木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

大江戸歴史講座

2013年05月25日 | 江戸の文化
晋遊社から「大江戸歴史講座」が出版されます。
「講座」とタイトルが付いていますが、小辞典的な本です。
十一章に分かれ、語句の解説が行われているのでが、かなりマニアックな章もあります。

一章 江戸の博打
二章 江戸の宝くじ
三章 江戸の観光
四章 江戸時代の武器と剣豪
五章 江戸・上方風俗くらべ
六章 江戸の商売
七章 江戸の娯楽
八章 江戸時代の食文化
九章 江戸の植物と薬種園
十章 江戸の火事と喧嘩
十一章江戸の町奉行所

八人の共同執筆なのですが、私は六章江戸の商売、七章江戸の娯楽を担当させていただきました。
後で内容を見ると、もっとマニアックな項目にしてもよかったかな、と思っていますが、内容としては辞典というよりも、雑学集のような感じで、どこから拾い読みしても面白いと思います。

【賽】どうして賽子(サイコロ)が六角形なのか知ってるか? 天地東西南北をかたどったからだぜ。ちなみに天が一、地が六、東が五、西が二、南が四で、北が三に対応しているんだ(一章)

【パイナップル】弘化二年(一八四五)、オランダ人が長崎に持ち込んだ(九章)span>

など他の本ではなかなかお目に掛からない項目が多くなっています。
江戸の有名人が解説するという形を取っているのだが、私は江戸の商売を十返舎一九、江戸の娯楽を上野彦馬と堀江鍬次郎を選択しました。
これもかなりマニアックな人選。
肩の凝らない豆知識として読んでいただくには、好適書だと思います。

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4863917937&ref=tf_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村
 








三者密談

2013年05月14日 | ハムスター


暖かいを通り越して暑くなってきました。

ペットくんたちに日光浴をさせようと思ったとき、ベランダは便利。
危ないところをチェックして、対処しておけば、後は放し飼いでOK。
相性のいい者同士を複数で放し飼い。
自分は折りたたみの椅子でも持ち込んで、缶ビール片手に読書。
あくせくした毎日の中にぽっと持ち込まれたスローライフという感じです。

この前の日曜もハム、ハム、モルを放ちましたが、端のほうでなにやら密談していました。
いったい、なにを話していたのでしょう。

↓ よろしかったら、クリックお願いします。
人気ブログランキングへ

松井正道 「道~trace」

2013年05月14日 | ポップマニア
道。
松井正道氏にぴったりの言葉だと思う。
先日、栄ミナミ音楽祭に出演されたので、聴きに行く。

NHKのオンエアバトルで「三叉路」のリードボーカルとして松井氏が現れたときは、衝撃的で今でもはっきりと覚えている。
長身痩躯に下駄ばき、Gパン。
コンセプトは昭和のフォークで、「神田川」のような貧乏だけど幸せ的な歌を歌っていた。

もうそれから10年が経った。
10年ひと昔と言う。
10年の間にホップステップした人、没落した人、現状維持の人。
松井氏は紆余曲折の10年だったのではないだろうか。
歩いてきた道が、その人そのものとなる。
平坦な道だけしか歩いて来なかった人には見えない景色がある。

2013年3月19日、ソロアルバム「道~trace」をリリース。
現在の松井氏が考えていることがストレートに伝わってくる。
真面目で繊細で、時には考え込んでしまいそうな松井氏の息遣いが聞こえるようなアルバムだ。
今改めて「三叉路」を聴いてみると、メロディやハーモニーの綺麗さは際立っているが、詞の内容はフィクションだなあ、と思う。
今回のアルバムには、現在の松井氏が考えている正直な「今の気持ち」がぎっしりと詰まっている。
少しくたびれた中年男性が実家に帰って子供のころのグローブを見付け昔の夢を思い出すといった「ぺちゃんこのグローブ」、東京での暮らしに疲れたとき、故郷を想って創ったという「長良川」など、齢を重ねないと書けない内容だ。
「願っていればいつか夢は叶う」だとか、若者の歌う歌はリポビタンDを飲んだときのように、聴いた瞬間は気持ちよくなるけど、中高年は世の中がそんなに甘くないことを知っている。
「常なる日々だけど」の中のワンフレーズはストレートに響く。

響く踏切 束なる足音 せかすように先を急ぐように
決められたレールとルールで比べあうよりも
創る人でありたい (常なる日々だけど)


世の中は叶う夢よりも叶わない夢のほうが多いけれど、確かなことはただひとつ。
チャレンジしていかなければ、夢は絶対に叶わないということ。

松井氏の音楽は、堅いサキイカのようだ。
サキイカは見かけは柔らかそうだ。
柔らかいと思って食べると、堅くて「何だ、これは」と思う。
それでも噛んでいると、何とも言えない味わいが出てくる。
いい道具が使えば使うほどなじんでくるように、このアルバムは聴けば聴くほど、共感する部分が多く感じられるようになった。

綾小路きみまろではないが、特に中高年の皆さま。
一日の終わりに、酒でも飲みながら、人生に思いをはせるとき、松井正道氏の「道」は絶好の音楽となります。
もちろん、酒が入らなくてもいいのだけれども、酒呑みの自分にはそんな聴き方がオススメです。

松井正道オフィシャルホームページ



ここにある幸せ youtube (結婚式の定番ソングになってもいい名曲)




↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=kinkiraumenzu-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00BK6UYLI&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=B00C21Y4K2&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>





高野長英とその死因

2013年05月06日 | 江戸の人物
高野長英。
文化元年(1804年)5月5日に陸奥水沢に生まれる。
嘉永三年(1850年)10月30日死す。
長英を見ていると、人間の運、不運というものを感ぜずにはいられない。

長英は当時オランダ語学の最高水準を持っていただけでなく、商才もあった。
神崎屋源造に薬品の製法を授け、多大なる益を得させている。
もっとも、その利益を長英自ら得て、贅沢をした訳ではない。
ただただ、長英は自らの実力を誇示したいという気持ちがあっただけであろう。

その長英は、「戊辰夢物語」において、諸外国を打ち払ってまで鎖国を続けようとする幕府の姿勢を批判した。
時に天保八年、大坂で大塩平八郎の乱が起きて、幕府がぴりぴりしている頃である。
翌々年の天保十年に蛮社の獄が起き、長英は牢獄に繋がれる。
長英はこの天保十年から、天保十五年六月まで五年の永きに亘り、牢獄の住人となっていた。
当時、懲役という刑罰はなく、牢獄は未決囚が押し込められている場所であった。
ここまで永く長英が牢獄に入れられていたというのは、世論を恐れた幕府が長英に極刑を言い渡せなかったからである。
不潔な牢獄で、勝手に病を得て、勝手に死んで欲しい、というのが幕府の本音だったであろう。

しかし、長英は別の道を選ぶ。
自らの牢獄に火を放ち、脱獄する道である。
脱獄してからの長英は、様々な土地へ行き、英邁な藩主や、進取の気性に富んだ人々の庇護を受けている。
この頃には、昔の剃刀のように頭脳明晰だが、傲慢なだけの長英ではなくなっていたであろう。
そして、限りある自分の余生について想いを寄せていたに違いない。
敢えて危険を犯してまで、江戸に戻ったのもそうしなくてはならならい理由があったからだ。
その際に自ら薬品で顔を焼いたのは、もちろん人相を変えるという意味もあったのだが、自らの決意を忘れまいとした、とは考えられないだろうか。

江戸に潜伏した長英は沢三伯という偽名を使い、医者を生業とした。
庭に木の葉を敷いて、町方の踏み込みには警戒していたが、「往診をお願いします」という声に油断して出たところ、町方に取り囲まれたと言う。
応戦したが、多勢に無勢、最期は自ら短刀で喉を突いて自害したというが、真相は、長期の逃亡を許した責を負っていた町方が殴り殺してしまったらしい。
咎人は生け捕りが原則であるから、ダブルのミスを指摘されないように、町方が「自殺」というシナリオを描いた。
当時、指揮をとっていたのは鳥居耀三。
江戸末期に咲いたいかにも毒キノコ然とした毒キノコである。

長英が死して三年後の嘉永三年(1853年)、ペリーが浦賀に来航。
早過ぎた長英の死であった。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村