木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

ふたりだけの恋の島

2008年10月27日 | 映画レビュー
「ふたりだけの恋の島」という古い映画のDVDを入手した。
オルネラ・ムーティというイタリアの女優が魅力を爆発させた映画である。
初々しいオルネラのあどけさの残る表情と、大胆な肢体が観る者(特に男性)を魅了した。
今、改めて観てみると、映画の中の音楽が見事だったことに気が付いた。
ジャンニ・マルケッティという人の手になる音楽は、「ミドル・オブ・ザ・ロード」というスコットランドのバンドが演奏しているのだが、ボーカルのサリー・カーという女性の声が何とも頼りない感じで、それが癖になる。
もう何十年も前の映画なのに、映画の中のメロディを聞くと、はっきりと覚えていた。
ビデオもDVDもない時代だったので、観た回数というのは、ごく限られたものであったのに、よほど強烈な印象が残っていたのであろう。
昔、感銘を受けた映画を改めて観ると、映画中の音楽が優れていたものが多い。
「バニシング・ポイント」「真夜中のカウボーイ」「サンダーボルト」「パピヨン」「セルピコ」など。
考えてみればイタリアには、エンニオ・モリコーネをはじめ、優れた作曲家が多く、マカロニウエスタンや思わず涙を流してしまうような作品の成功を促した。
「タイタニック」が受けたのも、楽曲の素晴らしさにも、大きな一因があると思う。
まだ、中学生や高校生の時に観た映画の音楽は、諸外国の匂いや憧れを伴って、脳裏に焼き付いた。
私の語学や地理に関する興味というのは、すべて映画から始まったと言っても過言ではない。
ちなみに「ミドル・オブ・ザ・ロード」は「チピチピ天国」という情けない邦題の曲をヒットさせたが、その後は聞かない。
私自身も、最近、このDVDを手に入れてから、「ミドル・オブ・ザ・ロード」というバンドが挿入歌を唄っているのだと知った次第で、一発屋で、今はどこに行ったのかも分からないのだろうなあ、と思いながらインターネットを見ていると、なんと、びっくり、このバンドは現役でした。これには、驚きました。ミニスカートの似合っていたサリー・カーをはじめ、残りの三人の男性も
おじさんというよりは、おじいさんといった風情になってはいたが、何となく嬉しかった。
話は大きく戻って「ふたりだけの恋の島」。
主演のアレッシオ・オラーノとオルネラ・ムーティは、前作「シシリアの恋人たち」以来、連続の共演で私生活でも結婚。
しかし、その結婚は長く続かなかった。
ふたりは離婚し、オルネラは女優として成功するが、アレッシオは銀幕界から去ることとなる。
何か、映画のラストシーンを見ているかのような結末である。

ミドル・オブ・ザ・ロードHP

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「ふたりだけの島」のサントラ版が手に入らないと諦めていた方。上記のアルバムには映画の中の音楽がほとんど含まれています(ボーカルもの)。このアルバムは買いです。

生類憐れみの令とインターネット

2008年10月23日 | 日常雑感
一昔前は、本当にものをよく知ったおじさん(おばさんでもいいのだが)という人がいて、どんな質問にも即座に答えてくれたものであった。
今はそのようなおじさん、おばさんよりも、物知りがいる。
インターネットである。
ポンポンとキーワードを叩くと、簡単に答えが得られる。
江戸の牢屋奉行(囚獄)は代々襲名で、その名は○×帯刀であるが、先日、この○×(苗字)が思い出せなかった。
うんうん唸って、考えたのだが、なかなか思い出せない。
そこで、インターネットで「囚獄 帯刀」と入力すると、すぐに「石出帯刀」と表示される。
これは、物知りおじさんと同居しているのも同じである。便利なことこのうえない。
先日、「生類憐れみの令」で検索をかけてみると、驚くことに、「悪く言われるこの令も、動物愛護の精神からすると、必ずしも悪法ではない」という論調の記事が多いのに気が付いた。
「昔から~といわれているが、実は…であった」という論調は魅力的なもので、田沼意次や吉良上野介はいい人間であった、などという説がはやったこともある。この説の是非はさておき、インターネットで「生類憐れみの令」を検索した人は、「この令って言うほど悪いもんじゃなかったんだ」と思う人も少なからずいるだろう。
その記事の内容をよく読んでみると、ある大学教授の説が載っている。この人は、個人的にもよく知っている人であったので、もとの本を読んでみてびっくり。そのインターネットに掲載されているのは、大学教授が、別の人の説を引用してきて「果たして、そうなのであろうか」と検証しようとしているものであった。いわゆる、孫引きの危険性がここにある。インターネットは、記事の正誤までは教えてくれない。数の多さが、正当性を証明しないのが怖いところ。
なかには、水戸光圀は、「生類憐れみの令」に反対するため、牧場を作り、牛肉を食べることを奨励していた、という記事にも出くわした。光圀がこの令に反対したのも、牧場を作ったのも事実であるが、この頃は、徳川幕府も安泰で、御三家といえども、面と向かって反対できるようなことは決してなかった。
では、私自身は、憐れみの令に対して、どう考えるのだと聞かれたら、密かに師と思っている鈴木一夫氏の言葉を引きたい。

綱吉の頭のなかには、自然保護の精神や野生動物という存在にたいする感覚や接点などひとかけらもない。御殿のなかで生活するだけで、鷹狩りなどで山野に出かけることを嫌った綱吉には、おそらく自然と接する生活がほとんどなかったはずである。自然にかかわることのない生活感覚をもつ人間から、動物愛護の心やまして自然保護の精神が生まれるはずもないことは、自明のことである。

また、この令を動物愛護に引っ掛けて幕閣の意見を牽制する綱吉の深い意図が隠されている、とした記事にもでくわした。
この記事には以下の一文を引用したい。

数々の法令や、法令違反者にたいする処罰の判例は、けっして整合性のある体系をもつものではなく、いかにも綱吉らしい恣意的な禁令と処罰の羅列にすぎない。

このブログを読んでくださった方が、「やっぱり、生類憐れみの令、ってのは悪法だったんだ」と思ってくれることが、本意ではない。
このブログも含め、インターネットの中には、間違った情報もある、ということを提示したかっただけである。
とはいえ、このブログでは、孫引きはしないことを趣旨としています。

鈴木一夫 「水戸黄門」 中公文庫  ←名書です!

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初秋の蚊

2008年10月16日 | 日常雑感
昨日の名古屋は夏日を迎えた。
夏日というのは最高温度が25℃以上あった日のことで、30℃以上だと真夏日、35℃以上だと猛暑日というらしい。もっとも、猛暑日というのは昨年作られた言葉で、まだ耳に馴染みがない。
この真夏日、名古屋で最後に見られるのは10月中旬から10月下旬ということだ。
この時期は、からっとしているので体感温度としても、過ごしにくくはなく、25℃あっても心地よい。少し動くと汗ばむ陽気である。
夏日に影響されたのでもないだろうが、昨日、久しぶりに蚊に刺された。
蚊も刺された後、かゆくならなければ、少しくらい血を吸わせてやってもいいと思うのだが、後のかゆさを思うと、つい潰してしまう。夏も終わり、蚊も必死なのは分かるのだが。
そういえば、まだ我が家には扇風機がしまわず、出されている。
扇風機も、みなさんはいつ頃しまわれるのだろうか?
うちでは、暖房機が登場するまで、出ているような気がする。単に性格がずぼらなだけからかも知れない。


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日本語の乱れ

2008年10月09日 | 日常雑感
KYが日本語なのかは分からない。これは、今更、言うまでもなく「空気読めない」の略語である。
昨今、日本語の乱れが話題になることが多くなったが、言葉は生き物である。変化していくのは、当然といえば当然。「乱れ日本語」というものが使われるのも、乱れた言葉のほうが使いやすいからである。その結果、間違っている言葉が市民権を得て、正しい言葉が隅に追いやれれる事もある。
とはいえ、耳障りな言葉があるのも事実。
たとえば、レストランなどで注文をすると、「オーダーは以上でよろしかったでしょうか?」と過去形で聞かれる。
なぜ「オーダーは以上でよろしいでしょうか?」ではいけないのだろうか。
会計時に「一万円からお預かりします」というのも、気になる。
「一万円お預かりします」では、駄目なのであろうか。
まあ、これなども、過去形や、「から」といった表現が楽だから使っているのならまだ問題はないように思える。
むしろ気になるのは、間違った表現が丁寧な表現であると勘違いしているかも知れないということである。
あまり敬語など使ったことのない人が、急に敬語を使うと慇懃無礼のようになってしまうことがあるが、先ほどの二例などは、その傾向があるように思える。
苦しい思いをして、間違った日本語を使っているなら、誰も得をしない。
レストランで「こんで、注文はいいかなあ」と聞かれたら、喧嘩にも発展しかねないが、一杯飲み屋であれば、気にならない。
TPOという語があるが、言葉は場にあったものを使うというのが鉄則である。
そして、言葉の使い方の正誤ではなく、その裏にある姿勢を見ることも大事ではなかろうか。
かつての不動産バブル、先ほどのITバブルのような時世には、客を客と思わない飲食店も多く存在した(今でもあるが)。
このような店にあっては、言葉が丁寧でも、問題は大きい。
間違った言葉でも、丁寧に話されていれば、気にならないものである。


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目途と有無

2008年10月03日 | 日常雑感
先日の国会答弁をラジオで聞いた。
鳩山氏と麻生総理の答弁は良家同士のものとして、興味深く聞いたが、両氏とも分かりやすい質問、回答をしていたと思う。
その中で、鳩山氏が「もくと」という表現をしていた。これは、「目途」を「もくと」と誤って読んでいたのではないかと思って、辞書を引いてみた。
辞書を引くと、「目途」は「もくと」が正しい読みで、意味は、『目当て。めど。見込み』とある。
「めど」は、本来「目処」の字が充てられるべきで、「目処」を辞書で引くと『①目指すところ。目標。めあて②針の糸を通す穴。はりのみみ』とある。
現代では、「目途」と書いて「めど」と読ませるのが一般的で、「もくと」という表現は日常的でない。私自身、「もくと」と聞いて、間違いでないかと思ってしまったほど、全然ピンと来なかった一人である。
「めど」という語感が嫌ならば、「目標」などの語を使えばいい、と思いながら続けて国会答弁を聞いていると、今度は麻生総理が「有無」をしきりに「ゆうむ」と発言していた。
一定の年齢以上の人になると、いわゆる重箱読みをする人が多い。たとえば、「工場長」を「こうばちょう」などと読む場合である。
麻生総理の言い方は、重箱読みではないが、なんとなく、年配者が使う重箱読みに近い気がする。
ちなみに、辞書を引いても、「ゆうむ」は出ていなかった。正しい日本語の使い方ではないのだが、「ゆうむ」と聞いて、意味は分かった。

言葉の使い方の正確さからすると民主党有利、分かりやすさでは自民党有利、といったところであろうか。

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江戸時代と現代

2008年10月01日 | 日常雑感
現代社会は、よく江戸時代の武家社会に喩えられる。
特に、サラリーマンは、武士に置き換えられて考えられることが多い。
終身雇用制などは、江戸幕府から引き継がれている制度と言える。
しかし、ひところのバブルやITバブルなどは、まさに戦国時代を思わせる。
江戸幕府を倒したのは薩長土肥であり、彼らは江戸幕府を否定し、自らの益を継続させようと考えたのが官僚政治である。これが現在まで踏襲されている。
そうすると、今の世の中は必ずしも江戸時代の制度を引き継いでいない。
むしろ、今の風潮というのは、江戸以前のものなのかも知れない。
では、どの時代の風潮なのか、と考えてみると、色々な時代がミックスされているように思う。
今は独裁者がいない時代であるが、古来日本には真の意味での独裁者がいなかった。
江戸時代でも、徳川は絶対独裁者ではなかった。家康は、いかに諸大名が反乱しないようにするかに腐心し、制度と精神面というハードとソフトの二本立てで臨んだ。決して、独裁者として臨んだ訳ではない。
当然、現代にも独裁者がいない。
日本の色を染めるのは、多数の意見であるが、この意見というのは、操作されやすい。
怖いのは、知らないうちに、マインドコントロールされていくことである。
このマインドコントロールというのは、誰かが意図的に行っているとは限らない。
たとえば、癒しだ、ヒーリングだ、自分にご褒美だ、とマスコミにはやし立てられると、自分も疲れているんだな、と思ってしまう。
ストレスだ、鬱だ、と言われると、自分もストレスを溜め込んでいるんだと思う。
悪気の有無にかかわらず、自分の考えまで左右されてしまう。
ITバブルは、もっと質が悪く、権利ばかり主張する者を大増殖させた。
金を払えば、何でもできると公言して憚らない連中を輩出した後遺症が今に残っている。
現在多発している凶悪犯罪は、このバブルの影響を強く受けているとしか思えない。
この先、日本がどこに行くのか、心配である。

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