木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

山本周五郎氏の言葉

2011年06月20日 | 言葉について
自宅の近所にまぼろしのラーメン屋がある。
いつ行っても閉まっているのだが、ごくまれに開いている時があると思うと、そんな日は行列が出来ている。
いろいろ調べてみると、メニューが塩ラーメンしかない店で、雑誌に紹介されたこともあるらしい。
一回、行ってみたいと思うものの、いつ行っても開いていない。
客に権利があるように、店主の側にも当然権利はある訳で、もっと長く営業しろなどとは言えない。
料理に関してはアマチュアの私が言うのもおこがましいのかも知れないが、飲食店の店主がもっともうれしい瞬間は、自分の作った料理をお客さんが心から喜んでくれることではないだろうか。
種々の理由はあるのだろうけれど、冒頭のまぼろしのラーメン屋さんは、その至福の機会を自ら少なくしている。
もちろん、実はまずかった、などというなら、話は全く別なのだが。

先日、「人は負けながら勝つのがいい」という山本周五郎氏のエッセイを読んだ。

私がたとえば『将門』を書くといたします。私が『将門』の伝記の中で、私がこの分はかきたいと思うからこそ、―――現在、生活している最大多数の人たちに訴えて、ともに共感をよびたい、というテーマが見つかったからこそ、―――小説を書くわけでございます。
話がワキ道にそれるかも知れませんが、私は、自分がどうしても書きたいと思うテーマ、これだけは書かずにおられない、というテーマがない限りは、ぜったいに筆をとったことがありません。それが小説だと思うんです。


人が仕事をするのは、生きる糧を得るためではなく、自己を証明するためである。
料理人は料理で、画家は絵で、物書きは文で自己を主張する。
高尚な仕事も、低級な仕事もない。
与えられた仕事で困難が起きるときもあれば、絶頂のときもある。そんなとき、人間性が現れる。
小説を書く者は、小説の中で自己を証明すべきである。

山本周五郎氏は、「文学は最大多数の庶民に仕える」とも言っている。
小説を書く者は、「分かってくれる人だけが分かってくれればいい」という態度ではいけないと自戒した。
自分が胸に抱いた感動をどれだけ多くの人とシェアできるか。
成功したいとか、賞を取りたい、などということではなく、多くの人と感動を共にできれば、自ずと道はついてくるものなのだろう。

人生は負けながら勝つのがいい(山本周五郎)大和出版

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幸せの太鼓を響かせて

2011年06月15日 | 映画レビュー
幸せの太鼓を響かせて~INCLUSION」を観る。

知的障がい者によるプロの和太鼓集団「瑞宝太鼓」を追ったドキュメンタリーである。
かなり感動的な題材を扱っているのであるが、カメラはむしろ淡々とメンバーの日常を追う。
メンバーも気負いもせず、ただただ、太鼓の毎日に没頭しているように見える。
ただし、プロというからには、観客からお金を取れるような演奏をしないといけない。
プロで暮らしている太鼓集団は少ない。
果たして大丈夫だろうかと見ていたのだが、心配は杞憂だったようだ。
「瑞宝太鼓」は、プロとして活動し始めたのが、2001年からだ。10年以上の活動歴は伊達ではない。
本来の意味での独立プロではなく、就労継続機関A型事業所「瑞宝太鼓」に勤務して給与を貰っているようなのだが、プロに変わりはない。
テクニックがアマチュア並みだったら、ここまで継続できてはいない。

この映画を観て印象的だったのはメンバーの演奏時の楽しそうな表情である。
演奏も、単に生活の糧を得るため、とだけ考えたら、どれだけ詰まらないだろう。
翻って、仕事を心から楽しんでいる人たちというのは、どれだけいるのだろう。
今回の震災で、プロ野球開催の時期が議論されたとき、どこかの選手が「僕たちを観て、元気が出るようなプレーがしたい」と言っていた。元気が出るようなプレーってどんなプレーだろう。
プロの選手は一生懸命やるのは絶対条件であって、それだけでは観る人は感動しない。
「瑞宝太鼓」のメンバーが演奏時に見せる輝くような表情は、損得とか、計算などを超越している。
くしくもリーダーの岩本さんがMCで話す「僕たちは計算するとか、ものを数えるということは得意ではありませんが、太鼓を一生懸命に叩きます」と言っていたのは、その通りだと思う。
瑞宝太鼓のメンバーはプロといっても、豪邸に住めるほどの報酬を貰っているわけではない。むしろ、逆である。だけれども、幸せというのは収入の多寡だとか、地位だとか名声だとか、そんな世俗的なものに必ずしも比例しないのだということを教えられたように思う。

観終わった後に、リーダーの岩本さんだとか、副リーダーの高倉さんたちと古くからの友人であるかのような錯覚に陥った。

劇場で販売されているサントラ盤「INCLUSION」もお勧め。収録時間は短いが、時勝矢一路さんの手になる音楽はやさしく、ピアノと太鼓の音が心に沁みる。

お勧め度★★★★(★5つが満点)

「幸せの太鼓を響かせて」HP
瑞宝太鼓HP
瑞宝太鼓の演奏YOUTUBE
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一笑一若

2011年06月12日 | 日常雑感
昨日、出来町通を自転車で走っていると、お寺に貼ってあった紙が目に入った。

一笑一若
一怒一老


座右の銘にしたい名言だ。
すぐに怒ってしまう自分にとって、戒めの言葉でもある。

人はある程度の年齢以上になると、生き方が顔に出る。
アメリカ大統領のリンカーンは、「40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはならない」と言った。

誰もが、家庭での顔、職場での役割、地域や趣味の団体での役割など、多種の顔を持っている。
社会では、与えられた役をきっちりこなすことが要求される。その際、個性や主観などを押し曲げて、役を演じることもある。
職場では終始しかめっ面をしている人が、趣味のソシアルダンスの集いで、うっぷん晴らしをするかも知れない。職場の鬼も、趣味の場ではニコニコしてるのだろう。
怖いのは、与えられたに過ぎない「役割」がその人、本人になってしまうことだ。
鬼部長が職場を離れても、始終、しかっめ面をしているとしたら、仮面がこびりついてしまっている。
本来であれば、どんな場面であっても「自分」を全面に打ち出したいが、そうできない場合もある。
けれども、いつでも自分を見失いたくはない。
そんなとき、呟くことば。

一笑一若
一怒一老

自分の人生は、自分以外の誰のものでもない。悔いなき生き方をしたい。

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幕末のさる大名家の「御献立帳」

2011年06月04日 | 江戸の味
雄山閣「日本の食文化 十巻」で宮腰松子さんが興味深い研究を発表されている。
幕末のさる大名家の「御献立帳」という内容で、慶応二年、三河半原藩主・安部摂津守信発が江戸上屋敷で何を食べていたかの記録を集計したものである。
摂津守は、二万二百五十石取。大名としては小身であり、武士の家計が逼迫していた幕末の記録、という点を差し引いても、かなり質素である。
朝は一汁一菜、昼は汁なし二菜、夜は汁なし一菜が中心となっている。
具体的に見てみると
(朝)大根と油揚げの御汁、ごぼう(昼)くわいと焼き豆腐、厚焼き玉子わさび添え(夜)本海老鬼がら焼き、若鮎、御酒(二月一日)
などとあり、それなりに良さそうな気もするが、
(朝)里芋の御汁、こんにゃく(昼)うど、せん玉子(夜)平目、竹の子、御酒(二月十三日)
(朝)里芋の御汁、こんにゃく(昼)〆豆腐、くわい(夜)王余魚{カレイ}(二月二十四日)

などと更に質素な日も多い。
宮腰さんは、どのような食材が何回使われたかを丹念に集計されている。
それによると、1年間に魚類が368回、鶏や卵、加工食品が307回、野菜類が621回となっている。
朝昼夕のうち、一回は魚が出て、あとの二回は野菜と玉子などが出た計算になる。
魚のベスト5は、車海老(73)、まぐろ(35)、かれい(24)、芝海老(19)、たい(18)である(カッコ内は一年間で使用された回数)。
車海老や鯛、カレイなどはそれなりに高級っぽいが、まぐろは江戸時代は下賎な魚であったという説があっただけに、回数が多いのは意外だった。
大衆魚であるイワシはさすがに食卓に上っていないが、アジは8回食されている。高価な魚と言われたカツオは3回(4月、7月、10月)食べられている。
牛、豚はもちろん口にされず、肉類としては、鶏7回、カモ8回、シャモ16回が食べられたに過ぎない。
その分、玉子は使用量が多く180回。
野菜類としては、大根(104)、ごぼう(74)、長いも(53)、里芋(52)、サツマイモ(51)、くわい(51)、みつば(33)、ゆり(23)などの使用が目立つ。
逆に、にんじん(1)、きゅうり(5)、なす(8)、ねぎ(0)などの使用は少ない。
あと、面白いのは飲酒で、昼に御酒がついたのは63回、夜は187回とある。
夜は二日に一遍の飲酒となっていたのは分かるが、昼も6日に一回くらいは飲酒していたことになる。
あと、精進日というのが月に何回かあって、この日は魚や肉類は食べられなくなる。

では、ハレの日の食卓はどうであったか。
11月19日の誕生日の昼食の記録がある。

1.(御汁)   アオサ入り御汁
2.(御猪口)  貝柱、海苔
3.(御平)   せり、はまぐり、長いも、麩、しいたけ
4.(御香物)  御香物
5.(二の汁)  さよりとみつばのお吸い物
6.(御八寸)  御刺身
7.(その他)  御赤飯、御銚子


とあり、それなりに豪華である。

しかし、豪華なのはごく一部の日だけであって、残りの日は現代の感覚からすると、驚くほど質素であった。

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戦火のナージャ

2011年06月02日 | 映画レビュー
ロシアのニキータ・ミハルコフ監督・主演の「戦火のナージャ」を観た。
冒頭の収容所の場面、巧みなカメラワークにより映画に惹き付けられる。
しかし、次のスターリンが出てくる場面になると、何が何だか分からなくなる。
このモヤモヤ感は、映画最後まで、ずっとつきまとうことになるのだが、とにかくストーリーが分かりにくい。
それもそのはずで、この映画は「太陽に灼かれて」の続編で、前編を観ていることを前提に作られているようだ。
主人公のコトフ大佐の境遇も全く説明されることなく進められていくし、ストーリーは分かりにくい、というよりも、全く分からない、といった方が近い。

配給会社は「お父さん生きていますか?」のコピーとともに、「スターリン大粛正から、第二次大戦へ。激動の時代、広大なロシアの草原を、ナージャは生き別れた父を捜す旅に出る」と案内しているが、このコピーを期待して映画を観ると、肩透かしを食う。かなり、配給会社も苦しかったのだと思う。

次々にエピソードが挿入されて、ちっともナージャが父探しの旅の場面が描かれない。
「早く探せよ。時間がなくなるぞ」と観ているこちらがハラハラするほどである。
そんな中、途中から気が付いたのであるが、この映画は父親探しという大筋を借りて、戦争中に起こる理不尽な事柄を描いているのだと思った。悲惨なエピソードも監督独自のユーモアセンスを交えて描かれる。
2時間30分の長編で、ストーリーが分からないのに、退屈せずに観られたのは、この映画がメインストーリーよりも、数々の短いエピソードから成り立っているからである。
赤十字の船に向かって戦闘機から大便を落とそうとするパイロットとか、身長180cm以上の役に立たないロシアエリート集団だとか、笑ってしまう。
ストーリーに関して言えば、実の娘を出演させるために、父親探しという粗筋を作ったに過ぎないとすら思える。

とにかく、この映画は「太陽に灼かれて」を観ていないことには、話にならない。「戦火のナージャ」は3部作の真ん中ということだが、前作が16年前。一体、映画が完結するには何年かかることやら。


オススメ度 ★★(満点は★5つ)
*前作を観ていると評価はかなり違うでしょう。



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