木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

将軍の賽

2020年02月23日 | 江戸の話
「将軍の賽(さい)」という古典落語がある。
yotubeで動画があるかどうか調べてみたが、なかった。
無理もない話だ。
落語では時事ネタを扱っている作品もあるが、この「将軍の賽」もそのひとつだからだ。

内容は、幕末近く、江戸城に登城した大名が手持ち無沙汰のあまり、サイコロ(賽子)博打を始めた。
その現場を将軍に見とがめられた大名たちは、将軍が世知に疎いことを利用して、その場を逃れようとする。
サイコロなるものを見たことがない将軍に、
「それは何か」
と問われた井伊掃部頭は、
「東西南北天地陰陽をかたどった宝物だ」と答える。
さらに、
「一の目は何を意味するのだ」
と尋ねられ、
「将軍家をかたどった」
と井伊は答える。
以下、
「裏の六の意味するところは」
「六十四州」
「四は」
「四天王の酒井、榊原、井伊、本多」
「三つは」
「清水、田安、一橋の御三卿」
「五つは」
「御老中」
と切り抜け、いよいよ最後の
「二つは」
と聞かれると、
「紀伊、尾張の御両家」
と答える。
将軍は水戸家が入っていないと立腹するが、
井伊は、
「水戸を入れると寺が潰れます」
と答え、これがオチになっている。

これでは、なぜこれがオチなのか、さっぱり分からない。

この落語が作られたころ、水戸の藩主は烈公と諡号された徳川斉昭である。
攘夷派の斉昭は、相次ぐ黒船の来航に危機感を抱き、領内の寺に鐘を供出させ大筒を作った。
寺では経営がなりたたなくなると異議を申し立てようとしたが、寺嫌いの斉昭は片っ端から領内の寺を潰してしまった。

いっぽう、かけ事では胴元をテラという。

寺とテラを引っかけたのがこのオチだが、こんなのは今では解説が入らないと分からない。

「将軍の賽」を聞いてみたいと思うものの、一般的ではないので無理であろう。



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歳の差

2019年04月23日 | 江戸の話
幕末の立役者の年代がとても若かったとはよく聞く話だ。

しかし、これは主として薩長を中心とした雄藩の話であって、幕軍のほうは結構年配者も多かった。

戦況が討幕派に完全に有利となり、新政府が成立した後、旧幕府の官僚の中には、薩長の若者に卑屈な態度を取る者も多かったと聞く。
五十近い者が二十代の若者にへいこらしているのは、見た目のいいものではない。

そう思っていたのだが、過去も現代も、組織において年齢が決定的になることはあまりないようだ。

江戸時代においては家格というものがあり、自分が五十歳であろうと家格が遥か上の者であれば、相手がたとえ十代であろうと敬語を使う。
極端な話、相手が世継ぎであれば、幼少であろうと神様扱いだ。

現代においても、オーナー系の会社であれば、社長ジュニアは暗黙の了解に守られている。

江戸時代は、相手が年下であっても、へりくだるのは苦にならなかったのかもしれない。



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足を洗うの語源

2015年09月14日 | 江戸の話
「足を洗う」の語源としては、「修行僧が外の修業から寺に帰ったあと、足をあらって世俗の垢を落とす行為」から来ているとの説明が多い。
間違ってはいないと思うのだが、江戸時代の人々が「足を洗う」の語からまっさきに頭に思い浮かべたのは、仏教ではなく、「儀式」のことだった。
遊郭を出る遊女も、出る際に「儀式」を行ったが、これも僧を真似ていたのではない。
では、本当の「儀式」は何かと言うと、人別帳から帳外(人別帳から名前を外されること)となっていた者が、再び人別帳に名前を載せてもらい、常人に戻る際に行う際に行う儀式である。
復帰を希望する無宿者の親類縁者は、乞食頭の車善七に願い出て、町奉行所に人別帳への再記載届けを出してもらう。
もちろん、けっこうな金は掛かる。
所定の金額は決められていなかったが、そうやすやす納められるような額ではなく、儀式を行えるのは縁者に裕福な者がいる者であった。
金が支払われると、浅草の乞食小屋のある空き地で「儀式」が行われる。
空き地には水の入ったたらいと、湯の入ったたらいが用意される。
を行う者は、まず水の入ったたらいで身体を洗い、次に湯の入ったたらいで身体を洗う。
用意された衣服に着替え、車善七が型どおりの検分を行い、常人に戻ったことを宣言して、乞食の人別帳から名前を消す。
これが江戸時代の「足を洗う」の意味であるが、いまではほとんど語られることがない。

「時代劇のウソ・ホント」笹間良彦(遊子館)


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武士の禄

2015年04月21日 | 江戸の話
尾張六十一万九千石とか、紀州五十五万五千石と称されるが、この「~石」というのは、実収入ではない。
いわば身分格式を表す公称のようなものだった。
水戸は三十五万石と称せれるが、天保年間に藤田東湖が記したところによると、歳入籾四十二万石とある。
このうち半分が行政費と藩主一族の生活に、残り半分が藩士の禄に充てられた。

百石取の藩士といっても、まるまる百石が取り分となるわけではなかった。
山川菊栄の「幕末の水戸藩」にその辺の事情が詳しく記載されている。

文公、武公の時代までは百石取りの禄は籾にて七十二俵渡さる。(略)烈公の時に至りてお借り上げと称し、四表引きにて六十八俵となりしが、一ヵ年限りの借り上げにもあらず、三年、五年と続くこともあり。この百石の取米をことごとく売却して代金二十両を得ること能わず。嘉永、安政の頃は金十両に籾四十俵内外の相場なれば、六十八俵にては二十両に足らず。この内より役金百石につき二分納むるなり。

禄高は、玄米支給と籾支給があった。
当然、玄米のほうが有利であるが、水戸藩は籾支給だった。
お借り上げとは、給料カットである。百石取といっても、なんだかんだと削られ、水戸では実際は年間の収入が二十両に満たない。
これでは生活が苦しくなるのも無理がない。
さらに、下記のような記述もある。

禄の支給には地方(じがた・知行取り)と物成りとあり、両方組み合わせたのもあった。知行取りは中以上の武士に多く、それらは一定の地域を知行所としてわりあてられ、そこから直接に年貢を禄として受け取る地頭であり、物成りは藩が農民からとりたてた御蔵米の中から扶持を受ける俸給生活者であった。


また、別のところでは、

(禄は)大身の場合は大部分は籾、一部分は現金、小身の場合は現金で支給された。お役料何石という米本位の計算でも、その年の米価に応じて金に換算し、現金で支給されるのが普通だっという。これをお切米とも、切符米ともいい、隔月に渡された。

千石取といえば、随分高給取のように思うが、「幕末の水戸」では千石取の家老・肥田和泉守政のエピソードを紹介している。
それによると、和泉守が冬の寒い日、「家の者に暖かいうどんをふるまってやってほしい」と執事に命じたところ、「いま、家中には五十文しかないので、とても無理です」という返事があったそうだ。
ついでに、あまりにも貧乏で、梅干ばかり食べていたので、梅が水戸に名物になったという。
本当かな、と思わぬでもないが、時代が下るにつれ、武士の生活が困窮していったのは間違いない。

参考文献:「幕末の水戸藩」山川菊栄(岩波書店)


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殿さまのお言葉

2015年02月22日 | 江戸の話
江戸時代、殿さまは、家臣に対してどのような言葉を話していたのだろうか。
現代で言うなら、天皇陛下を当てはめると理解が深まる。
天皇陛下は寡黙である。
江戸時代の殿さまも、とにかく寡黙だ。

大垣藩は、戸田家が代々、殿さまを勤めた。
戸田氏教が参勤交代から帰る際、国家老三人が出迎えに出た。
殿さまの言葉は、
「出たか、との御意これあり」との伝言。
登城し、お目見えすると、
「久しうで」
の一言。
上京の際、見送りに出ると、
「息災でとの御意これあり」
の伝言。
片言だけで、主語も述語もない。
戸田氏教は、宝暦から文化年間、江戸中期の人物でえあり、かつ老中主座を勤めたほどの大物。
江戸末期ともなると、片言だけしか話さない殿さまでは機能しなかったであろうが、この頃はこんなものだったのかも知れない。

だが、下って幕末、最後の藩主・戸田氏彬の正室である大栄院の話がある。

上段の間で威儀を正して座っている大栄院に向かって、頭を下げ畳に手をついて、「ご機嫌うるわしく新年をお迎えあらっしゃいまして誠におめでたく恐悦に存じ奉りまする」と、教えられたとおりに申し上げると、ただ一言「めでとう」と仰せられてお立ちになった。

家老であった戸田直温の回想である。
「おめでとう」の「お」の字まで取っているところに封建主義の徹底した上下関係が感じられる。


参考文献:殿様のくらし 清水進 大垣市文化財保護協会


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一万石大名の給料

2014年11月02日 | 江戸の話
武士は九千九百九十九石までは旗本・御家人であるが、ここに一石増えて、万石取となると、大名となる。
大名は旗本とはあらゆる規定、待遇が違ってくる。
一万石級の大名(五万石以下の大名を小大名と呼ぶことも多かった)の暮らし向きはどうだったのだろう。

武士には軍役といって禄高に応じて兵力を維持しなければならなかった。
一万石の大名だと軍役は二百二十五人。平時でも二百名くらいの人員が必要であった。
会社にたとえるなら、社員二百名、アルバイト二十五名といったところか。

石高が収入だが、一万石取といっても全てを得られる訳ではない。
これは領地での生産量であり、四公六民とすると、収入は四千石。

重役に当たる家老級の給料がだいたい二百石。一万石クラスの家だと家老の数は三名くらい。合計で六百石。
江戸藩邸と領地の費用は石高の十分の一程度が割り当てられ、比率は江戸七:国許三程度。
江戸二千八百石、領地千二百石。
殿さまの給料は収入の十分の一を欠け、三百五十石くらいである。

米価を用いた貨幣価値は江戸前期と後期では大きく違うが、仮に一石=十万円とすると、

総収入     4億円


江戸藩邸諸費用 2,800万円
領地諸費用   1,200万円

藩主の給料   3,500万円
重役の給料   6,000万円
藩士の給料 2億6,500万円

藩士の給料は単純に二百名で頭割りすると、年間一人あたり132.5万円にしかならない。
このため、藩士の数を減らす諸藩も多く、幕府に定められた軍役数を確保していた小藩は少なかった。

三河国・奥殿藩(一万六千石)の藩士数を見ると、二百四人とある。
家禄から見ると、兵役数(225名)より少ないが、この数はかなり真っ当だといえる。

大名の年俸3,500万円は多いようにも思うが、様々な経費計上が認められている現代企業とは違い、ポケットマネーを出さねばならなかった場合も多かったであろうし、手放しで多いとは言えない。

参考資料:江戸幕府役職集成(雄山閣)笹間良彦
     数字で読むおもしろ日本史(日本文芸社)淡野史良

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荒木又右衛門・2

2013年11月30日 | 江戸の話
荒木又右衛門は伊賀越鍵屋辻の決闘で36人を斬ったというが、実際には2人しか斬っていない。
しかも、最大の強敵・河合甚左衛門は馬上のところを不意打ちし、槍の名人・桜井半兵衛には、槍を持たせなかった。
作戦勝ちと言えなくもないが、相手が多勢だったとはいえ卑怯といえば卑怯。
しかし、戦いとは得てしてこんなものである。
戦闘の最中、又右衛門は愛刀・伊賀守金道をつば元から折られている。
刀と刀を切り結んだとき、折ったのではないか、と思う人が多いだろうが、実際は違う。
腰を相手側の小者に木刀で叩かれた又右衛門が、木刀を払ったところ折れたのである。
そもそも、実戦では刀と刀が合わさることは滅多にない。
つばぜり合いなどは剣道では存在しても、実戦では起こらない。
木刀を払ったくらいで折れるのだから、真剣と真剣を思い切り合わせれば、いつなんどき折れるか分からない。

一方で、肝心の渡辺数馬と仇敵・河合又五郎の一騎打ちは5時間以上かかったという。
お互いに至近距離で刀を振り合い、切り結んで戦ったのではない。
振っては逃げ、逃げては振るという繰り返しで、刀の有効距離以遠での戦いだっと思われる。

多分、又五郎としては途中逃げ出そうとしたのではないだろうか。
それを周囲の又衛門らが押しとどめる。
又五郎を押しとどめてくれても、数馬としても怖くて手が出ない
声ばかり掛けて、手数は出ない。

最後まで決着はつかず、数馬の剣が又五郎の腕を偶然のように斬ったので、それでよしとして、又右衛門が助太刀して又五郎を討ったとされる。
それまでに、数馬も又五郎も倒れる寸前だっという。
身体的な面よりも精神的にグロッキーだったのだ。

これが真剣勝負の最たるものだ。

(関連記事) サムライ 真剣勝負

荒木又右衛門 鍵屋の辻 36人斬り 動画

伊賀越資料館


「数馬茶屋」の数馬祝い膳(1,250円)。このほかにかやくご飯と小皿数皿が付く。
仇討当日、茶屋で蕎麦と鰯を頼んだ又衛門は緊張しきっている数馬に「傍でゆわすとはめでたい」と言った。
ゆわす=やっつける(吉本新喜劇の「ゆわしたろか」で有名ですね)の意で、冗談めいて言ったのである。

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荒木又右衛門・1

2013年11月30日 | 江戸の話
荒木又右衛門は仇討で有名だが、誰の仇討だったのか、と言うと即答できない人が多いかも知れない。

端的に言うと、渡辺数馬が弟源太夫の仇、川合又五郎を討った。
荒木はその助太刀である。

当時、仇討の規定としては、弟が兄の仇を討つ、子が親の仇を討つことはあっても逆はなかった。
子の仇を親が討つことはなかったし、兄弟の場合も同じだ。

それがなぜ、この場合は仇討が成立したかを説明すると、話がややこしくなるが、結論からいうと、藩主・池田忠雄(ただかつ)が認可したからである。

又五郎は、江戸に住む旗本・安藤左衛門のところに逃げ込み、匿われていた。
忠雄は左衛門に又五郎の引き渡しを要求するが、拒否される。
又五郎はわざわざ面倒を起こしてまで匿われるほど才能に富んだ人間だったかというとそんなことはない。
単に維持の張り合いだった。

もともと川合又五郎の父・半左衛門は安藤家の家臣だったが、家中で刃傷沙汰を起こし、逃走。
又左衛門を庇ったのがたまたま通りがかった忠雄であった。

安藤家は、又左衛門の引き渡しを要求するが、忠雄は拒否。
忠雄の父は有名な池田輝政。さらに祖父は長久手の合戦で絶命した池田恒興。
恒興を討ったのが、左衛門の父、安藤直勝。
両家には少なからぬ因縁があった。

又五郎が安藤家に逃げ込んだのは最良の選択だった。
これは又五郎の相談を受けた山野辺義忠の入り知恵だったという。
山野辺は後に水戸家家老となるが、この時期は池田家にお預けの身分だったので、池田家にはいろいろと思いもあったのだろう。

幕府も巻き込み、又五郎の身柄を渡す、渡さないの大騒ぎとなったが、幕府側にも外様大名に対する意地があり、容易に解決しない。
結局、又左衛門を殺し、池田、安藤家ともに喧嘩両成敗ということで手を打とうとしたが、忠雄の怒りは収まらない。

忠雄はこの事件から二年後に他界するが、遺言に
「仏事追善はいらないから、川合又五郎の首を持ってこい。それでなければ、往生できない」
というようなことを記している。

困ったのは数馬だ。
こんな遺言を残されては、藩内には留まっていられない。
脱藩して又五郎の仇を討つ羽目に陥ったが、剣の腕はまったく当てにならない。
そこで助っ人を頼んだのが叔父で大和郡山剣術指南の荒木又衛門だったというわけである。

こうなると、今度は渡辺家と河合家の意地の張り合いになってくる。
又五郎の警護に当たったのが、同じ大和郡山剣術指南の河合甚左衛門だったいうのも、意地の張り合いを増長させた。

かくして、伊賀越鍵屋辻の決闘が始まったのだった。


茶屋「鍵屋」のあった場所には「数馬茶屋」が建っている。明治後期~大正の建物で相当年季が入っている。

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栄国寺と切支丹

2013年06月21日 | 江戸の話
名古屋市中区に栄国寺という寺院がある。
西山浄土宗に属し、清涼山と号して、西光院第9世任空可信を開祖とする。
れっきとした仏教の寺ながら、境内には切支丹遺跡博物館があり、殉教碑もある。
この理由には、歴史的背景がある。

慶長十七年(1612年)3月17日、徳川家康はキリスト教禁止を発令。
翌慶長十八年十二月には、宣教師追放を公布。
しかし、発令当初はまだ締め付けもゆるく、まだ布教は行われていた。
尾張地区でのキリスト教取締が厳しくなってくるのは、寛永八年(1631年)くらいからで、この年にはキリシタン57名が検挙されている。
うち4名は火あぶりの極刑に処せられ、9名は斬首、残り44名は江戸送りとなっている。
寛文期となると、尾張藩はキリスト教の大がかりな検挙に乗り出す。
寛文元年(1661年)から始まる大弾圧である。
寛文四年、尾張、丹羽郡、葉栗郡、五郎丸を主とした地域(現在の犬山市)、扶桑町などに及び、検挙者は2千人に上った。
ときの尾張二代藩主・徳川光友は、その中の主だった者、二百名を千本松原と呼ばれる刑場で処刑。寛文四年一二月一九日のことである。
栄国寺にある石碑によると、光友は、残りの者を救済しようと画策したが、幕府の許可が得られず、寛文七年10月に処刑せざるを得なかったという。
二百人が処刑されてから二年が経過しているが、この月日をどう考えたらいいのだろう。
切支丹は問答無用に斬り捨てられたかのようなイメージがあるが、地方とすれば、中央の勝手な方針で働き手を失うのは嫌だったに違いなく、ことあるごとに改宗のタイミングを与えていたには違いない。
それでも多くのキリシタンは、改宗しなかった。

光友がその者たちを弔うために寛文五年に作られたのが、清涼庵である。
交通の盛んなこの地に刑場はふさわしくないとの見解もあった。
その後、清涼庵は、貞享三年(1686年)には、栄国寺と改められている。

このような事情で、仏教の寺ながら、栄国寺には切支丹の碑がある。



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次郎長の身長と幕末史実

2012年07月07日 | 江戸の話
清水の次郎長こと山本長五郎は、幕末から明治に掛けて名高かった任侠の人である。その次郎長に関して、次のような記述がある。

生来の大男で腕力が人一倍強く、相撲をとっても誰にも負けたことのなかった長五郎は、押し入った四人組の盗賊に臆することもなく、刀を振り回して立ち向かった。
東海遊侠伝


次郎長は色は赤黒で、髪は柔らかいせいかそれ程の白さでもなく、少しザンギリ頭で、見上げるような大男で、手は団扇のように大きく、そしてささくれていた。
細田美三郎氏の回想談
(引用はいずれも、「梅蔭寺 清水次郎長伝」より)


清水の次郎長は大男というのが通説となっている。
ではどれくらいだったかというと、「我れ生じて二十三歳、六尺男子なり」の表現が東海遊侠伝で具体的に述べられている箇所があり、180cmと分かる。

現在、清水市には次郎長の生家と、次郎長が経営していた船宿「末廣」を再現した施設がある。
末廣に入ると、すぐ右手に次郎長の実物大のフィギュアが置いてある。そのフィギュアは、ずいぶん小さく見える。
説明を見ると、「次郎長の身長は五尺二寸だった」とあるから、156cmである。当時としては平均身長だったのかも知れないが、少なくとも大男とは呼べない。
生家のほうにも、次郎長の身長に関する説明があり、同じように五尺二寸とある。
末廣に電話をしてなぜ、このような食い違いが起こったか聞いてみると、「浪曲として興業された際、大男のほうが親分として受けがよかったのだろう」という説明だった。これは十分に考えられる話で、また、東海遊侠伝を表したのは次郎長の義理の息子である天田五郎であるから、身贔屓もあって確信犯的に脚色を加えたのであろう。

次郎長は山岡鉄舟とも深い親交を結んでいたが、ふたりの出会いについてもはっきりとは分からない。

①勝・西郷会談の下地交渉の使者として駿府に向かった鉄舟を次郎長が護衛したことから始まる。
《慶応四年(1868年)3月》「図説・幕末志士199」

②東海道を急ぎ西上、駿府を目指す鉄舟が由比の望嶽亭主松永氏、興津水口屋の縁から次郎長に道案内を依頼したという伝承は十分肯ける。
《慶応四年3月》「清水次郎長」

③(清水港の)死体を、駿府藩は官軍の目を気にして放置していたのであるが、「死んで仏になれば、官軍も賊軍もない」ということで次郎長が子分に埋葬させたところ、駿府藩の取り調べを受けるに及び、次郎長は鉄舟と出会うことになる。
《慶応四年10月》「山岡鉄舟」


④次郎長と会った松岡(松岡萬・新番組隊長並)は、その人物に心服し、山岡鉄舟が駿府に着任するのを待って次郎長を紹介した。明治元年(1868年)も終わりに近い頃だった。
「梅蔭寺 清水次郎長伝」


①②の説は有名であるが、鉄舟は薩摩の益満休之助とともに駿府に向かい、「益満を前に出してわたしは後ろに従い、薩州藩と名乗って急ぐに、全く阻む者はいなかった」と自ら語っているし、信憑性は薄いように思う。個人的な考えだけ述べるには④の説が事実だと考える。

だが、身長などという数値化できることすら、すり替えられてしまうのが歴史だとすれば、本当のことなど、後になってしまえば、どうにも変えられるというのが、一番の真実なのかも知れない。

田沼意次が松平定信の喧伝によって、一点の曇りもない悪人に仕立て上げられ、昭和も第二次大戦後まで、意次=悪人説が信じられて来たのは、恐るべき情報操作である。
現在伝えられている幕末の史実というのも、多くが勝者である西軍(官軍というべきか)の都合の良い説には違いない。

参考資料
梅蔭寺 清水次郎長伝(田口英爾) みずうみ書房
清水次郎長(高橋敏)岩波新書
山岡鉄舟 教育評論社
図説・幕末志士199 学研


清水次郎長


次郎長の生家

末 廣

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