木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

パン祖の碑

2009年07月28日 | 江戸の味
近年、田方郡というベタな地名から、伊豆の国市という響きのいい名前に町名変更した地に「パン祖の碑」がある。
パン祖とは、海防論で名を馳せた伊豆代官江川太郎左右衛門英龍
地元では「担庵公(たんなんこう)」と呼んだほうが通りがよいそうだ。
英龍が日本で初めてパンを作った日とされるのが天保13年(1842年)4月12日

英龍は長崎に行って、高島秋帆から高島流砲術を習っている。幕臣の中でも砲術に関する知識はトップクラスであり、また、当時の一流技術者でもあった。
品川のお台場を設計したのも英龍であったし、韮山の反射炉を作ったのも英龍であった。
また、英龍は絵画の腕もなかなかのものであり、文化人としての一面も持ち合わせていた。
佐々木譲氏が「幕臣たちと技術立国」の中で英龍を取り上げ、「早すぎた英雄」と評しているように没年が安政二年(1855年)と幕末の初期に亡くなったたため、後世への名の伝わり方が低い。享年55歳であるが、もっと長生きしていれば、幕末の海防史のキーマン的存在になったに違いない。もっと想像力を逞しくすると、五稜郭の榎本軍に英龍が加わっていれば、戦況も変化したのではないか、などと思う。

さて、話はパンに戻る。
4月12日は「パンの日」と呼ばれ、平成19年からは「パン祖のパン祭」なるイベントが地元では行われるようにもなった。
このパンの日は昭和58年(1983年)に制定なので歴史は新しい。
江川英龍がパン祖と呼ばれるようになったのは、もっと古く昭和28年(1842年)で、記念碑の碑文は徳富蘇峰の筆による。
以前から、碑の存在は知っていたが、どんなものか見たことがなかったので、見てみたかった。
実際に見ると、微妙な曲線を持った何とも奇妙なオブジェである。
碑は有料施設である江川邸の中にあるのだが、三島駅前などもっと目立つ場所に置いてもいいようにも思う。

パンは兵糧食として作られ、当初はとても固く、水でふやかして食べるようなものであったという。当時も、日本にいた外国人は現在のパンと同じようなものを食べていたと思われるが、英龍の作らせたパンは現代人の感覚からすると、まったく違う食べ物であったのだろう。
このパンは厚さ1寸(約3cm)、大きさ3寸四方(9cm)程度のもので、普通の者は、1枚半、大食らいの者は2枚が分量とされた。水とともに食すると腹の中で膨れるとあるが、何となく、これでは少ないような……。

後から知ったのであるが、近くの物産品店で「パン祖のパン」という土産が売っていたそうである。
私は見なかったが、もうないのか、それとも見落としただけなのか。
いずれにせよ、話の種というだけで、喜んで食べるようなものではないようである。



さすがに立派な趣の江川邸。


何とも奇妙な形のパン祖の碑。

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佐屋の渡し

2009年07月20日 | 江戸の交通
東海道中、唯一の海路である七里の渡しはよく知られている。
熱田宮から桑名まで舟で渡っていくのであるが、当然、風が強い時、波の高い時などは欠航となったし、欠航にならないまでも悪天候時には、揺れて船酔いになる旅人も少なくなかった。
東海道中において、この桑名の渡しは絶対に避けて通れなかったのか、というとそうではない。
佐屋の渡しというものが存在していたのである。
この渡しの海路は三里。桑名の渡しより半分以下である。
宮からは陸路で六里行かなければならないので、都合九里。
桑名の渡しよりは時間も金も掛かったが、その安全性ゆえ交通量も多かった。
この佐屋廻りが整備されたのは三代将軍家光の時。寛永十一年(1634年)に、家光が三回目の上洛を果たした帰路の際に、この佐屋を経由している。
この佐屋宿までは熱田から次のような行程であった。

熱田宿 →(二里・8km)→ 岩塚宿(名古屋市中村区岩塚町) →(十八町・2km)→ 万場宿(名古屋市中川区富田町万場)→(一里二十七町・7km)→ 神守宿(津島市神守町) →(一里二十七町・7km)→ 佐屋宿(海部郡佐屋町)
 
佐屋宿は本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠が三十一軒となかなか立派な宿であり、支配は尾張領、家数二百九十軒、人口1,260人であった。

このような規模の宿も今では存在すら忘れ去られ、ひっそりしている。

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人生に乾杯!

2009年07月17日 | 映画レビュー
久々にいい映画を観た。
「人生に乾杯!」
ハンガリー映画である。

観る前は不安だった。
ポスターからしてアメリカ映画の「俺たちに明日はない」のオマージュっぽい。
ハンガリー映画というのがどのようなものか分からなかったし、ウェットに描くのか、ドライなのか、コミカルなのか見当もつかない。
それが、重くなりがちな映画は、小気味よいテンポで、いささかドライに、いささかコミカルに展開されていく。

監督は1966年生まれというから、ニューシネマにぎりぎり片足を突っ込んでいた世代か。
最後のほうでは、私の大好きな「バニシング・ポイント」の場面が出てくるし、もっと詳しい人が見たら、パロっている場面が多くみつけられそうだ。
内容については敢えて書かないが、「え、こんなストーリーだったら、すぐに終わってしまうじゃないか」と思わせながら、物語が絶妙に展開していく。それでいて、アメリカ映画にありがちなストーリーの破綻がなく、納得して最後まで引っ張っていく。

ひとつ考えさせられたのは、主人公たちが銀行強盗で得た金でリゾートホテルへ行って、楽しそうにしている場面。
妻に「あなたのそのような笑顔は30年振りに見た」といわれるのだが、やはり先立つものがないと、人生に達観しているような人々もやっていけないのだろうか。
どっかの国でも「後期高齢者医療制度」などという長生きを馬鹿にしたような制度が始まっているが、ハンガリーでも、年金問題は大変らしい。働けない者は価値がないと言わんばかりの制度には問題があるが、今の日本のように問題を先送りばかりしていると、結局つけを払うの我々である。
今、考えないといけない問題もある。

話が逸れたが、この映画は、愛知では上映が終わってしまったが、その他の地域ではこれから公開するところも多い。
お奨めです
相性度は90%!!



人生に乾杯!HP
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肥桶一杯の価格

2009年07月17日 | 江戸の風俗
かなりディープな下ネタです。
お食事前の方と、興味のない方は、くれぐれもお読みにならないように。以前、渡辺信一郎氏の「江戸のおトイレ」から排泄の「小」についてピックアップしたが、今回は、「大」である。氏の筆は淡々としているが、ますます冴え渡る。

お姫さまでも 左お捻じり

「ほとんどの辞書には載っていないが」と断りを入れながら、「江戸時代で、左ねじりとは、人糞の異称であった」という。
今風に言ったら、「アイドルでも 左ねじり」であろうか。高貴なお姫様でも、排泄は人並みであろうと言う句である。「お捻じり」と「お」を付けているところが丁寧である。
寛政年間の小咄集「軽口四方の春」からの「奥様の野遊び」と題された小噺もえぐい。
断っておくが、尾篭な話である。以下、引用。

れきれきの奥様、野遊びにお出になされた時、とても顔色が悪く見えたので、腰元どもが心配して、「どこかお悪くございませぬか」とお尋ねすれば、「いやいや、どこも悪くはないが、うらむきへ行きたい」とおっしゃるゆえ、「そんなら、ここなる野雪隠へなりともお出になさりませ」とお薦めする。お入りになると、じきに出られたから、なぜにと問えば、「下に大きなばばがしてある。後に入った人が、わたしのだと思うと恥ずかしい」。腰元が「それならば、下に延紙をたんと撒き散らして置いて、その上になさりませ」と言うと、奥様は成るほどとて入る。しばらくして、殊の外不満足な顔をして出て来られる。腰元がどうでしたかと聞くと、「お前の言う通りにしたが、紙の上にしたわたしのばばは、下のよりもまだ大きかった」

この「江戸のおトイレ」は、厚い本ではないが、薀蓄はすさまじく、江戸のトイレ百科事典と言ってもいいような内容である。女郎屋の次の句も凄い。

女郎屋の後架 摘入汁(つみいれじる)に海苔

後架はトイレ、摘入汁とは魚肉と小麦粉をすりつぶして団子状にして煮た汁である。女郎がよく食べたらしい。この句の作者は、物好きにも穴の中をしげしげと眺めたのであろう。
この先も渡辺氏の蘊蓄はとどまるところを知らないが、これ以上は、引用するのを遠慮しておく。

最後に同著の中から、興味深い薀蓄をひとつ。
長屋の後架に溜まった汚物は、近隣の農家が引きとり、代価が支払われた。その代価は、大家の取り分になったのであるが、どのくらいで取引されていたのであろうか。
渡辺氏は、幕末近くの「守貞漫考」と、それより九十年以上前の「武野俗談」の二書を引いて、類推している。前書によると、十軒の肥代が年二、三分。後書によると、百軒の肥代が年八両とある。一両=四分=四千文であるから、一軒当たりに換算してみると、前者が三百文、後者が三百二十文。肥代は、時代によって大きな隔たりがあったというが、平均してみると、こんなものなのであろう。
ここで、私流であるが、一両=12万円と考えると、一軒当たりの年間肥代は9000円、月750円(二十五文)となる。そばが十六文であるから、一軒当たりの肥代では、月二杯は食べられなかった計算になる。
蛇足ながら、現代では、吉野家の牛丼が確か380円だったと思うので、牛丼二杯くらいの値段か。
現代人は、水洗トイレの水道代に月600円から700円くらいかけているという統計もある(注1)。
昔は金を貰っていたものに対し、現代では金を支払っていることになる。

さて、渡辺氏であるが、汲み取った肥桶、一つあたりの単価まで弾き出している。それによると、1つの桶が三十三文であるということだ。先ほどの計算式を当てはめると、桶ひとつ1000円という計算になる。


渡辺真一郎「江戸のおトイレ」 新潮選書

(注1)
一回当たりのトイレの流水量10~15リットル
1リットル当たり単価0.24円
一回当たりの単価2.4円~3.6円
一日のトイレ使用回数6~8回
一日当たり価格 14.4~28.8円
月当たり価格  432円~864円
平均すると600~700円というところ

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(この項は、過去にアップしたものを改稿して再アップしたものです)

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夏ばて気味

2009年07月16日 | フェレットの部屋
名古屋も急に暑くなってきた。
名古屋の夏は大阪の夏に負けないくらい湿度が高く、過ごしにくい。
夜の眠りが浅くなるので、とにかく昼に眠くなる。

うちのシオン君も毛皮を着ているだけに暑さには弱く、早くも夏ばて気味である。
身体が慣れるまで、しばらくは大変だ。





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薩摩藩士、強さの秘密

2009年07月13日 | 江戸の幕末
上野の森で彰義隊が壊滅した後、薩摩藩士は死体の太股の肉を抉って食した、とどこかの本で読んだ記憶がある。
どこで読んだのか定かでなく、真偽のほども怪しいのであるが、あり得ない話ではないと思った。事実だとすると、薩摩藩士は、肝試しの一環として行っていたのであろう。
徳川泰平三百年の間に士風は廃れ、武士は弱体化したのに、薩摩藩士のみが闘争本能を全開にした勇者、蛮者の群れだったのであろうか。

司馬遼太郎の小説に、薩摩藩士の肝試しの場面が出てくる。
天井から紐で結んだ火縄銃を吊るし、車座になって酒を飲む。吊された火縄銃はゆっくりと回転している。いつ暴発してもおかしくない状況で平然と酒を飲めなければ、一人前の薩摩藩士とは認められなかったという。
精神を鍛えるという意味のほかに、団結心を強める効果を狙った肝試しだと思う。
団結心が強まると、人は、独りでは考えもしなかったような行動に出る時がある。集団心理である。

一方の幕府軍はどうであろうか。
渋沢清一郎の後任として彰義隊の頭取となった天野八郎が、官軍と一戦を交えている時に部下を背後に従えて、黒口門に駆け上がった。「俺についてこい」と勇ましく叫んで走っていったのはいいが、敵弾の飛び交う黒口門まで行って後ろを振り向くと、ついてくる者は誰もいなかった、というエピソードがある。

幕府軍では、負けそうになると我先に逃げ出すという集団心理が働いたのに対し、薩長ではたとえ敗色が濃くても一歩も引いてはならないという集団心理が働いた。
戊辰戦争における勝敗の差は、作戦の是非や火力の差などといわれるが、発生した集団心理の違いも勝敗に大きく影響を及ぼしたのではないだろうか。

薩摩藩士が彰義隊士の人肉を食したというのもひどい話であるが、薩長藩士は会津藩の領民には、もっとひどい仕打ちを行っている。

官軍という名の薩長兵は婦女子を捕らえて裸踊りを強要し、抵抗する者があれば情け容赦なく、一刀のもとに斬り殺した。
(中略)男女老幼区別なく、殺し、強姦を重ね、藩内の妻や娘らを陣所や宿舎などに捕らえて来て、侍妾とするものもいたので会津藩士はおおいに憤慨した。


正義や忠義心を口にする前に、人としての道はどこへ行ってしまったのだろう。
この時、暴行を行った薩長藩士の中にも、年頃の子供を持つ親もいただろうし、老いた親を持つ者もいたであろう。
それが、会津藩の領民というだけで、強姦したり、虐殺してしまうのは、一対一の人間同士ではなし得ない行為である。
その時、働いているのも集団心理だ。
虐殺や強姦に反対などしようものなら、自分自身まで殺されかねないという状況もあったのだろう。
だからといって、許される行為ではない。だが、戦という名の下に、罪は問われることはない。普段だったら殺人であり、略奪であっても、戦争時には、正当な行為と見なされる。
このような行為を非難する前に、戦争そのものを非難しなければならないのだ。
幕末は江戸無血開城が行われるなど、流血の痛みなしに成し得た革命だという説があるが、決して無血革命などではない。明治維新といえども、失われなくてもよい沢山の血の上に成り立ったものであるという事実を忘れてはならないと思う。


幕末・維新の群像(4)~悲劇の戊申戦争 小学館

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マイケルの亡霊映像

2009年07月08日 | ロックマニア
驚いた。
マイケル・ジャクソンの亡霊がネバーランド撮影中のカメラに映っていたという。

百聞は一見に如かず。
実際に見てみると、亡霊というか、影なのだが、確かにマイケルのようでもある。
真偽が気になる。

スーパースターは若くして死ぬと「伝説」となるが、マイケルも伝説となりつつある。
エルビスが亡くなったのが42歳。
マイケルの場合は、特別若く死んだという訳でもないが、それでも一般的に考えれば若年死である。

逆に、若くしてスターであっても、後の人生で辛酸をなめる人も多い。
映画の子役俳優などその傾向が特に強い。
古くは「エクソシスト」のリンダ・ブレア、ライアン・オニールの娘であるテイタム・オニール(昔、MJとの交際が伝えられた)などが思い出されるし、マニアックなところでは、「二人だけの恋の島」のアレッシオ・オラーノなどもいる。「ペイフォワード」のハーレイ・ジョエル・オスメントなんかも危ないところだったが、何とか持ち直しているようだ。

歴史上の人物としては坂本龍馬と比された後藤象二郎なども、晩年はぱっとしなかった。

前置きが長くなったが、マイケルの映像は、下記のリンクから観ることが可能。

YOUTUBEによる映像は●ここ●

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小枝橋~滝川播磨守の判断

2009年07月06日 | 江戸の幕末
戊辰戦争の際、勝敗を分けたのは火力の差であったという説をよく耳にする。
新政府軍はアームストロング砲を始めとして英国流の兵器を多数所持していた。
だが、幕府軍もミニエー銃や山崎関門にはカノン砲などフランスの指導による兵器を所持しており、単純に新政府軍の火力が優っていたとは断言できない。
たとえば、前回書いたように、山崎関門でも、新政府側に転向した津藩は、対岸の福井・小浜藩と淀川を挟んで砲撃戦を行ったが、幕府側の死傷者が300名を超えたのに対し、津藩の死者は僅かに1人であった。
津も当初は幕府側に従くと決めていた。当初から有意な戦法が取られていれば、明らかに火力で優勢な拠点となったはずである。

ここでいささか疑問に思うことがある。
戊申戦争は、小枝橋の小競り合いから始まった。
北上する幕府軍の指揮者である大目付滝川播磨守具挙と薩軍の間で、淀川を渡る小枝橋を「通せ」「通さぬ」の押し問答が続いた後、強引に進行しようとした幕府軍に薩軍が発砲し、戊申戦争の初端を開かれた。
薩摩としては、相手が先に攻撃してくるのを待っていたのだが、結局、幕府の強引な進軍によって開戦に踏み切った。
薩摩藩は配下の浪士隊を使って江戸の町を攪乱扇情、開戦のきっかけを作ろうとした。
薩摩の挑発に乗ったような格好で三田の薩摩邸を焼き討ちした幕府であるが、結局、これも直接は開戦に結びつかない。

いずれは始まったであろう戊申戦争ではあるが、薩摩も幕府も相手に刀を先に抜かせようとしていた。
特に、薩摩は相手が先に抜いてくれる必要があったのだが、結果としては、最初に手を出している。
これ以降、開戦の正当性というのは曖昧なままに本格的な戦いに突入していく。
薩摩側は、ここまで苦労して工作してきた割には、何となく開戦してしまった感がある。

しかし、逆から見ると、滝川播磨守の態度には、薩摩を開戦に踏み切らせるようなものがあったのだろう。
そして、播磨守は、まさかここで薩摩が発砲してくるとは考えていなかったに違いない。

あまり指摘されていないが、戊申戦争の幕府側の敗退は、現場指揮者、敢えて言えば、滝川播磨守の判断ミスが大きな要因になっているといえる。



昔の小枝橋は、今はコンクリートの橋となっていて昔の面影はない。現場には、石で出来た標識と簡単な説明板が残るのみである。


南の方角を眺める。昔は田んぼ道だったいうが、幕府軍はその田舎の道を歩いて来たのだろう。緊迫感が薄く、ここで攻撃されるとは思っていなかったと想像される。


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広瀬元恭と戊申戦争

2009年07月02日 | 江戸の学問
前回取り上げた梁川星厳も、今では知る人も少なくなってしまったが、広瀬元恭となると、知っている人はもっと少ないのではないだろうか。

広瀬元恭は、山梨の生まれで、江戸に出て蘭学を学んだ後に京に引っ越している。
この元恭は、梁川星厳とは江戸にいる頃からの知り合いであったが、京にあって親交の度を深めた。
元恭は、星厳とは奇妙な共通点があった。
星厳と同じく元恭の妻・イネもハモから感染したと思われるコレラに罹って死んだ点である。
逆に言うと、幕末の京阪では、ハモから罹病してしまうコレラが多かったのであろう。

元恭の門下生としては、東芝の創業者となる田中久重や日本赤十字社を設立する佐野常民などがいる。
蘭学者であり、医者でもあった元恭は、種痘を日本に伝えた人物としても有名である。
しかし、当時の元恭の名を有名にしていたのは、むしろ蘭学者としてよりも兵法家としての実績からである。
津藩は元恭の学識に注目し、何度も依頼して、やっとのことで藩講師になってもらっている。

津藩といえば、戊申戦争で山崎関門を守っていたことで有名であるが、この関門の設計を行ったのが、元恭である。
山崎関門は勝海舟の建議によって設立された。
有事の際、大坂港から入った異国船が京を目指す場合、淀川を上ってこの場所を通る。
両岸から挟撃できるこの場において、敵を叩こうと作られたのが山崎関門である。
高浜、神内に砲台場が設けられ、24ポンドカノン砲が据えられた。
戊申戦争ではアームストロング砲の威力がことさらに喧伝されるが、このカノン砲も威力があった。

「要塞砲としては最大射程を持つといわれている二十四ポンド加農(カノン)砲でさえ二千八百米を飛ばすのがやっとであるのに、このアームストロング砲ならこのちっぽけな砲でらくらくと四、五千米飛ばすことができるという」
『アームストロング砲』(司馬遼太郎)


上記の表現からみると、射程距離ではアームストロング砲のほうが優れているが、アームストロング砲は弾詰りも多く、爆発事故も起きている。その点、カノン砲のほうが安定していた。
川幅900mの淀川の対岸には若狭・小浜藩の守る樟葉砲台があったが、火力の差は歴然としていて、津藩の死者は一人、怪我人10名にとどまったのに対し、幕府軍の死傷者は300名を越えた。
ここまで差が出たのは、高浜の砲台に援軍に来た長州兵の腕の確かさなどもあるのだろうが、元恭の設計がよかった点も大きいと思われる。
戊申戦争のターニングポイントとして、山崎関門での津藩の幕府軍への攻撃がクローズアップされるが、その攻撃も元恭の力なしには成されなかったのである。


「京都時習堂~幕末の蘭医 広瀬元恭の生涯」 鬼丸智彦 アーカイブス出版
「アームストロング砲」 司馬遼太郎 講談社文庫
「幕末維新戦記」 横山高治 創元社

鬼丸智彦氏のHP

東芝と広瀬元恭の関係はこのHP
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