木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

一万石大名の給料

2014年11月02日 | 江戸の話
武士は九千九百九十九石までは旗本・御家人であるが、ここに一石増えて、万石取となると、大名となる。
大名は旗本とはあらゆる規定、待遇が違ってくる。
一万石級の大名(五万石以下の大名を小大名と呼ぶことも多かった)の暮らし向きはどうだったのだろう。

武士には軍役といって禄高に応じて兵力を維持しなければならなかった。
一万石の大名だと軍役は二百二十五人。平時でも二百名くらいの人員が必要であった。
会社にたとえるなら、社員二百名、アルバイト二十五名といったところか。

石高が収入だが、一万石取といっても全てを得られる訳ではない。
これは領地での生産量であり、四公六民とすると、収入は四千石。

重役に当たる家老級の給料がだいたい二百石。一万石クラスの家だと家老の数は三名くらい。合計で六百石。
江戸藩邸と領地の費用は石高の十分の一程度が割り当てられ、比率は江戸七:国許三程度。
江戸二千八百石、領地千二百石。
殿さまの給料は収入の十分の一を欠け、三百五十石くらいである。

米価を用いた貨幣価値は江戸前期と後期では大きく違うが、仮に一石=十万円とすると、

総収入     4億円


江戸藩邸諸費用 2,800万円
領地諸費用   1,200万円

藩主の給料   3,500万円
重役の給料   6,000万円
藩士の給料 2億6,500万円

藩士の給料は単純に二百名で頭割りすると、年間一人あたり132.5万円にしかならない。
このため、藩士の数を減らす諸藩も多く、幕府に定められた軍役数を確保していた小藩は少なかった。

三河国・奥殿藩(一万六千石)の藩士数を見ると、二百四人とある。
家禄から見ると、兵役数(225名)より少ないが、この数はかなり真っ当だといえる。

大名の年俸3,500万円は多いようにも思うが、様々な経費計上が認められている現代企業とは違い、ポケットマネーを出さねばならなかった場合も多かったであろうし、手放しで多いとは言えない。

参考資料:江戸幕府役職集成(雄山閣)笹間良彦
     数字で読むおもしろ日本史(日本文芸社)淡野史良

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直訴は死罪になったのか?

2014年11月01日 | 江戸の暮らし
一揆や直訴と聞くと、佐倉惣五郎に代表される義民伝説を連想する人も多いはずだ。
直訴を行うと、陳情者は必ず磔獄門に処せられたかのようなイメージである。

しかし、そのイメージは正しくはない。
江戸時代では驚くほどの数の一揆や直訴が行われていた。
それらの指導者で処分されなかった者は、処分された者よりずっと多いのである。

百姓一揆に対する処置が明文化されたのは、吉宗の治世下、寛保元年(1741年)が初めてである。

頭取死罪、名主重き追放、組頭田畑取上所払、総百姓村高に応じ過料

と厳しいものであるが、厳密に守られなかったようである。事実、一揆はこの規定ができた以降も減るどころか、増える一方だった。
しかも、この取り決めは天領(幕府直轄地)に留まるものであり、各藩内の領地の一揆まではカバーしていなかった。

「百姓と胡麻の油は絞るほど出るものなり」
と暴言を吐いたのは元文二年(1737年)勘定奉行に就任した神尾春央であり、彼は強硬に年貢増税策を推進しようとし、ある程度の成功を納めたが、農民も黙ってはいなかった。
たとえば、畿内の天領領民は年貢未進を武器に、減免の訴願を続けた。
訴願は代官所だけに留まらず、大坂町奉行、京都所司代、京都東町奉行、江戸勘定奉行、京都目付、朝廷の内大臣とあらゆるところに行い、二万人の百姓が京に集結した。
その結果、延享三年(1746年)には、妥協せざるを得なくなる。
享保以降、年貢増税政策を推進してきた幕府であったが、これ以降は大規模な年貢増税はできなかった。

訴願は今で言う訴訟のようなもので、禁止はされていなかった。
また一揆の規定もあいまいで、強訴の目的で集まったとしても取り締まりの対象とならない場合も多かった。
訴えは、
合法的訴願 → 弾圧・無視 → 領主への訴願(越訴) → 弾圧・無視 → 幕府への越訴
といった過程を経るケースが多かったが、幕府は農民から訴え出られると、意外なほどしっかりと調査を行った。
その結果、改易に処せられる領主もおり、場合によっては切腹を申しつけられる者もいた。

幕府は明和三年(1766年)から徒党禁止令を頻発するようになるが、この禁止令によると百姓一揆とは「徒党・強訴・逃散」と規定した。明和八年(1771年)五月には処罰細則も定められ、一揆鎮圧に鉄砲の使用が認可された。

しかし、百姓一揆は打ちこわしへと闘争形態を過激化して行き、減ることはなかった。
参加者も百姓だけでなく、町人、商人も加わるようになり、身分的差異が障害とならなくなっていた。

武士の経済的な危機状況が深刻化していくと、藩主と家臣団は経営者対被雇用者としての対立図式を深めることになった。
その中で、年貢の税率をどうするかという政策を巡っては多くの藩の内部で対立を招いた。
この対立は諸藩と幕府の対立にも繋がっていったため、百姓一揆には誰もが神経をとがらせた。

百姓一揆は初期は減免や不正代官の粛正を求めていたが、後期には幕府の政策そのものを否定する動きが出てきた。
たとえば、水野忠邦の「三方領地替」である。
幕府は、庄内、長岡、川越の三藩に領地替を命じたが、各藩の百姓は幕閣への度々の駕篭訴、隣接諸大名への訴願などを行い、その混然とした様は「天下の大乱と相申すべき」と表現されたものだった。
領主も訴願を抑制できず、次第に上地令反対へと向かわせていく。
その結果、幕府内部でも分裂が起き、ついに水野忠邦は罷免される。
民衆の声を力で抑えるつけるには、限界が来ていたのである。

参考資料:一揆の歴史(東京大学出版会)
     百姓一揆とその作法(吉川弘文館)保坂智



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