木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

陣屋って何だ?~奥殿陣屋

2008年09月13日 | 大江戸○×クイズ
問い:陣屋とは、大名が泊まる宿屋である。 ウソ? 本当? (答えは、文末に)

陣屋とは、現代に残っていない言葉の一つである。
江戸時代、原則として一万石以上の所領を与えられた武士を大名と呼ぶが、大名の居住地及び政務取り扱いの場がいわゆる「城」である。
だが、どの大名も城を持てたわけではない。経済上の事情や、「一国一城」の法令などにより、城を持てない大名もいた。
ここで、陣屋が登場する。
城殿輝雄氏の簡潔な説明によると、
陣屋とは、無城の大名の館。または、代官や領地の支配のための屋敷や役宅を指している。
とある。
具体的に、三河奥殿藩一万六千石の陣屋の例を見てみたい。
奥殿藩は、一二松平と言われた松平家の系統、大給松平家が治世した藩である。
大給松平家は、代々大給城を拠点としていたが、六代家乗の代に、上州那波(なわ・現群馬県伊勢崎市)に城を築いて一万石取りの大名となった。天正一八年、家康が関東に入国した年である。
このため、大給城は、廃城となり、領地は天領となった。
家乗には、二つ違いの弟である真次がいて、真次も那波城に従った。その後、武勲があり、秀忠より上州に三千石を与えられた真次は、故郷である大給の地に所領の地を換えてもらうことを願い許された。
真次は、七千石取りまで出世するが、城を建てることは叶わず、大給に陣屋を建てた。
真次の実子である乗次は、一万六千石までになり、三代乗成(のりしげ)の時には、大坂定番の任を命じられる。
更に四代乗真(のりざね)の代になると、三州四千石、信州一万二千石の所領となり、大坂定番の任を解かれる。その際に、大坂に在住していた家臣たちが、大給陣屋に戻ってきたが、手狭になったため、奥殿へ陣屋を移動し、奥殿陣屋は完成する。
奥殿藩となった藩士の構成を見ると、藩士236名(うち師弟勤務32名)のうち、

江戸藩邸  82戸
奥殿陣屋  47戸
田野口陣屋 73戸
京都      2戸

となっている。田野口というのは、信州の陣屋である。
奥殿陣屋の平面図を見ると、山を背にしているものの、三方を田に囲まれた平屋で、武力的な効果という点では、かなり低い。
大給松平家でも、城を持ちたいという悲願があり、文久三年(1863年)には、信州に五稜郭建設を願い、幕府から許されている。翌年から建設を始めたものの、完成を待つ前に明治維新を迎えてしまった。
同じ五稜郭でも、函館のものは有名であるが、佐久の五稜郭は、あまりにも知られていない。

答え:×(大名が泊まるのは、本陣である)


園内には、小規模ながら花火資料館も併設されている。金鳳亭では、季節の炊き込みご飯なども食べることができるが、人気があり、早目になくなってしまうことが多い。

中では、奥殿藩ゆかりの茶道裏千家の玄々斎のビデオがある。立派な庭園を見ながら、抹茶を飲むこともできる。

園内にあるバラ園は見事。隣接した畑にも季節の花が植えられ見ごたえがある。

(参考文献)奥殿陣屋 城殿輝雄

奥殿陣屋HP

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大極砲

2008年08月30日 | 大江戸○×クイズ


問い:上の写真は、水戸に伝わる由緒正しき鐘である。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

1840年からイギリスと清国の間で争われていた戦争は、1842年にイギリスの一方的な勝利で終結した。
阿片戦争と呼ばれるこの戦争においての清国の敗退は、日本の首脳陣にも大きな衝撃を与えた。
時に、天保十三年。折しも、昨年から老中水野忠邦が御改革の旗を揚げたころである。
去る天保七年(1837年)には、浦賀と薩摩にアメリカの商船、モリソン号が立ち寄ろうとしたこともあり、海の向こうの勢力図には、幕府も敏感になっていた。
幕府は、これまでの異国船打払令を緩和し、燃料や食糧の供給を認める。その一方で、軍備力の強化を図ろうとするが、基盤となる日本の火力はひどく劣ったものであった。
徳川幕府が意図的に地位を低めたのであるが、砲術は足軽など身分の低い者が扱うものであるとされ、技術革新も抑制されていた。
ここで俄然と張り切ったのが水戸家徳川斉昭である。
水戸家は、元来朝廷を信奉している。夷狄に対する反感も並々ならぬものがあった。
斉昭は、私財をなげうってまで、大筒(大砲)の製造に情熱を傾けた。
天保七年四月には、幕府の許可を得て、海防のために助川城という防衛拠点まで築城している。
その意気込みとしては、なかなかのものがあるが、肝心の大砲はと言うと……。
冒頭に写真を示したのが、斉昭自ら筆で「大極」の二文字をしたためた大砲である。
弾が飛び出すかどうかも不安な代物。寺の鐘としか見えない。
これでも、ノウハウのないなか、鋳物師は命がけで製造したのである。
このようなもので、海外の火力と戦おうとしていたのであるから、無謀としか思えない。

答え:× (写真は大極砲と呼ばれる大砲)

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尾張の海獣

2008年08月24日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代、怪獣(海獣)の話題で大騒ぎになったことがある。(答えは文中に)

マラソン男子、結果は全然でした。残念。

昨年、名古屋市博物館で「大にぎわい 城下町名古屋」という展示があり、その中で見たのが下の「海獣」である。
絵の説明としては「又兵衛新々田新開に入り込み候、海獣」とある。
海獣、というと随分、ものものしいが、絵を見て分かるとおり、可愛らしいアザラシである。以前、平成の世でも大騒ぎになった「タマちゃん」が、江戸時代にもいたことになる。体長約195cm。
時は天保四年(1833年)七月九日、尾張は熱田の海に一匹のアザラシが紛れ込んだことから騒ぎは起こる。
珍獣を一目見ようと、尾張の人々はこぞって、熱田へ。近所にはアザラシの手拭や菓子といったキャラクターグッズは登場するし、乗船賃をとって近くまで漕ぎ出る舟も出て、周辺は大騒ぎ。
おまけに、アザラシは捕獲されて、見世物小屋で大活躍としたとある。
いやはや、江戸の人も商魂たくましい。



名古屋市博物館UPL

答え:○

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三下り半を突きつける

2008年08月23日 | 大江戸○×クイズ
問い:三下り半とは、本当に3.5行であった。 ウソ? 本当? 答えは、文末に。

オリンピック、野球は残念でした。
うーん、星野監督の「野球に恩返ししたい」というのは、ちょっと奇麗事過ぎる台詞のように感じてしまったのは、私だけでしょうか。

さて、三下り半。離縁状のことです。
江戸時代は、妻はこの離縁状がないと、他に縁付くことができなかった。
夫のDVがあろうと、夫の勝手な理由により離縁されようと、妻は、この離縁状を夫に書いてもらう必要があった。理不尽ではあるが、江戸時代は、そういう決まりになっていた。
実際の離縁状は、下記のものである。
内容としては、政吉という夫が、きちという妻を離縁するものである。一応、読み下し文を示すが面倒な人は読み飛ばして下さい。

離縁状の事
一 此きち義、我等勝手に付き
   離縁致し候。然る上は何方へ
   片付き候とも少しも構いなく御座候。
   仍てくだんの如し。
     文政十年
    亥十一月
                   政吉
             おきちとの


内容としては、ひどいもので、「我等勝手に付き」つまり「こちらの勝手な都合で」離縁するというものである。離縁した後は、どこへ嫁ごうが、知ったことじゃない、という内容です。
下の古文書を見ると、政吉と書いた後に「へ」のような文字が見えるが、これは文字ではなく、爪印である。
判の代わりに爪に墨を塗って押したので、「へ」のように見える。
この文書を見ると、きっちり三行半であるのが分かる。
この見下り半がないと、女性はその後再婚できなかったので、女性にとっても大事な書類であった。


答え:○



演習古文書選 吉川弘文館 (日本歴史学会編)

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江戸紫って実際にある色?

2008年08月16日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸紫とは、実際にある色である。ウソ? 本当? 答えは文末に。

桃屋の「江戸むらさき」は、時々無性に食べたくなる食品だ。学生時代、ヘビーユーザーだった名残かもしれない。シンプルな佃煮でありながら、飽きが来ない。
今ではシリーズの「ごはんですよ」のほうがよく知られるようになった感がある。
「ごはんですよ」のネーミングは明快そのもので、分かりやすいが、「江戸むらさき」のほうは、少し分かりづらい。よく利用していながらも、商品名の由来を長らく考えたことがなかった。
先日辞典を眺めていたら、江戸紫とは、実際の色であるということを知った。
辞典によると、江戸紫は、京紫に対する語で、青みの勝った紫であるという。
実際の色については、

江戸紫
京紫
(クリックで実際の色を見ることができます)

を参照されたい。
桃屋の「江戸むらさき」は、昭和25年(1950年)の発売ということであるので、それほど古くからあったわけではない。江戸前の海苔と、醤油の別名=むらさきを掛けてネーミングしたもので、なかなか秀逸なものだと思う。
当時の会長の小林氏が、何かいいネーミングがないか、と考えていたときに、ふと目にしたのが小唄の唄本。一時期、小唄の唄本の表紙は江戸紫色であったそうだ。それだけ、「粋な」色だったのだろう。
「江戸むらさき」は、当時普及しだしたテレビのCF戦略が大成功した。三木のり平氏の起用も、海苔とのり平を引っ掛けたものとして優秀なアイデアである。その三木氏が亡くなったのが1999年。もう一昔も前の話であると思うと月日の経つのも早いと思う。現在の桃屋のCFの声優は三木氏ご子息の小林のり一氏が行っているという。

答え:○

桃屋HP

和色大辞典HP



おまけレシピであるが、桃屋の「いかの塩から」を使って「塩からパスタ」を作るととてもおいしいものができる。
作り方は、いたって簡単。弱火でにんにくを炒めてから取り出し、そこにちぎったキャベツを入れて炒める。キャベツがしんなりしたら茹でたパスタと桃屋の塩から、先ほどのにんにくを入れて軽く炒めてできあがり。仕上げにクリームまたは牛乳を入れると味がまろやかになります。あとは、万能ネギや海苔を飾って完成。ポイントとしては、桃屋の塩からは、味がかなり濃いので、パスタを茹でるときの塩を少な目にすること、味付けもしなくてOK、といった点かな。あと、塩からを投入してから火を通しすぎると、みるみるうちに塩からが小さくなってしまうので、炒めすぎにも注意です。こうして見ると、かなりの怠け者レシピかも知れません。
菜といかの塩からのクリームパスタというのもおいしそう) ←クリック

(おまけのおまけ)
三木のり平氏の本名は、田沼則子(たぬまただし)という。第二次大戦中、同級生が出陣していくなか、氏には赤紙がなかなか来なかったという。確かに、則子では、戸籍係も男性だとは思わないだろう。やっと、入隊したところで終戦となったそうです。

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付家老って、何だ?

2008年08月05日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代、犬山城を治めるのは大名の成瀬氏であった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

別名白帝城は、2004年まで日本で唯一、個人所有の城として有名であった。元和2年(1618年)に初代成瀬正成が犬山城に入って以来、成瀬氏は、代々城主を勤めていたが、明治4年の廃藩置県により、犬山城を政府に没収される。しかし、濃尾地震により犬山城が損傷を受けるにあたり、修復を条件に、再び成瀬氏のものとなったのである。
それはさておき、犬山藩という藩が江戸時代にあったかというと、答えは否である。犬山藩は、明治2年に認められ、成瀬氏は大名としての扱いを受けるようになったが、その成立は明治期なのである。
それまで、成瀬家3万5千石はというと、尾張藩付家老という身分にあった。
付家老(御付家老・附家老)というのは、あまり一般に馴染みがない名称である。
付家老は、御三家の成立とも深く関わってくる。家康が執政を補佐するといった役割で、後に御三家と呼ばれる尾張、紀伊、水戸に、家康の考えを深く理解している実力者を「付けた」ので、「付けられた」者たちを付家老(つけかろう)と呼んだ。付家老は、藩主がおかしな振る舞いや反乱の意図がないかなどをを監督する目付的な役割も担っていた。御三家設立当初は、まだ徳川幕府も盤石ではなかったのである。
付家老は、藩主の部下であると同時に、幕臣でもあるという二面性を持ち合わせていた。

 「付家老」の「付」は、家康が名古屋・水戸・和歌山に封じた三人の子の補佐役として家康腹心の家臣であった五家を「付」けたということであって、以後の五家はこの由緒によって将軍に直属する大名と同格の待遇を与えられた。他方で「付家老」の「家老」とは、三家のそれぞれで執政の最高責任者に任じられていたという意味である。しかし家老職以上の権限を付与されていたと見られるふしもあって、「筆頭家老」などと言われる場合もあり、「付家老」の「家老」は、厳密に家老職を指していたわけではない。
 このように「付家老」は、一方では将軍に直属しており、他方では御三家の家臣でもあるという、二君に仕える特別な存在であったという点が最も大きな特徴なのである。 「付家老展資料より」 


上記の資料では、多分混乱を廃するため、付家老を五家と言っているが、正確には、付家老制定当初は、尾張家が成瀬家、竹越家、平岩家、紀州家が水野家、安藤家、水戸家が中山家、水野家の七家であった。制定後まもなく、尾張の平岩家、水戸の水野家が付家老から外れるので、普通は五家と呼ぶ場合が多い。

代を重ねるにともなって、初代の使命感は薄れ、他の家臣と比べて石高・家柄共に群を抜いた存在であるがゆえに、藩内で独自の地位を占めるようになる。とりわけ幕府の家格が整えられてくると、当初は曖昧であった直臣と陪臣の差が明確となる。五家は幕府の制度上では陪臣であり、尾張・紀伊・水戸徳川家の家臣に過ぎないのである。 「徳川御三家付家老の研究」 

もともと、付家老を任ぜられたのは、譜代大名として十分独立できるほどの家格であった。付家老となると、御三家の家臣となってしまうため、付家老制定時に、付家老になることを固持する家もあった。
付家老は、その後、密に連絡を取り合い、自分たちの地位向上を画策していく。
一例を挙げると、江戸城での「席」収得である。
大名が江戸城へ登城したとき、どの部屋が詰所になっているかによって家の「格」が明確にされていた。その点、付家老は万石以上の石高を誇りながらも、江戸城に於いては「無席」というひどい扱いを受けていたのである。
付家老家は、江戸城においての「席」を求めたが、得られることはなかった。
また、付家老は、何度も大名としての独立を願い出ている。江戸時代後期、尾張藩におけるごたごたは、付家老の独立志向に影響された部分が大きい。それでも、付家老がようやく大名として独立できたのは、明治になってからであった。

答え:×(成瀬家が大名となるのは明治になってからである)
城のしおり 全国城郭管理者協議会
「徳川御三家付家老の研究」 小山譽雄 清文堂出版
付家老展(2005年) 犬山城白帝文庫
国郡全国大名武鑑 人文社
「大名の日本地図」中嶋繁雄 文春新書
犬山城HP

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犬山城

江戸時代のすかしっ屁

2008年08月03日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代では、人前で放屁しても恥ではなかった。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

また、渡辺真一郎先生の著書の登場である。
上品な話ではないので、苦手な方は飛ばして頂きたい。
「江戸のおトイレ」は、いつ読んでも面白い。
孫引きになるが、屁について、「和解三才図」には下記のような記述がある。

屁。和名、倍比留(へひる)。児女、於奈良(おなら)と謂う。言は尾鳴(おなら)也。按ずるに屁は人の気、下に排(も)る也。実すれば即ち音高く、虚すれば即ち音卑(ひく)し。食滞れば即ち甚だすえ臭し。人前に於いて放つは傍若無人也

とあり、やはり江戸時代においても人前での放屁は憚られた。
この放屁に関する小噺には思わず吹き出してしまうものが多い。次は『楽牽頭』(がくだいこ)からの引用である。

初会の床にて、女郎ぶいとのしそこない。客「こりゃ、たまらぬ匂いだ」「おゆるしなんし。このおならには訳がありんす。私が母、十死一生の時、毎月一度づつお客の前で恥をかきんしょう、と観音さんへ大願をかけんした」という口の下から、またぶいとしそこない。「オヤ、うれし。来月分も仕廻った

安永期に書かれた『近目貫』(きんめぬき)の中の噺も面白い。

女郎、床の内でおならをし、「千調さん、おまえはわたしをかわゆう有んすかえ」「おうさ、かわゆうなくて来るものか」「そんなら、今のしそこないを御つれさんにはなしなんすかえ」「大誓文、はなすこっちゃない」。女郎「オオ、かわいい」という口の下から、また、ぶいとのしそこない。客、まじめになり、「この女郎はうたぐりぶかい」
川柳にも滑稽なものが多い。

闇の夜の烏に似たるすかした屁
音もなく匂うは多分女房の屁
ひとつの屁を花嫁七つほどにひり
花嫁はひとつひっても命がけ


そういえば、町火消しにも「へ」組はない。語感が嫌がられたためである。


答え:×

参考:「江戸のおトイレ」渡辺真一郎(新潮選書)

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今日は、フルーツ記念日?

2008年08月01日 | 大江戸○×クイズ
問い:今日、8月1日は、フルーツ「はっさく」の記念日である。ウソ? 本当? 答えは、文末に。

今日は8月1日。早いもので、今年も半年を折り返して一ヶ月が経った。本当に月日の過ぎ去るのが早く感じる。
さて、昔は8月1日のことを八朔と言った。「朔」というのは、ついたちのことである。萩原朔太郎は11月1日に生まれたので「朔太郎」である。
旧暦で言う8月1日は、新暦では8月末頃であるから、早いところでは米の収穫が終わり、祝い事が行われる時期である。農民だけでなく、広い層に八朔が祝い事として伝わったのは、南北朝以降のことだと言う。
さらに、小田原を平定した徳川家康が秀吉の命を受けて、天正18年(1590年)8月1日(新暦8月30日)に江戸城に入ると、江戸時代において八朔は幕府にとって、重要な記念日となった。
「日本の年中行事」によると、

将軍は白帷子(しろかたびら)に長袴をつけて、白書院、大広間に出て、総出仕の諸大名、旗本、御用達町人の祝賀を受けました。諸大名らの服装も白帷子に長袴です。

とある。
また、この日は、吉原においても、白装束のおいらんが町内を練り歩いた。
これについては、

この日、仲之町を道中する遊女は白無垢を着る。これは元禄年中、江戸町一丁目巴屋抱の遊女高橋の病臥中、馴染客が八朔紋日約束で仲之町へ来たのを、白無垢を着て、高橋が迎えに出たのに由来する。その姿が非常に可憐だったので年中行事に取り入れたという 「遊女」

この文章中、紋日というのは、吉原のイベントデーみたいなものであり、ピーク時には年間90日くらいあった。この紋日は、遊女の値が安くなるのかと思うと、全く逆で、高くなった。おまけに、八朔のような特別の紋日だと、遊女が着る白無垢の衣装代も旦那持ちだったというから大変である。
江戸庶民は、この日に特別なことをした訳ではないが、年中行事の一つとして、八朔が来ると、そろそろ訪れる秋の気配を感じたことではないだろうか。
一方、フルーツのはっさくであるが、歴史は意外に浅く、広く食されるようになったのは1860年頃というから幕末のことである。
広島の僧侶が庭になっていたはっさくを配り、これが好評であったので広まったという。「八朔のころから食べられる」ということから、この名前が付いたそうである。
はっさくも、現代ではかつての65%くらいまで生産量が落ちているということだ。フルーツの世界の栄枯盛衰を感じる。
答え:×

「日本の年中行事」塩田勝編(金園社)
「遊女」西山松之助編(近藤出版社)
こよみのページ

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徳川御三家とは

2008年07月29日 | 大江戸○×クイズ
問い:徳川御三家は、将軍の味方である。 ウソ? 本当?  答えは、文末に。

徳川御三家というと、どんなイメージであろう。幕府のよき理解者、補佐役といったところであろうか。
こういうイメージはどうだろう。

徳川秀忠さんは、チェーン展開する日本で一番大きい老舗旅館の二代目跡取り。
父親の家康さんは、子宝に恵まれていたので、各支店に子供を主人として送り込んだ。早世する者もあり、家康さんが元和二年四月に亡くなった時点で残っていたのは、五店舗に留まった。つまり、越前67万石の松平忠直、越後福島75万石の松平忠輝、尾張清州53万9500石の徳川義直、駿河・近江50万石の徳川頼宣、水戸25万石の徳川信房さんの5人であった。忠直さんだけは、家康さんの孫にあたったが、残りはみな家康さんの子供、すなわち二代目と兄弟である。
各支店に散らばった兄弟は、二代目にライバル意識を燃やしていた。そこで、秀忠さんは、「俺が社長だ」と権力を示すために、大鉈を振るうことにした。自分の子供である忠長さんを、抜擢人事。親の依怙贔屓だと言われても気にしない。その一方、信宣さんに和歌山に転勤命令。父親ゆかりの駿河に息子の忠長を送り込むことと、転勤辞令を出すことで、社長としての威厳を示した。反対勢力にも示威行為を忘れない。父親の家康さんが亡くなると、反対派を左遷させ、社業の安定化を図った。


家康は、御三家に限り特別の厚遇を与えようとしたたわけではない。この時期は、戦国の風潮が抜け切れていない時期であり、ともすれば、血を分けた兄弟間においても相続争いが戦に繋がりかねない時であった。それゆえに、家康は家督争いが起こらないように慎重に子供に所領を分配した。
家督が安定してきたのは、家光の頃であり、その頃に御三家という考えも現れてきたと言える。
先ほどの例を引くと、創業者の後を継いだ二代目社長に、力を持って対抗しようとした同族者がいたが、二代目、三代目は、それを力を持って制したので、その後は社長の顔色を窺う者が多くなった、というところであろうか。
家光が「自分は生まれながらの将軍である」と宣言したのは、そう宣言することによって、自分の地位をアピールしたのである。後々は、いちいちこんなことを宣言しなくても分かり切った事実になっていたのであるから。
家光以降は、将軍は宗家から輩出することが定着し、御三家も補佐役に徹するようになっていく。
今度は口うるさい御三家の藩主が現れるようになった。
水戸の光圀、斉昭などである。
特に斉昭の天保の頃は幕閣中心の政治ができあがっていたため、御三家はオブザーバーとしての位置づけでしかなかった。水野忠邦などは、当初斉昭の水戸においての政治に一目置いていたが、次第に疎んずるようになっていった。
御三家というのは、譜代大名の代表でもないし、段々微妙な立場になっていく。
日米和親条約を幕府が朝廷に許可を得ずに締結した際も、斉昭を中心とした御三家が時の大老井伊直弼に直談判に行くが、直弼は聞く耳を持たなかった。
これも、当時の政治の体制からすると、無理からぬ話で、既に政治の実権が将軍から閣僚に移っていたことを示す例となっている。
鈴木一夫氏は、著書「水戸黄門」の中で、御三家についてこう記している。

三家には、幕府政治のうえで何の権限もないとはいえ、将軍や幕閣にたいするプレッシャーとしての存在意義はある。たとえば、批判的精神が旺盛で、はっきりとものをいうことをもはばからない人物が三家の藩主になった場合、将軍や幕閣のあいだに微妙な空気がかもし出されることがある。
御三家も、一大名と変わらない位置づけになってしまったのである。
御三家の中で水戸家は、特殊なポジショニングであったが、それについては、機会を改めたい。

答え:△(あんまりいい設問ではありませんでした)

「将軍の座」 林董一(人物往来社)
「徳川御三家付家老の研究」 小山 譽城(清文堂)
「徳川将軍家」(歴史読本増刊92-8) 新人物往来社
「水戸黄門」 鈴木一夫(中公文庫)  

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江戸の人口は2千万人?

2008年07月27日 | 大江戸○×クイズ
問い:江戸時代、江戸の人口は2千万人であった。 ウソ? 本当? 答えは、文末に。

江戸時代、江戸は、当時のロンドンやパリをしのぐ世界一の人口であったと言われ、その数は100万人とも120万人とも言われている。100万人都市江戸というのが通説であるが、その根拠と言うのは、いかにも曖昧などんぶり勘定なのである。
天保三年の調査によると、町民は545,614人(男性297,356人、女性284,078人)であった。どんぶり勘定どころか、1人の単位まで把握されている。しかし、しっかり把握されているのは人口の半分の50万人である。残りは、僧侶と武家ということになる。町人は宗門判別帳というのがあり、はっきりと把握されていたが、僧侶と武士はその中に入っていなかった。江戸というのは、ごく初期と幕末を除くと天下泰平の世であったが、中身は一応、戦時中であったのである。であるから、諸藩の江戸屋敷に居住する武士の数は公開されるものではなかった。半分以上の中に流動的な転勤族たる武士がいたので、正確なところは推定の域を出ない。このことについて、大石慎三郎氏が、面白い資料を示している(青文は引用)。

江戸時代の人口についての学説は、おもしろいことに時代が下るほど数が少なくなっている。江藤新平といえば、東征大総督府監軍、江戸鎮台府判事として、江戸開城後の江戸市制に力を尽くした人であるが、彼は江戸の人口について、「江戸は人口三百万人と言われるが、この説は信用できない。実際は二百万人というのがよいところであろう。内訳は市民六十万、無籍者八万、士族百三十二万人で、合計二百万人となる」といっている。
 
この江藤説は明治初年のものであるが、大正の初年ころ吉田東伍という学者は、武家人口が132万人というのは多すぎるとし、幕末江戸に入ってきた米が140万石であることから「実際の総人口は140万人とするのがよい」としている。(一部抜粋)

昭和7年になって、都市学者今井登志喜は、「江戸の社会史的一考察」という論文の中で、江戸の人口に触れ、「もっとも多いときに、江戸の人口は100万を越したこともある、とするのがよいだろう」としている。

江戸時代の書物では、どうか。大石氏は、松浦静山の「甲子夜話」を引いている。
それによると、文化十二年(1815年)の江戸の人口は、

町方   532,710人
出家    26,090人
山伏       3,081人
新吉原     8,480人
武家方 23,658,390人


となっている。町人の数はいいとして、武士が2千3百万余人というのは、どうであろうか。
当時の日本の総人口が2500万人とされていた時代である。
これは、中国の白髪三千丈のような言い方ではないが、ある程度分かっていても、武士の数を正確に書くことをはばかった結果、このように大げさな数字で表したのではないだろうか。

このように、江戸100万人都市というのは、甚だ怪しい根拠の上に立っているのであるが、はっきりしているほうの町人は、面積にして約2割の土地にひしめきあって住んでいたのであるから、その過密度は、かなりのものがある。
過密度については、享保期の下記数字が参考になる。

武家地  16,816人/km2 (推定人口65万人)
寺社地   5,862人/km2(推定人口5万人)
町人地  67,317人/km2(人口60万人)
(内藤昌「江戸と江戸城」)


上記は、鬼頭宏氏の著書からの孫引きになってしまったが、氏は1995年度に日本でもっとも人口密度が高かった埼玉県蕨市の密度14,100人、二位の東京23区12,800人の数字を示して比較している。建物の高層化ができなかった江戸時代においての密度は、現代より更に高いものであろう。それにしても現代の5倍というのは、いかにも過密である。長屋にプライベートなどなかったというのも数字上からも実感できる。
ただし、細田隆善氏は、1987年の東京の過密度を16,479人/km2とし、江戸の町人区は、43,000人/km2としている。
数字については、書によりかなりブレがあり、そのブレ幅は、1両が現在通貨に換算していくらくらいか、というのと同じくらい大きい。詳細な数字は、あまり信用しないほうがいいのかもしれない。
代わって武士のほうであるが、江戸においては、上屋敷と下屋敷、それに加え、大きい藩では中屋敷を持っていた。延享三年(1750年)の萩藩でいうと、7000坪前後の屋敷3箇所に約2000人が住んでいたという。これを現代に直すと5階建て住居20棟分に相当ということになる。下級の武士は屋敷内の敷地に建てられた9尺2間の間口という町人並みの長屋に住んでいた。上級の武士を除けば、武士といえども、決して広々とした家に住んでいたわけではないのだった。
答え:×

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(参考文献)
大石慎三郎「大岡越前守忠相」 岩波新書
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」 講談社学術文庫
山本博文「江戸お留守居役の日記」読売新聞社
石川英輔「大江戸庶民事情」講談社文庫
平井聖「町屋と町人の暮らし」学研
細川隆善「江戸物語」ノンブル社