木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

鹿児島と木曽三川の関係

2009年03月30日 | 江戸の話
岐阜県海津市の歴史民族資料館に平田靭負正輔の胸像が設置されている。

平田正輔は、薩摩藩の家老で、宝暦四年(1754年)に治水奉行として木曽三川の治水事業に着任。
木曽三川というのは、木曽川、揖斐川、長良川の総称で、暴れ河川と知られていた。
この地に遠く薩摩から多くの藩士が動員された。
治水工事は思った以上に難工事で、八八名にものぼる死者と、多大な資金が費やされた。
工事は翌宝暦五年に一応の完成をみる。
正輔は、藩士が帰郷する宝暦五年五月二五日に腹を切った。

簡単に経緯を述べるとこのようになる。
展示などでも、このような簡単な内容しか述べられていないことが多い。
正輔の切腹も、多くの犠牲者を出した責任を取って行った、などと説明されている。

これだと、薩摩藩士の行動は義侠心にあふれた美談、正輔の切腹は責任感にあふれる行い、思われてしまう。
しかし、内情はもっとどろどろしていて、真の目的は、薩摩の経済力をそぐために行った幕府の政策であった。
正輔の切腹も幕府への抗議といった意味合いが大きい。

この地には、正輔を祭った治水神社があり、今でも春と秋の社祭には、鹿児島から来客が訪れるという。
現代でも、薩摩武士の無念は忘れられていない。
幕末に薩摩が倒幕に向かったのも、このときの恨みを忘れていなかったから、というのも一因である。

もっとも、岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約を締結し、海津市には、鹿児島の森という公園もできている。
公園内には島津家の家紋をかたどったモニュメントもある。
もともと、薩摩の力をそぐという目的は幕府のものであって、この地の人々の目的ではなかった。
当時も、地元民は素直に薩摩人の力を感謝したことであろう。
時代を超えて、交流の輪が広がるのはうれしいことだ。


平田正輔の胸像

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