木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

銭湯と目黒雅叙園

2015年04月29日 | 昭和のはなし
昭和初期の頃、銭湯の脱衣所では、多くの女性が忙しく働いていたと言う。
数が多かったのは、「板の間稼ぎ」=衣服泥棒を防ぐ目的が大きかった。

この女性たちは、新潟出身者が多かった。
東京でイロハ風呂と呼ばれる四十七軒もの銭湯を経営していた新潟出身者の細川力蔵が、同郷者を雇ったからだ。
細川の経営する銭湯は、玄関から脱衣所に至るまで、天井に豪華な花鳥画を飾ってあった。
働く若い娘の愛嬌と、設備の豪華さで、はやりに流行ったという。
なかには、三十六代横綱になった羽黒岩政司なども、新潟出身であり、銭湯で働いていたことがあった。
同郷者を雇う細川式経営方法は、この頃流行となり、群馬出身者による蕎麦屋、愛知出身者によるパン屋などが次々と現れた。

自宅に風呂が設置されるようになったのは、昭和も下ってからの話であり、江戸の昔から昭和の中頃まで、銭湯はなかなか優れたビジネスであった。
たとえば、明治の時代、福沢諭吉も銭湯を経営していた。
福沢は「熱い湯は健康に悪い」といって、湯温をぬるめにしていたので、東京っ子の評判が悪かったという。
「マキをケチっている」と陰口を叩かれたが、案外、そのとおりなのかも知れない。

前述の細川はその後、目黒に一般客も入れる料亭を造る。
これが「目黒雅叙園」である、
その雅叙園も、今では外資系の経営となっている。

参考文献:骨董屋アルジの時代ばなし(翠石堂店主)

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武士の禄

2015年04月21日 | 江戸の話
尾張六十一万九千石とか、紀州五十五万五千石と称されるが、この「~石」というのは、実収入ではない。
いわば身分格式を表す公称のようなものだった。
水戸は三十五万石と称せれるが、天保年間に藤田東湖が記したところによると、歳入籾四十二万石とある。
このうち半分が行政費と藩主一族の生活に、残り半分が藩士の禄に充てられた。

百石取の藩士といっても、まるまる百石が取り分となるわけではなかった。
山川菊栄の「幕末の水戸藩」にその辺の事情が詳しく記載されている。

文公、武公の時代までは百石取りの禄は籾にて七十二俵渡さる。(略)烈公の時に至りてお借り上げと称し、四表引きにて六十八俵となりしが、一ヵ年限りの借り上げにもあらず、三年、五年と続くこともあり。この百石の取米をことごとく売却して代金二十両を得ること能わず。嘉永、安政の頃は金十両に籾四十俵内外の相場なれば、六十八俵にては二十両に足らず。この内より役金百石につき二分納むるなり。

禄高は、玄米支給と籾支給があった。
当然、玄米のほうが有利であるが、水戸藩は籾支給だった。
お借り上げとは、給料カットである。百石取といっても、なんだかんだと削られ、水戸では実際は年間の収入が二十両に満たない。
これでは生活が苦しくなるのも無理がない。
さらに、下記のような記述もある。

禄の支給には地方(じがた・知行取り)と物成りとあり、両方組み合わせたのもあった。知行取りは中以上の武士に多く、それらは一定の地域を知行所としてわりあてられ、そこから直接に年貢を禄として受け取る地頭であり、物成りは藩が農民からとりたてた御蔵米の中から扶持を受ける俸給生活者であった。


また、別のところでは、

(禄は)大身の場合は大部分は籾、一部分は現金、小身の場合は現金で支給された。お役料何石という米本位の計算でも、その年の米価に応じて金に換算し、現金で支給されるのが普通だっという。これをお切米とも、切符米ともいい、隔月に渡された。

千石取といえば、随分高給取のように思うが、「幕末の水戸」では千石取の家老・肥田和泉守政のエピソードを紹介している。
それによると、和泉守が冬の寒い日、「家の者に暖かいうどんをふるまってやってほしい」と執事に命じたところ、「いま、家中には五十文しかないので、とても無理です」という返事があったそうだ。
ついでに、あまりにも貧乏で、梅干ばかり食べていたので、梅が水戸に名物になったという。
本当かな、と思わぬでもないが、時代が下るにつれ、武士の生活が困窮していったのは間違いない。

参考文献:「幕末の水戸藩」山川菊栄(岩波書店)


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武士の言葉

2015年04月19日 | 言葉について
江戸時代は、身分社会であったから、当然、武士の言葉遣いに関しても、厳格な規定があった。
規定というよりも、常識、あるいは暗黙の了解といったもので、破る者はなかった。
この辺りに事情は鈴木丹士郎氏の「江戸の声」に詳しい。
本書は、矢田挿雲の「江戸から東京へ」を引用して、江戸留守居役の言葉遣いを説明している。
古参の留守居役は、新参者を「貴様」、同輩を「お手前様」、他藩主を「お家様」、自分の藩主を主人、旦那様と呼ぶとしている。
新参者が古参者を「お手前様」などと呼ぼうものなら、大目玉を食らったそうだ。
また、別のところでは、家中の武士の二人称は「貴殿」、一人称は「身ども」が代表的だと書いている。
「わたくし」「それがし」なども使われるが、固い言葉であり、「拙者」も同様に改まった言葉である。
文尾も呼応しており、人称が「おれ」となると文末には「だ」や「じゃ」が、「拙者」の場合は「候」「ござる」、「私」「身ども」「それがし」らでは、「だ」「じゃ」「候」「ござる」が混在しているとしている。
勝海舟はべらんめい口調で有名だったが、私的な場では、武士も町人もあまり言葉遣いは変わらなかったようである。
特に、遊郭などへ行って武士言葉を遣うのは、田舎者とされたようだ。
殿様を「旦那様」と呼び、自分を「おれ」と言うのでは、武士のイメージとは違うが、実態はそんなものだった。

参考資料
「武士の言葉」鈴木丹士郎(教育出版社)
「東海道膝栗毛」十返舎一九(学研)

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黄八丈は同心の定服だったか?

2015年04月12日 | 江戸の暮らし
どこぞのホームページを見ていたら、町廻同心の定服が「羽織の下に黄八丈」という表現があって引っかかった。
さっそく、手元の「江戸町奉行所辞典」を引いてみる。

定服としては黒の紋付羽織に白衣帯刀である。
白衣とは白い着物のことではなく熨斗目以外の着物の着流しをいうのである。
廻方同心あたりになると、竜紋の裏のついた三つ紋付の黒羽織を、俗にいう巻羽織といって裾を内側にめくり上げて端を帯に鋏み、現在の茶羽織のように短く着るのである。これは活動によいし、粋に見える。
夏は黒の絽か紗の羽織をつける。下は格子か縞の着流しで、帯は下のほうにしめ、懐中には懐紙、財布、十手を入れてふくらまし、身幅は女幅にして狭くし裾を割れやすくしてある。颯爽としたスタイルで足さばきも良く雪駄をはいて歩く。

とあり、羽織の下の着物は定めがないと分かる。

天保年間に発刊された「守貞謾考」によると、八丈縞は、

今世、男用は武士、医師等稀にこれを着すなり。御殿女中、上輩の褻服、下輩は晴服に着すこと専らなり。

とある。つまり、男は滅多に着ず、女性は比較的身分の高いものは勤め着に、庶民は晴れ着にしていた。
黄八丈は染色に手間が掛かり、かなり高価であった。
粋を自負する定町廻りの同心が着たかもしれないが、黄八丈が定服であったという確かな記述には行き着かなった。

医者が黄八丈を着たのは、黄色が不浄の色だからであり、定町廻りも、それに倣ったという説もあるが、真偽は分からない。


八丈は、黄色の黄八丈が有名であったが、茶色や黒色の八丈もある。
また、幕末から明治に掛けて、八丈の人気が上がると、八丈島だけでは生産が間に合わず、他の地域でも作られるようになったため、八丈島で作られたものを特に「本場八丈」といって区別したという。
いま、インターネットでみても「本場八丈」は反物で三〇万円以上する高級品だ。





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