約５００ｋｍ。せっかく上のややこしい名前の資料によると江戸～京間の標準所要時間は６３時間とある。このことから、５００÷６３≒８ｋｍ/時が飛脚の速さだと分かる。少し補足すると、宮～桑名間は夜行の船便を使用しているので、時速が１２ｋｍ/時まで上がっている。いっぽう、小田原～箱根のような難所も８ｋｍ/時で走り抜けている。<br>マラソンの世界記録を見てみると、男子が21.1km、女子が19.2ｋｍ。ニューイヤーズ駅伝だと、20.9km（2025年・男子）。<br>比べるまでもなく、時速8kmというのは軽いジョギング程度である。飛脚を爆速で走るなどといった表現も見かけるが、数字だけを見たら、それほど速くないことが分かる。<br>飛脚に求められたのは短時間の爆走ではなく、長時間コンスタントに走り続ける能力だったのである。しかも、毎日のように走るのだから、明日へ疲労を残さない走り方も求められた。今に残る写真を見ても、飛脚の足は驚くほど太いが、サラブレッドではなく、頑丈な農耕馬を思わせる。<br>現代のマラソンの急激な高速化に日本人がついていけなくなっているのも、案外、こんなところにルーツを見いだせるのかもしれない。<br><br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/a6/b919a913cd7b65af55d729d33f4e2ec3.png" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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   <category>江戸の交通</category>
   <dc:date>2025-03-24T12:00:00+09:00</dc:date>
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   <title>べらぼうの蔦重たちの吉原までの交通費</title>
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<![CDATA[
時代劇で吉原と言うと、普通は引っ越したあとの新吉原を指す。もともとは葺屋町（現代の中央区日本橋人形町付近）人形町にあったのだが、明暦の大火、いわゆる振袖火事により遊郭も灰となった。<br>江戸の中心といってもいい場所に遊郭があることを憂慮していた幕府はここぞとばかりに吉原の移転を命じる。<br>移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。<br>この時から、以前の吉原を元吉原、後の吉原は単に吉原、もしくは新吉原と呼ばれるようになった。<br>現代でも吉原と言うのは、土地の人間か、一部の人間（？）以外にはどこにあるのか分かりにくい場所にあるのだが、ＪＲでいえば日暮里が最寄駅となる。その手のお店の案内を見ると、入谷駅約14分、三ノ輪駅約14分、南千住駅約17分、浅草駅約21分とある。<br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/09/066288f2f37f93655974929aefd7cd6d.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii">（図説吉原入門より）<br>江戸時代の人間は、日本橋や神田方面からは舟、浅草方面からだと徒歩で行くのが普通であった。<br>柳橋（ＪＲ総武線の浅草橋駅の近く）から舟に乗って大川（隅田川）に出た客は、首尾の松を左手に見ながら、吾妻橋を潜る。ほどなくして、竹屋の渡しが見え、舟は支流の山谷堀へ入るため、左に舵を取る。今戸橋を潜ると、舟は船宿へと着く。船頭に酒手をいくらか弾んで、船宿へと上がる。そこからは日本堤とよばれる土手である。日本堤とは壮大な名前だが、もうひとつ近くに堤があったので二本の堤というところから、日本堤と呼ばれるようになったらしい。別名、土手八丁。これは吉原までの距離が８丁（９００ｍ弱）だったからそう呼ばれた。気が焦るのか、船宿から駕篭を使う客も多かったという。日本堤は浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ一本道なので、徒歩で来た客も最後はこの場所を通らなければならない。衣紋坂を下りると、見返柳が見える。吉原への名残惜しさから、客が見返ったという場所である。そこからは、吉原が直接見えないようにわざと屈折した五十間道（三曲りとも言われた）が広がる。さらに少し歩くと、大門（おおもん）が見える。<br>二間（３．６ｍ）のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。<br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/ab/5e5f257fad9ffd54e5cb608777a7a1f1.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>（広重画帖　新吉原衣文坂日本堤）<br>ずっと徒歩で行く場合はもちろん費用は掛からないが、乗り物を使用したときはどのくらい掛かったのであろう？<br>江戸時代の記録マニア喜田川守貞の「守貞謾稿」に記載がある。<br>１文＝３０円レートで計算してみる。ついでに現代（令和７年３月）でのタクシー料金を調べてみる。<br><br>馬　日本橋～大門　　　並二百文（６，０００円）　　　白馬三百四十八文（１０，４４０円）　　タクシー料金　２，１００円　<br>駕篭　小伝馬町～大門　　　　　二朱（１５，０００円）　＊雨の場合は増賃　　　　　タクシー料金　１，６００円<br>舟　柳橋～山谷堀　　猪牙舟　百四十八文（４，４４０円）　　<br>　　屋根舟　四百文～五百文（１２，０００円～１５，０００円）　　　タクシー料金　１，５００円<br>江戸時代は乗り物の代金がかなり高かったようである。<br>(2012.5.16の記事を加筆修正）<br><br>
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   <category>江戸の交通</category>
   <dc:date>2025-03-09T09:40:04+09:00</dc:date>
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  </item>
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   <title>花魁とは？　～　「べらぼう」瀬川の花魁とは？</title>
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<![CDATA[
花魁（おいらん）というのは間違いやすい言葉だ。花魁とは最高ランクの遊女の格を表す言葉として捉えがちであるが、この言葉は正式なものではない。もともと妹女郎が「おいらの姉さん」のように使用したのが始まりとされ、上位の遊女を表す総称である。<br>大河ドラマで活躍の瀬川の正式な格は「花魁」ではなく「呼出」という名称が正しい。<br>この遊女の正式なランクの呼び方は、何回も変わっているので、ややこしい。順を追ってみてみることにする。<br>吉原は、移転しているので、移転する前を元吉原、移転後を新吉原（または単に吉原）と区別するが、元吉原が出来上がった当時は<br><br>①端（はし）女郎　→　格子（こうし）女郎　→　太夫<br><br>という格付けであった。<br><br>それが、元吉原後期には、<br><br>②切見世（きりみせ）　→　端女郎　→　局（つぼね）女郎　→　格子女郎　→　太夫<br><br>の５段階となる。<br><br>移転後の格付けは、<br><br>③切見世　→　局　→　散茶　→　格子　→　太夫<br><br>となり、さらに、<br><br>④切見世　→　局　→　梅茶　→　散茶　→　格子　→　太夫<br>となる。<br><br>この中の散茶というのは、振らないでも出る挽いた茶のことであり、「客を振らない」に引っ掛けた言葉である。<br>さらに、挽茶を薄めたという洒落から「梅茶」なる格も生まれた。<br>ここまで続いた最高位の太夫とは、もとは舞台芸人の統領の呼び名であったが、時代が下ると吉原でも用いられるようになった。<br>吉原が移転した際には、２０～３０名ほどの太夫がいたとされるが、安永九年（１７８０年）に太夫格の女郎はいなくなった。<br>これは、吉原の上客が武士階層から商人層に移行したという理由もある。いかにも武士が好みそうな格式のある名称が敬遠されたのであろう。<br>太夫がいなくなってからの格はそれまでのものとは、かなり変わる。<br><br>⑤切見世　→　部屋持　→　座敷持　→　附廻　→　昼三　→　呼出<br><br>太夫に代わり最高位となった呼出は、客の呼び出しがあるまで自分の部屋で待機し、呼び出しがかかると客の待っている茶屋まで行く遊女である。<br>昼三は、昼でも夜でも、揚げ代が三分かかる遊女。附廻とは、昼二の別名のとおり、揚げ代が二分の遊女。<br>座敷持ちは居室のほかに座敷、つまり２ルーム持っている遊女で、ここまでが上級とされた。<br>しかし、客も正式な格の名称では呼ばず、上級の遊女に対しては「花魁」と呼んでいたようである。<br><br>（参考文献）<br>江戸３００年　吉原のしきたり　渡辺憲司　青春出版社<br>吉原入門　永井義男　学研<br><img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/20/927f4a075e30e583aefe9fefa87c597b.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii">吉原の五十間道。三曲がりの別称のある通り、道をくねらせて、わざと見通しを悪くしている。<br>↓よろしかったら、クリックお願いいたします！<br><br>
]]></description>
   <category>江戸の風俗</category>
   <dc:date>2025-03-01T08:19:43+09:00</dc:date>
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  <item>
   <title>志士となった国定忠治の息子　</title>
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   <description>
<![CDATA[
上州国定村の忠治は博徒の親分として名高い。<br>
<br>
しかし、忠治の晩年は中風を患い、知り合いの間をたらいまわしにされるというみじめなものであった。<br>
不自由な身体のまま縄を受けた忠治は、大戸の関所に併設された処刑場で磔にされた。<br>
<br>
唐丸駕籠で運ばれた忠治であるが、その駕籠の中には高級品である更紗の座布団を二枚重ね、さらに真っ赤な座布団を重ねるという豪華仕様であった。<br>
また忠治のいでたちは、無地の浅黄に白無垢を重ね着し、白い手甲と脚絆を着け、首からは大きな数珠を掛けていた。<br>
この派手な格好をして、堂々と立ち振る舞う様子は見事なもので人々の脳裏に強烈な印象を残した。<br>
磔のあと、いよいよ槍を突き刺される段になっても動じたところを見せず、逆に役人を励ましたというエピソードは忠治の人気を高めた。<br>
さらに芝居で取り上げられるようになり、忠治の人気は不動のものとなる。<br>
その忠治に息子がいたのは意外と知られていない。<br>
<br>
忠治の女性関係は華やかであった。正妻の鶴のほかに、よく知られたところだけでも愛妾の町、徳などの女性がいた。<br>
大久保一角という武家崩れの娘に生まれた貞も忠治の妾のひとりである。<br>
その貞と忠治の間に生まれたのが寅二である。<br>
もっとも、忠治が処刑されたのが寅二８歳（数え年）のときであり、実際に会ったことがあるのかどうかも分からない。<br>
元服して国次と改名するようになった寅二は、さらには真言宗の寺である<a href="https://idurusan.com/">出流山万願寺</a>に入門し、千乗と名乗る。<br>
<br>
<br>
下って、時は慶応三年（1867年）十一月。<br>
明治になる一年前。<br>
幕府挑発のため、薩摩藩が御用盗と呼ばれる江戸市内での強盗や放火などのテロ行為を指示していたのはよく知られているが、江戸以外での地方でも工作が行われた。<br>
薩摩藩の意向を受けた竹内啓、西山謙之助らの勤王志士は薩摩藩主・島津忠義夫人の安産祈願という触れ込みで万願寺に入った。<br>
彼らは寺に入るやいなや、討幕の意を露わにする。<br>
その決意に共感した千乗こと国次は、以来、大谷刑部、あるいは大谷国次と名乗り、志士たちに合流する。<br>
<br>
下野国に集まった志士たちは本気で討幕を試みていたであろうが、薩摩の上層部としては、幕府を威嚇して戦闘の口火を切らせるための陽動作戦でしかなかった。<br>
赤報隊の悲劇にも共通するが、いわば切り捨てられた部隊だった。<br>
たいした戦果を挙げることもできず、敗戦する。<br>
<br>
国次は志士たちの群れに参加してからわずか一か月ほどしか経っていない慶応三年十二月十八日、処刑された。<br>
わずか２４年という短い生涯だった。<br>
大谷刑部と名乗ったのは、関ケ原の合戦で散った名将・大谷刑部吉継にあやかったのは間違いない。<br>
処刑されるときに国次の脳裏に浮かんだのはどのような考えであったのだろか。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/8a/44b1dda9321f94d29ff952c87cfefd2e.jpg" border="0"><br>
緑が美しい万願寺の山門。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/e9/2df83b39786de70cb14476abd3f26930.jpg" border="0"><br>
万願寺は、滝行ができることでも有名。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/05/a791319b504d10b2424a3e5eee6c4f23.jpg" border="0"><br>
奥の院には、鍾乳洞でできた十一面観世音菩薩がある。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/32/1b56ec6265591f3252f1161c87d63821.jpg" border="0"><br>
現在では<a href="https://www.tochigiji.or.jp/spot/s9772/">出流そば</a>でにぎわっている。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/63/020079dc51819c488fa3977facab0c76.jpg" border="0"><br>
巴波川に架かる念仏橋（現在の幸来橋）の付近では、激しい戦いが行われた。<br>
<br>
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   <category>人物エピソード～人を知れば時代が見えてくる</category>
   <dc:date>2025-02-11T12:10:08+09:00</dc:date>
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  <item>
   <title>宇田川三代　～　岡山県津山市</title>
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   <description>
<![CDATA[
先日、岡山県津山市に行った。<br>
この地は洋学が盛んだった地で、宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕按三代の所縁がある。<br>
個人的には「舎密開宗」を表した宇田川榕按の名前は知っていたが、宇田川三代と言われるとよくわからない。<br>
そこで調べてみました。<br>
<br>
宇田川玄随（1755-1797）　うだがわーげんずい<br>
津山藩（現岡山県津山市）は、江戸城鍛冶橋門の内側に一万二千坪の拝領敷地を持っていたが、この江戸上屋敷で生まれたのが宇田川玄随である。<br>
もとは漢方医で西洋医学を白い目で見ていたが杉田玄白らと付き合ううちに西洋医学の重要性に気づき、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』（全18巻）を刊行する。<br>
蘭学者の大槻玄沢は、玄随の容姿を「色が白く体は小作り、顔付きは柔和で鼻は顔の釣り合いより大きく、眉は真っすぐ」と書いている。<br>
また、性格については「常に控えめで、争いを好まない物静かな性格だったため、言葉や挙動が穏やかで婦人のようだった」とし、友人は玄随の号の東海を取って、東海婦人と呼んでいたそうです。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/da/082f2fe73467fbc494c119601010615b.jpg" border="0"><br>
<br>
<br>
宇田川玄真（1770年 - 1835年）うだがわーげんしん<br>
伊勢国（現三重県）の生まれ。<br>
宇田川玄随の知己を得たのち、杉田玄白の養子となり、順風満帆のようにみえたが、養子になった直後から放蕩が始まる。<br>
怒った玄白に離縁され、路頭に迷う暮らしに転落。<br>
心を入れ替えた玄真は、「蘭日辞典」を編纂中の稲村三伯を助け、「ハルマ和解」を完成させる。<br>
この努力が認められ、玄随の養子となる。<br>
「西説内科撰要」を表し、蘭学者としての名声を得る。<br>
その後、蕃書和解御用に命じられ、藩医のかたわら月に８回ほど幕府の仕事をした。<br>
弟子には佐藤信淵、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫といったそうそうたる顔ぶれがいる。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/ae/adcd1ec153e392c155afbca7eabfd532.jpg" border="0"><br>
<br>
<br>
宇田川榕按（1798年 - 1846年）　うだがわーようあん<br>
大垣藩の藩医の息子として江戸にて生まれる。<br>
１４歳のとき、玄真の養子となる。<br>
玄随が西洋医学の先駆けとして現れ、玄真が玄随の考えを継ぐ一方、翻訳業にも精を出したのに対し、榕按は植物学と化学に歴史的な足跡を残した人物である。<br>
榕按は、日本で初めての植物学の植物学書である『理学入門植学啓原』（しょくがくけいげん）全3編を書く。<br>
さらに『舎密開宗』（せいみかいそう）は日本の化学史に残る燦然たる実績である。<br>
伊地智昭亘氏によると、榕按が作った言葉としては、<br>
<br>
圧力、亜硫酸、塩酸、王水、温度、還元、気化、蟻酸、凝固、希硫酸、金属、金属塩、珪土、結晶、琥珀酸、酢酸、酸、酸化、酸性塩、試薬、煮沸、蓚酸、昇華、蒸気、蒸散、蒸留、親和、水鉛、吹管、青酸、成分、、装置、炭酸、中性塩、中和、潮解、尿酸、白金、物質、沸騰、分析、ほう酸、法則、飽和、溶解、容積、硫化、硫酸、流体、燐酸、るつぼ、濾過<br>
<br>
などがあるとされる。<br>
また１９歳のとき『哥非乙説」という論文を書いて、コーヒーを紹介している。<br>
珈琲という当て字を作ったのも榕按だとされている。<br>
<br>
<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/7a/08d4e700163019bc766a6d2b56bf485d.jpg" border="0"><br>
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   <category>人物エピソード～人を知れば時代が見えてくる</category>
   <dc:date>2025-02-03T19:19:17+09:00</dc:date>
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  </item>
  <item>
   <title>江戸の大名屋敷</title>
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   <description>
<![CDATA[
安藤優一郎氏の「大名屋敷『謎』の生活」（PHP文庫）に次のような記述がある。<br>
<br>
江戸は江戸城を核とする日本最大の城下町である。武士が住む武家地がその約七〇％を占め、町人が住む町人地と寺社地が同じく十五％ずつ分け合った。<br>
<br>
歴史好きな方なら、江戸っ子が狭い土地にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれるようにして住んでいたという史実をご存じかもしれない。<br>
しかし、次の記述はどうだろうか？<br>
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江戸の土地の七〇％を占める武家地の過半は大名屋敷だった。意外にも、将軍のお膝元江戸は、大名屋敷の街という顔を持っていた。<br>
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武家人口の約八〇％が地方から出てきた藩士たちで占められた。<br>
<br>
確かに、意外。<br>
よく考えてみるとその通りなのだが、武家地の半分が大名屋敷だったというのは盲点だった。<br>
そして、八割の武士が地方出身者。<br>
現代でも東京は地方からの転勤社員が多く住んでいるのだから、似たようなものなのかもしれない。<br>
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この大名屋敷は端的に言うと、菊池正芳氏の「江戸大名庭園は挑む」（はる書房）に書かれているように、<br>
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大名の住む上屋敷、妻子の住む中屋敷、震災等で上屋敷を失った場合の屋敷である下屋敷の三か所の屋敷を得ることになった。<br>
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であったが、あくまでもこれは原則である。<br>
小大名の多くは中屋敷を持たなかったし、複数の中屋敷や下屋敷を持つ家もあった。<br>
たとえば、御三家の尾張藩は、<br>
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尾張藩でも市ヶ谷の上屋敷のほか、中屋敷二か所、下屋敷を六か所に備えていた。<br>
小寺武久氏「尾張藩江戸下屋敷の謎」（中公新書）<br>
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これらの屋敷は将軍から与えられたもので「拝領屋敷」と言った。<br>
この辺りは、真田宝物館の「お殿様、お姫様の江戸暮し」という企画展の解説本（長野市教育委員会文化財課）に分かりやすい記述がある。<br>
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松代藩は江戸にさまざまな屋敷を持っていました。江戸の屋敷は大きく分けて二つの種類に分かれます。<br>
第一は拝領屋敷で、これは将軍から拝領した屋敷をいいます。真田家の場合、①藩主の居所、②隠居した藩主や次代の藩主の居所、③郊外の遊園、災害時の避難所、の三種類がありました。➀は上屋敷で四度の変遷を追うことができます。②は一般的には中屋敷といいますが、真田家の場合、下屋敷をあてています。（中略）③は二箇所から三箇所が常にありました。<br>
第二は抱え屋敷で、百姓の土地を購入した屋敷です。これは資産保有という側面が大きいとされます。拝領地と違い、村に対して年貢を払うという性格の土地（いわゆる年貢地）です。年貢も比較的高かったようです。真田家においては、拝領地が少なかったために、この抱屋敷、抱地を多く持ち、参勤交代で江戸居住となった武士たちの長屋を賄うなどの役割をしています。<br>
<br>
真田家は十万石。<br>
けっして小大名ではないが、それでも拝領地は少なかったようだ。<br>
参勤交代の費用で遠国の外様大名は苦しんだ、という記述を時々見るが、大名が苦しんだのは参勤交代の道中での費用ではなく、江戸での滞在費用だったのである。<br>
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柳沢吉保が造った六義園。<br>
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   <category>武士の暮らし</category>
   <dc:date>2024-10-06T12:16:12+09:00</dc:date>
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   <title>古式泳法</title>
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<![CDATA[
弊著「慶応三年の水練侍」は江戸時代にもバタフライに似た泳ぎはあったのではないか、という前提のもとに執筆しました。<br>
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日本の古式泳法というと、非常にゆっくりした泳ぎを想像する方が多いと思います。<br>
たしかに日本の泳法は武具を付けて泳ぐことを前提としていることや、泳ぎ切ったあと疲れてしまっていては戦いにならないので、体力の消耗を防ぐ観点から、ゆったりした泳ぎが多いのは事実です。<br>
また、敵から攻められることも想定しているので前方が見えるように顔を上げて泳ぐのが基本です。<br>
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しかしながら、堀を泳いで敵を攻めようとした場合など、ゆっくり泳いでいたのでは城内の敵から攻められ、すぐに死んでしまいます。<br>
日本泳法であっても速く泳がなければならない時があるのです。<br>
<br>
日本は島国だけあって、泳法の流派は百花繚乱、それこそ百を超える流派があったと言われています。<br>
今に伝わっていない流派が多いのですが、十三の流派が日本水泳連盟公認となっています。<br>
もともと日本の泳法は、スピードを競うものではないのですが、日本水泳連盟の下、年に一回、泳法大会が行われており、１００ｍ泳の記録も<br>
計測されています。<br>
それによると、優勝が１分０６秒７９（２０２３年・佐藤公介氏）となっています。<br>
<br>
ちなみに、世界記録を見ると<br>
平泳ぎ　　５６秒８８（２０１９年・アダム・ピーティ氏）<br>
クロール　４６秒８６（２０２２年・ダビト・ポポビッチ氏）<br>
<br>
こうしてみると、現在の水泳四泳法の中でもっとも遅い平泳ぎよりも１０秒も遅い記録です。<br>
しかし、１分０６秒７９という記録は、２５ｍを１６．７５秒で泳いでいることになります。<br>
これは相当速いスピードです。<br>
一般の人が全力で泳いでも、なかなか出せないスピードだと思います。<br>
<br>
水泳は左右対称が基本ですが、最近のクロールにおけるギャロップ泳法のような左右非対称の泳ぎで最速記録が生み出されることを思うと、もしかすると古式泳法の横泳ぎの中から、未来の最速泳法が登場してもおかしくないような気がします。<br>
今度は侍がオリンピックに出る小説を書こうかな。<br>
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   <category>水泳（所感）</category>
   <dc:date>2024-01-26T20:00:00+09:00</dc:date>
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   <title>札付きの悪とは？</title>
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   <description>
<![CDATA[
「札付きの悪」の札付きというのは、何のことだかよく分からない。<br>
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その前に、「札付きの悪」の意味のおさらい。<br>
岩波国語辞典によると、「札付き＝札（正札）がついていること。転じて、悪い定評があること。そういう人または物」とある。<br>
言葉の意味は分かるが、「札付き」の札が何だか分からない。<br>
<br>
前回も参考にした「絵で見て納得！時代劇のウソ・ホント」（遊子館）笹間良彦著に詳しい解説があった。<br>
結論から言うと、この場合の札とは付箋のようなものだ。<br>
以下に同書からの内容を書いてみたい。<br>
<br>
江戸時代は連座制だったので、一家の誰が罪を犯しても、罰は家族全員に及んだ。<br>
そこで、子供が罪を犯す恐れがありそうな場合は、前もって親子の縁を切って、勘当したという書類を町人に届けた。<br>
町役人から書類を受け取った名主は町奉行所に届けて決済を受けた。<br>
江戸時代、町人の戸籍というのは現代と同じくらいきっちり管理されていて、町役人のところや町奉行所には人別帳という戸籍簿があった。<br>
この人別帳から抹消（帳外）されて無宿者となれば、家族は共同責任を追及されなくなる。<br>
この作業を久離（きゅうり）を切ると言った。<br>
<br>
ここまでが前段で、以下が札付きの説明となる。<br>
<br>
勘当されそうな要注意人物には、あらかじめ札を貼っておいて、犯罪を犯したらすぐに札を外して、帳外にするための手続きがとれるようにしていた。<br>
このように勘当の予備軍としていつでも手続きをとっていたので、これを「札付き」と言った。<br>
<br>
ということである。<br>
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<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ff/3ee242e7ddbc24f0d3317df93abdd5d2.jpg" border="0"><br>
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<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/5a/2fe946fba2f9609597af173bf3dacbf1.jpg" border="0"><br>
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   <category>町人の暮らし</category>
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   <title>水戸黄門のお銀の職業って？</title>
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<![CDATA[
水戸黄門に出てくるかげろうお銀。<br>
由美かおるが演じ、人気を博したキャラクターである。<br>
お銀は、くノ一なのだが、普段は鳥追女の恰好をしている。<br>
鳥追女？<br>
よく分からない職業ではないだろうか？<br>
<br>
鳥追いというのは、元来、小正月（１月１５日）に行う農耕行事だ。<br>
小学館の「ビジュアルワイド　江戸時代館」によると、<br>
<br>
鳥追いは田畑の害鳥を追い払う行事。<br>
小正月に棒で地面をたたいたり、唄や音曲で鳥を追い払ったりして、豊作を祈った。<br>
<br>
とある。<br>
<br>
では、鳥追女はどうだろう。<br>
遊子館「絵で見て納得！時代劇のウソ・ホント」（笹間良彦）から引用する。<br>
<br>
鳥追女は、普段は質素な姿で菅笠をかぶり、新年（正月一日から十五日まで）のみ衣服を新しくし、菅笠から編笠にかえて三味線を弾き、清元や富本、常磐津、長唄、新内などをうたいながら門付けした女太夫と称する女芸人である。<br>
<br>
鳥追女は、江戸時代中期になって弾左衛門配下の車善七支配の山本仁太夫の許可を貰った五十人がはじまりである。<br>
この鳥追女が流して歩けるのは江戸府内のみで、関所を越えることはできなかった。<br>
<br>
まあ、水戸黄門さまが一緒なのだから、関所を越えられたとしてもおかしくはない。<br>
しかし、江戸時代中期にならないと現れない鳥追女が江戸初期にいたというのは、いかに黄門さまといえども手には負えないのではないだろうか。<br>
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<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/76/a67a716977d54aaca60f680f50ea3c4b.jpg" border="0"><br>
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   <category>町人の暮らし</category>
   <dc:date>2023-12-09T11:03:49+09:00</dc:date>
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