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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

江戸時代の飛脚は現代にタイムスリップしたらマラソンランナーとして活躍できるか?

2025年03月24日 | 江戸の交通
スポーツ時代小説を書いているとタイムスリップというシチュエーションをよく考える。
走りのプロだった飛脚が現代にタイムスリップしてきたら、マラソンや駅伝で活躍できるか、ということも考えた。
佐川急便のキャラクターにもなっている飛脚。
かなり速いイメージがあるが、実際のところはどうだったのであろう?

「上方・下方抜状早遅調」という記録が残っている。
ややこしい名前だが、カミガタ シモガタ ヌキジョウ ソウチ シラベと読む。
京~江戸間の運行表であり、鉄道でいえば時刻表に当たる。
実物は東京都港区の物流博物館に展示がある。
博物館のホームページには写真が載っているが、無断掲載禁止なので、興味がある方はこちらからご覧ください。

江戸~京間は、約500km。
せっかく上のややこしい名前の資料によると江戸~京間の標準所要時間は63時間とある。このことから、500÷63≒8km/時が飛脚の速さだと分かる。
少し補足すると、宮~桑名間は夜行の船便を使用しているので、時速が12km/時まで上がっている。
いっぽう、小田原~箱根のような難所も8km/時で走り抜けている。

マラソンの世界記録を見てみると、男子が21.1km、女子が19.2km。
ニューイヤーズ駅伝だと、20.9km(2025年・男子)。

比べるまでもなく、時速8kmというのは軽いジョギング程度である。
飛脚を爆速で走るなどといった表現も見かけるが、数字だけを見たら、それほど速くないことが分かる。

飛脚に求められたのは短時間の爆走ではなく、長時間コンスタントに走り続ける能力だったのである。しかも、毎日のように走るのだから、明日へ疲労を残さない走り方も求められた。
今に残る写真を見ても、飛脚の足は驚くほど太いが、サラブレッドではなく、頑丈な農耕馬を思わせる。

現代のマラソンの急激な高速化に日本人がついていけなくなっているのも、案外、こんなところにルーツを見いだせるのかもしれない。












べらぼうの蔦重たちの吉原までの交通費

2025年03月09日 | 江戸の交通
時代劇で吉原と言うと、普通は引っ越したあとの新吉原を指す。
もともとは葺屋町(現代の中央区日本橋人形町付近)人形町にあったのだが、明暦の大火、いわゆる振袖火事により遊郭も灰となった。

江戸の中心といってもいい場所に遊郭があることを憂慮していた幕府はここぞとばかりに吉原の移転を命じる。
移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。

この時から、以前の吉原を元吉原、後の吉原は単に吉原、もしくは新吉原と呼ばれるようになった。

現代でも吉原と言うのは、土地の人間か、一部の人間(?)以外にはどこにあるのか分かりにくい場所にあるのだが、JRでいえば日暮里が最寄駅となる。
その手のお店の案内を見ると、
入谷駅約14分、三ノ輪駅約14分、南千住駅約17分、浅草駅約21分
とある。

(図説吉原入門より)

江戸時代の人間は、日本橋や神田方面からは舟、浅草方面からだと徒歩で行くのが普通であった。

柳橋(JR総武線の浅草橋駅の近く)から舟に乗って大川(隅田川)に出た客は、首尾の松を左手に見ながら、吾妻橋を潜る。ほどなくして、竹屋の渡しが見え、舟は支流の山谷堀へ入るため、左に舵を取る。
今戸橋を潜ると、舟は船宿へと着く。
船頭に酒手をいくらか弾んで、船宿へと上がる。そこからは日本堤とよばれる土手である。日本堤とは壮大な名前だが、もうひとつ近くに堤があったので二本の堤というところから、日本堤と呼ばれるようになったらしい。別名、土手八丁。これは吉原までの距離が8丁(900m弱)だったからそう呼ばれた。気が焦るのか、船宿から駕篭を使う客も多かったという。
日本堤は浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ一本道なので、徒歩で来た客も最後はこの場所を通らなければならない。
衣紋坂を下りると、見返柳が見える。吉原への名残惜しさから、客が見返ったという場所である。
そこからは、吉原が直接見えないようにわざと屈折した五十間道(三曲りとも言われた)が広がる。さらに少し歩くと、大門(おおもん)が見える。
二間(3.6m)のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。


(広重画帖 新吉原衣文坂日本堤)

ずっと徒歩で行く場合はもちろん費用は掛からないが、乗り物を使用したときはどのくらい掛かったのであろう?

江戸時代の記録マニア喜田川守貞の「守貞謾稿」に記載がある。

1文=30円レートで計算してみる。
ついでに現代(令和7年3月)でのタクシー料金を調べてみる。

馬 日本橋~大門 
  並二百文(6,000円) 
  白馬三百四十八文(10,440円)
  タクシー料金 2,100円
 
駕篭 小伝馬町~大門  
   二朱(15,000円) *雨の場合は増賃  
   タクシー料金 1,600円

舟 柳橋~山谷堀
  猪牙舟 百四十八文(4,440円)  
  屋根舟 四百文~五百文(12,000円~15,000円) 
  タクシー料金 1,500円

江戸時代は乗り物の代金がかなり高かったようである。

(2012.5.16の記事を加筆修正)


馬のいた風景~南部馬

2023年02月11日 | 江戸の交通
郷土資料館や博物館に行くと、
「いつか使うかもしれない」
と思って、必ずといっていいほど資料集を買ってしまう。
しかし、ほとんどが本棚の肥やしとなっている。
これではいけない。
ランダムに抜き出し、備忘録的に面白いな、と思った点をブログに書いていきたい。

まずは、もりおか歴史文化館の「あの日あの時の盛岡4馬のいた風景」(平成26年10月26日発行)。

「南部駒」「南部馬」と呼称される南部藩名産の馬は、南部地方が「糠部郡(ぬかのぶぐん)」と呼ばれた時代から「糠部駿馬」として広く知られていた。
平安貴族にとって、良馬の獲得は権力や財力を示すものであったので大変重要視された。
藤原氏二代藤原基衡(もとひら)は京の仏師・運慶に五十疋の糠部駿馬を贈った。
時代は下って江戸時代になると、南部藩による馬は「野馬(のま」、民有の馬は「里馬(さとうま)」に分けて厳しく管理された。
このうち、牡馬を「駒」、雌馬を「駄」と呼んだ。
さらに「馬改(うまあらため)」を置いて、上中下の三等級に区分し、髪を切り「髪印」で認識できるようにした。
範有の馬は藩内九か所に設けられた「御野(おんの)」(藩営の牧場)で育てられた。

江戸時代の馬は体高が一三〇センチくらいであったが、南部駒は一四五センチと体高が高く、見た目や気性もよかったため、憧れのブランド品であった。
南部藩は「南部馬」のブランド力を維持するため、野馬はもちろん里馬も他領への流出、あるいは他領からの馬の流入についても厳しく管理した。

ブランド力を維持するために出荷規制をかけるとは、現代でもありそうな話だ。
あと、「駒」が牡馬に対する名称だとはしらなかった。

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飛脚の話②~速さ

2020年04月17日 | 江戸の交通
「上方・下方抜状早遅調」という書類がある。
早飛脚の時刻表ともいうべきものである。
下記の早遅調は、江戸~京を三日で行くという、超特急便の写真だ。
この書類により、江戸の飛脚がどれくらいの速さで走っていたかが分かる。
結論から言うと、驚くほど遅い。

表の見方を下記に記す。

①起点 ②現在の地名 ③距離(km) ④所要時間 ⑤ 平均速度(km/H) ⑥江戸からの累計距離(km) ⑦三日のうちの何日目か ⑧江戸を0時:00分に出発した場合の各起点の通過時刻 ⑨⑧から計算した所要時間 ⑩⑧⑨から割り出した平均速度 ⑪④と⑩との差

以上である。
⑤と⑩を見ると、飛脚のスピードが分かる。
ただ、釈然としない点も残る。
たとえば、大井川に3:36に着くとあるが、こんな時間では川を渡してもらえはしない。渡しは明け六つからと決まっているわけだから、六時に渡ったとすれば、九時までは三時間。金谷~天竜川は約30kmといったところだから、時速にすると10km。この辺りのロスタイムをどう計算するかがいまひとつ分からない。
富士川には18:48となっているが、これは実物では酉の刻、つまり暮れ六つだから、渡船の最終便の時間なのであろう。この時間に間に合わないと次の行程に支障をきたすため、プレッシャーのある区間だったに違いない。
宮~桑名は七里の渡しに乗るはずだが、宮の出発が22:36であるから、今でいえば夜行バスのようなものだ。宮~桑名の平均速度が上がっているのは、舟航のためだろう。

いずれにせよ、飛ぶように走るという姿からはほど遠い。
それには、速さよりも安全が求められた点や、一分一秒を争うといった内容が少なかった点などがあるのではないかと思う。









飛脚の話①~飛脚の日数と代金

2020年04月17日 | 江戸の交通
江戸時代の飛脚制度はなかなか複雑なのだが、その中で町人も武士も利用できるものとそうでないものとあった。
それはさておき、通常の飛脚便には、①並便②早便③仕立早便の三つがあった。
それぞれの便について見てみたい。

①並便
 江戸~京は、15日が目途とされたが、規定日数は定められていない。
 遅いと三十日も掛かる場合もあった。
 遅延の主な理由としては、荷物が込み合ったときに起こる問屋場での馬の不足(馬支)、増水等による川留め(川支)などがある。
 また、馬を継ぎ立てて行く(通常5~6頭)ため、その継立がうまくいかないのも遅延の原因となった。
 飛脚便の料金は、現代と同様、内容物の重さや酒類で大きく異なる。また、距離によっても違った。
 手紙一通を江戸から京や大坂へ送る場合を見ると、銭三十文とある。かけそばが十六文とすると、そば二杯分の値段である。
 現代より高いが、決して庶民が手が出ないほど高いわけではない。

②早便
 花形ともいうべき急送サービスである。
 早飛脚、早送り、早序、早などとも呼ばれた。
 六日限、七日限、八日限、十日限などと日限を決めた便である。
 早便は馬を継ぎたてず、一頭の馬で行った。
 それでも、遅延がちであり、天保年間には「正六日限」というサービスまで現れた。これは文字通り、遅延なく期限の六日で届けるというものである。
 納期遅延を防ぐためには、遅延が見込まれた場合、「小継之者」(走り飛脚)に急ぎの荷物を委託して走らせるという方法がとられた。
 馬を利用して荷物を運ぶというと、いかにも速いようなイメージがあるが、実際は馬子が手綱を引いてゆっくり歩いているに過ぎなかった。
 だから、人間が走るほうがよほど速かったのである。
 早便の料金であるが、江戸~京・大坂間において、六日限が二百文、七日限が百五十文、八日限が百文、十日限が六十文である。

③仕立飛脚
 現代でいうと、チャーター便のような感じである。
 しかし、トラックならぬ馬を使わず、全区間、人間が走り抜ける。
 もっとも速い便では、江戸~京が四日(九十六時間)であった。
 代金はぐっと跳ね上がり、四日限で四両二分、五日限で三両であった。
 
あまり参考にはならないが、ナビタイムで調べてみると、日本橋~京都間は464km。所要時間は高速利用で5.34時間、一般道利用で12.32時間。平均速度にすると、それぞれ80km、40kmとなる。
いっぽう、江戸時代の日本橋~京は509km。九十六時間で割ると、5.3kmとなってしまう。飛脚を引き継いでも、夜間は移動できなかったためである。

現代では郵便や宅急便に頼らずとも、情報伝達の手段であれば、メールやインターネットがあるのだから、隔世の感がある。
しかし、それで本当に暮らしが豊かになったかというのは、別問題である。
 
 
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中山道の道幅に驚く

2016年11月03日 | 江戸の交通
東海道五十三次が陽の道だとすると、中山道六十九次は陰の道である。
東海道にある大井川の渡しや七里の渡しのような川や海の難所はない代わりに、木曽の険しい山々や、冬には厳しい寒さが待ち受けていた。
現在、岐阜県にある中津川は、江戸から数えて四十五番目の宿駅である。
町並みには卯建(うだつ)の上がる商家が並び、商都としても栄えた場所で、今の景観からも往時が忍ばれる。
その中津川の中山道の途中に、非常に細い道がある。
今はほんのわずかに残っているだけで、気を付けないと見落としてしまうが、この細い道も紛れもない中山道であった。
中津川の本陣のあったあたりの道は、かつての道をなかなか忠実に再現している。
道は何回か直角に曲がっているが(枡形)、これは外部から中心部が見渡すことができないようにとの意図から為された工夫である。
前述の細い道も、細いうえにかなりの勾配が付いている。
これも一度に多くの人間が押し寄せられないようにする軍事的配慮からであった。
この細くなった場所には番人が詰め、通行人を監視した。
軽自動車も通れないくらい狭い道幅であり、一見すると「これが天下の中山道の一部か」と驚くものの、よく考えると、理にかなったものであると分かる。



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参勤交代の人数

2016年04月10日 | 江戸の交通
参勤交代については、広く知られているようでいて、その実、あまり知られていない部分が多い。

「超高速! 参勤交代」によると、

参勤交代とは、全国の大名を定期的に江戸に出仕させる事により、藩の財政に負担を与え、幕府への叛乱をおさえる制度である。

と端的に述べている。つづいて、

参勤交代は武家諸法度の実質的な第一条として掲げられており、参府を渋ったり、遅れたりする大名は厳しく処断された。

とある。
実際、多くの人が参勤交代に持つイメージもこのようなものであろう。
しかし、武家諸法度で述べられているのは、下記の文言である。

大名小名江戸の交代相定るところなり。毎年夏四月中、参勤を致すべし。従者の員数、近年甚だ多し。且は国郡の費、且は人民の労(つかれ)なり。向後(きょうこう)その相応を以てこれを減少すべし。

山本博文氏も、

参勤交代は大名の経済力を削減させようと定められたものではない。この制度の本質はあくまで諸大名の将軍に対する服属儀礼であった。

と書いている。参勤交代が華美になっていったのは、大名間の見栄や競争心によるもので、幕府としては人数を縮小するように、再三申し入れを行っている。

では、行列はどのくらいの人数であったのであろうか。
これについては、幕府から享保六年(1721年)に指針が出ている。

          馬上      足軽      人足      合計
 一万石     3~4騎     20人     30人      53~54人
 五万石       7騎     60人    100人     167人 
 十万石      10騎     80人    140~150人 230人~240人
二十万石以上 15~20騎  120~130人  250~300人 385人~450人


加賀百万石前田家の大名行列は多い時は4000人を数えたというが、この指針からすると、450人でこと足りたのである。
ただし、前田家の場合は4000人の行列であっても、百石当たりの人数は0.4人である。
一方、小大名の場合は、百石当たりの人数が1.5人程度になることも多く、負担が重かった。

参勤交代の費用に目を向けると、

人足費   43%
運賃    32%
物品購入費 20%
宿泊費    5%
(文化二年、鳥取藩)


とある。

藩支出の割合でみると、

江戸入用 30%
京阪入用  2%
道中銀   3%
国許入用 20%
俸禄   45%
(文化1~15年の平均、松江藩)


となる。参勤交代に掛かる費用としては、全体の3%でしかなかったと分かる。むしろ大きいのは江戸での滞在費である。

また、参勤交代には、戦力の提供との意味合があり、常時戦場が建前だった。
であるから、殿様は夜もゆっくりと寝てはいられない。
殿様の枕元には、小姓が座っており、夜なべして軍記の類を朗読している。周囲に夜のあいだ、ずっと起きている姿勢をみせるためだった。
参勤交代が苦役であったのは、間違いない。


写真は、甲州街道小原宿本陣。
本陣といえども、殿様にとっては、安息の施設とはいえなかった。

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藤川の棒鼻

2014年10月05日 | 江戸の交通
棒鼻{ぼうはな}というのは現在では使われなくなった言葉だ。
大江戸歴史講座(晋遊舎)によると、

宿駅の外れで傍示杭が立っているところ。棒端とも書く。

とある。


言葉だけでなく、棒鼻自体見ることがなくなったのだから言葉も使われなくなって当然だ。
愛知県岡崎市にある藤川宿跡には、棒鼻が再現されている。
東海道五十三次に描かれている藤川の棒鼻を忠実に再現していて、分かりやすい。

ちなみにこの辺りの西大平藩を統治していたのは、越前裁きで有名な大岡忠相{ただすけ}を初代藩祖とする大岡家である。
忠相は、町奉行としては初めて大名となり、万石取となった。
実際は忠相は、一回も西大平に赴いたことはなく、その後の大岡家も定府大名として江戸に留まった。

参考資料:大江戸歴史講座(晋遊舎)若桜木虔編





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清正橋

2014年07月30日 | 江戸の交通
小牧の近くに味鋺{あじま}という地名があり、味鋺神社がある。
その境内に移設されたのが、清正橋である。
清正橋は徳川家康が名古屋城を築城する際、豊臣秀吉に所縁の深い諸大名に重い荷役を負わせてところから始まる。
加藤清正は、家康の命があると率先して名古屋城築城に参加し、石の産地であった小牧の岩崎山近くの味鋺に、橋を架けさせた。
今見ると、ただ六枚の石が並べられているに過ぎないが、往時はこの倍くらいの規模であったらしく、中山道に到る参勤交代の行列も通ったと言う。
地元の人は、清正橋とは呼ばず、石橋と呼んでいたらしい。
清正が造らせたかどうかは別としても、歴史的に大変価値のある古い橋である。
ややこしいことに、この近くには年貢橋という橋もあり、年貢橋も清正橋と呼ばれている。
年貢橋も石橋も形状が酷似している。
形の似た橋が近くにあるという事実からすれば、清正が造らせたとの言い伝えも案外、本当なのかも知れない。

加藤清正は、強い反りを持たせ強度を高めた石垣を発明したことでも分かるように、築城の名人だった。
秀吉に大きな恩ある身でありながら、徳川政権になるや、家康にも真っ先に恭順の意を示している。
同じ築城の名人とされた藤堂高虎も素早く身の処し方を変えると言われたが、二人に共通しているのは、根本に誠実さがあることだろう。
単に権力に迎合していただけでなく、自分の信念に基づきリーダーの下にあっては誠心誠意尽くしたという点は評価に値するのではないだろうか。



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将軍の駕篭かきは褌姿でも失礼でなかったのか~陸尺・ろくしゃく(御六尺)

2013年08月17日 | 江戸の交通
陸尺というのは駕篭舁き(かごかき)のことである。
ただし、この名称は通常の駕籠舁きには使用されず、将軍や大名の駕籠を担ぐ者のみを指し示す。
通常の駕籠舁きは、舁夫だとか、俗称の雲助などと呼ばれていた。
身分の違いには厳格だった江戸時代だから、こういった名称にも敏感だったのだろう。
なぜ陸尺(六尺)と言うかについては、定説はないのだが、主に四説ある。

①力者からの転化。
②乗り物の棒は一丈二尺、これを二人で担ぐから六尺。
③乗り物の寸法が六尺。
④六尺以上の身長の者をよしとするため。


幕府の職名によると、六尺は若年寄→同朋頭→同朋の配下に風呂六尺と表六尺、裏六尺があるが、これは雑役夫のことであり、ここで取り上げている六尺とは異なる。
将軍や世子等の駕籠舁きは、若年寄→目付→駕籠頭の配下の駕篭之者という名称で表されている。三田村鳶魚によると、一般にはおかご衆と呼ばれていた。
駕籠者の員数は、家康の頃には駕籠頭一名、輿夫三十一名であったが、その後は人数を増やし、頭三名、輿夫百五十名となった。報酬は、頭が年六十俵、駕籠者が二十俵二人扶持とされた。他の六尺が十五俵一人扶持であるから、それよりは高給取りであり、台所番などと同じ禄である。 
組屋敷ははじめ、本郷湯島にあったが、その後、追加や移転を繰り返した。
本所四ツ目前、谷中七面前、四谷鮫ケ橋などがその例であるが、現在も地名に残る巣鴨近くの駕籠町は、その名残である。

陸尺は、今で言うハイヤーのドライバーのようなものだから、さぞマナーもよかったのだろうと思うとそうでもなかったようだ。
本来、将軍を乗せた駕籠はゆっくり進むものだが、御目付けがゆっくり行け、と命じても陸尺はすぐに走り始める。
例外としては曇天の日だった。
雨が降ると、濡れ手当てが出るため、雨が降るのを待って、わざとゆっくり進むのだった。

大名の陸尺は、江戸抱えの一季契約の者、日雇いの者が多かったから、なおさらがさつである。
他の陸尺と争うように走り、混雑の中でも飛ばして危険だったため、何度も注意が出ている。

陸尺の服装は、通常は法被で、布地は将軍、御三家、喜連川は特に黒絹を着て脇差を差した。そのほかは木綿の法被であった。大礼服も紅のさめた退色と取り決めがある。
立派な乗り物を担ぐ陸尺らしい、それなりの格好であったが、腰から下は甚だ見苦しい。
法被をまくり、尻丸出しであったからだ。
現代の感覚からしても、おかしいが、当時も問題視していた人もいる。
荻生徂徠の流れを引く江戸中期の儒学者・太宰春台は、

陸尺は輿の前後にありながら、人体の中でも最も不浄な尻を顕にして貴人に示す。特に輿の者は、尻を輿中の面前にさらす。輿中の人が汚らわしいと思わないのは、まことに奇妙だ。嘔吐すべき習慣だ。

と嘆いている。
考えるまでもなく、指摘通りであり、非常に奇妙である。
名称までいちいち神経質に一般の駕篭舁きとは変え、ドレスコードまで規定しているのに、下半身に関しては、取り決めがない。
立派な輿であっても、前後を担ぐのが褌姿では無礼なのではないだろうか。
しかし、太宰のような指摘はむしろ例外的であって、あまり問題視されていた気配はない。
これはひとつには、駕篭舁きの一般的な服装に対する共通の認識が、褌姿であったという点があり、他方には、駕篭之者の身分が微妙なものであったいう点があると思う。
現に輿前の陸尺が放屁したとしても、お咎めなかったというから、駕籠之者の扱われ方としては馬のように単なる労働力としてしか見られていなかったのかもしれない。

参考資料:江戸のうつりかわり3(芳賀昇編)柏書房
      歴史読本スペシャル28 新人物往来社
      江戸武家事典(稲垣史生編)青蛙房

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