木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

高橋東岡と伊能忠敬

2013年04月16日 | 江戸の人物
伊能忠敬。
日本測量史に燦然たる輝きを残した人物であり、現在も知名度は極めて高い。
高橋東岡。
本名、高橋作左衛門至時。大坂奉行所の同心の息子として生まれ、後に暦学者として第一の地位を占めるようになった人物である。
この東岡の下に忠敬が弟子入りしたのは寛政七年(一七九五年)。
歴史に詳しい方ならば、忠敬はかなり年下の師匠に弟子入りしたと覚えておられるかも知れない。その師匠が東岡である。
東岡の息子は高橋景保という。
景保は、シーボルトに御禁制の日本地図を渡した咎により、牢獄に繋がれ獄中死した。いわゆるシーボルト事件であるが、この事件で記憶されている方もおられるだろう。
東岡の名は忘れられ、息子の景保は本人の意思とは無関係な場所で歴史に名を刻んでしまった。
歴史的な観点からは、正確な日本地図を作った忠敬は偉大であり、寛政暦を作った東岡の名は後世にあまり伝えられていない。

忠敬が江戸にいる景保の下に弟子入りしたのが五一歳のとき。景保はまだ三十二歳に過ぎない。二十歳近く年の差ががあったが、忠敬は全く気にしなかった。
もともと平均寿命が今よりも短い江戸時代にあって、五十歳から新しいことを始めようと決意するのは容易なことではなかった。
容易でない事柄を成そうと決意した忠敬は年齢とか世間体などはどうでもいいことだったのだろう。

忠敬は十七年の永きに亘り、日本国中を測量し、詳細な日本国地図を完成させる。
その際、幕府に忠敬の登用を強く推薦したのが東岡である。
測量によって学者としての忠敬の地位は不動のものとなったが、その地位は東岡の働きかけなしには築けなかった。

東岡は忠敬よりもかなり年下であったのに、忠敬より早世した。
東岡が亡くなってから、忠敬は江戸にいれば毎日、東岡の墓である源空寺に足を向け、地方にあっては江戸の方角に礼拝するのであった。
そして、最期は遺言により、東岡の墓の隣に埋葬して貰ったのである。
忠敬の考え方は、江戸時代の封建思想に基づいた抹香臭い考え方なのであろうか。

スポーツ界を見ていると思うのだが、現代では師弟関係はビジネスになってしまった。
師匠は見込のない弟子はすぐに見捨てるし、弟子も師匠を見限る。
もちろん、そうでない関係もあるのだろうが、日本の師弟関係は浪花節的な考えから、欧米流の契約社会的な考えに移行しているように思う。
師は弟子の能力を伸ばすことを約束し代償を得る。
弟子は約束が契約通り履行されているかどうか確認し、不履行の場合は、契約を破棄する。
忠敬は自らの努力もあり、師匠の東岡の実績を抜いた。
契約社会的な発想であれば、契約は履行されたということになる。
それは、なんと冷たい考え方であろう。

恩という言葉が封建的で古臭い感じがするのは否めない。
だが恩は契約の中で生まれるものではない。新しいとか、古い、といった観点で見るのではなく、日本人に備わった美徳であると考えるほうがいいのではないだろうか。
与えられた恩は忘れず、自分が受けた恩を誰か別の者に返していく。
恩とは他人だけのものではなく、自分自身のものでもある。
与えられた恩を回していくと、運気も向上するはずだ。

東岡にまつわるエピソードとして次のようなものがある。
東岡の家は貧しく、季節になると庭になった柿を売って家計の足しとした。
夜中になると悪ガキたちが来て、その柿の実を盗んで行ってしまう。
東岡は屋根に登り、天体を観測しているのだが、悪ガキが柿を盗みに来ないか、再三にわたり庭をも気にしていなければならないので、気が散って仕方なかった。
ある日、外出から帰ってくると、柿の木が根本からばっさりと切られている。
妻に問うと「切ったのは私です。あなたは屋根に登っても空と下を交互に気にしておられます。そんな学問の邪魔をする木は、切ってしまったのです」
と答える。
東岡は妻の意気に感謝し、その後、ますます精進して、学者としての地位を築いた。
何か、いい話だ。

師を敬い続けた忠敬も、東岡も人間的な魅力に満ちていた人物だったに違いない。

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ハーレイ・ジョエル・オスメントの近況

2013年04月10日 | 映画レビュー
「ペイフォワード」(2000年・アメリカ)という映画があった。
同じころ「K-パックス 光の旅人」という好きな映画があって、主演男優であるケビン・スペイシー繋がりで観たのが「ペイフォワード」だった。
両方ともヒューマンな優れた映画で涙なしには観られない。
「ペイフォワード」の子役として光る演技をしていたのが、ハーレイ・ジョエル・オスメントだ。
ハーレイは有名な「フォレスト・ガンプ」のラストで、トム・ハンクスの子供を演じて、一躍注目を浴びた。
「ペイフォワード」の後も「AI」などに出演して、名演技を見せた。
しかし、名子役の常として成人するにつれ、活躍の場を失い、2006年には飲酒運転、続いてマリファナ所持で保護観察処分に処せられている。
一時はかなりふとったようで、「あの人は今?」状態になっていたが、本人はニューヨーク大学芸術学部を2010年に卒業。
声優を経て、再び映画界にも復活している。
チョイ役が多かったようだが、今年はアメリカのテレビで人気だった「Sex Ed」の映画版にも重要な役(童貞の教師役)で出演する。
大学での勉強が役に立ったようだ。

子役がドロップアウトして行くのを自業自得と捉える人もいるだろうが、周囲の大人の責任も大きい。
子役の人気というのは、努力よりも天性のものだ。才能かというとそうでもない。美人、美男子の基準とも違う、子供独特の可愛らしさが光る瞬間、人気を博す。
時が経てば子供は大人になる。子供としての可愛らしさも失われていく。それは当然のことなのに、人気もなくなっていくのでは、何か大人になるのが悪いことのように思ったとしても不思議ではない。
子役として成功した人間は少ないが、古くはシャーリー・テンプル、リズ・テーラー、少し最近だとジュディ・フォスター、あるいは変わり種として子役から監督に転じたロン・ハワードらがいる。成人後も成功した子役を見ると、本人の努力はもちろんだが、運というものの不思議さを感ぜずにはいられない。

ハーレイも間違いを人生の教訓として、味わい深い俳優になってもらいたい。
今日、4月10日はハーレイの25歳の誕生日。


2012年の「Sassy Pants」でのハーレイ

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ポンペの晩年

2013年04月05日 | 江戸の人物
ポンペは日本の医学界にとっての大恩人である。
ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトという長い名前のポンペは幕末、幕府から長崎に招聘されたオランダ人である。

医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。

長崎大学医学部の碑板にも残されているポンペがこのような発言をしたのは、彼がまだ30歳代前半だった頃である。
残っている写真を見ると、随分貫禄があるようで、とても30歳そこそことは思えない。
日本に来た頃のポンペの医師としてのキャリアもそれほどではなかったと考えられるが、頑固爺のような強硬さをもって、単身でポンペは日本人たちと渡り歩いている。

その後、ポンペはオランダに帰国し、結婚。無事子供も生まれている。
榎本武揚は箱館に籠ってまで政府軍に一矢報いようとした人物であるが、赦されて明治七年当時はロシアとの国交に当たっていた。
その頃、ポンペが再び活躍している。

かれ(榎本武揚)は、ポンペが外国の政治情勢に精通しているのを知り、旧知の間柄であることからロシアに招いた。
ポンペは、榎本の依頼でロシア側の動きを探って樺太・千島交換条約の締結に貢献し、その功によって日本政府から勲四等旭日小授章を贈られた。


ここまでは非常に順調であったが、晩年は悲惨である。

その頃(日本から勲章を貰った頃)から、かれは医学の教育研究からはなれて牡蠣の養殖事業に専念するようになり、ベルギーとオランダの間を往き来した。
事業は順調であったが、晩年に至って失敗し、多額の負債を負って親類縁者に迷惑をかけ、非難された。
一九〇八年(明治四十一年)十月三日、かれは貧困の中でブリュッセルで死亡した。七十九歳であった。


ここまで見てくると、長崎大学の碑にあるポンペの言葉というのも若輩者の青臭い戯言であるような気もしてくるのである。
よく言われるように、明治維新の頃の主役級は驚くほど若い連中であった。
海外から招かれた講師陣も若かった。
ポンペにどのような心理的変化があったのかは知らない。
人生の達観者のように思えたポンペが人生の最期において、借金まみれというあまりにも俗人じみた環境に置かれてしまったのは、人生の怖さを感じる。

参考:暁の旅人(吉村昭)講談社

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