木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

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2008年12月31日 | 日常雑感
平成二十年もあと僅かとなった。
今年は暮れ近くになって暗いニュースが増え、全体に重苦しい雰囲気となった一年であった。
来る年がどうなるのかは、分からないが、明るい一年になることを祈願せずにはいられない。
今年一年、お世話になった数多くの方々に感謝の念を込め、今年もありがとうございました、の一言を置かせていただきたい。

ありがとうございました

毛利元就・三本の矢と虫けらたち

2008年12月21日 | 戦国時代
毛利元就が三本の矢を示し、一本では折れやすい矢も三本束ねると折れにくい、だから、兄弟も力を合わせるように、と子供たちを諭した話は有名である。
実際に元就が、子供たちを前にしてこのようなデモンストレーションをしたとは思いにくいのだが、この話の素となるような書を元就は残している。
山口県の毛利博物館に残されている「毛利元就三子教訓状」と呼ばれているものである。
この書は、弘治三年(1575年)に表されたもので、元就をして「これまで山々申したいと思っていたことは、これで言い終わった」と言わしめるものであった。
元就と言うと、勇将のイメージがあるが、この書を読むと、まず文頭で「この書状の中にも誤字もしくは『てにをは』の誤りもあろうからご推量願いたい」と実に細かい断りを入れていることに驚かされる。
また、「元就は意外にもこれまで多数の人命を失ったから、この因果は必ずあると心ひそかに痛く悲しく思っている」などと書き、別の項では、「朝日を拝んで念仏を十遍づつ唱える」、「元就は不思議に思うほど、厳島神社を大切に思う心があって、長年の間信仰してきている」と信心のほどをのぞかせている。
三本の矢に準じたことはしばしば述べられているが、「事新しく申すまでもなく、三人の間柄が少しでも疎隔することがあれば、三家は必ず共に滅亡するものと思われたい」と書かれた辺りに元就の気持ちが凝縮している。
三矢とは、隆元(毛利)、隆景(小早川)、元春(吉川)の三兄弟であるが、元就には、この三人のほかにも、六人、全員で九人の子供がいた。
この文書が書かれた弘治三年には、まだ元治、元康、秀包の三人は生まれていなかったので、この当時は、六人兄弟である。
元就は、三兄弟以下の三人についても、ちゃんと書いている。
以下に記す。
「ただいま元就には虫けらにも似た分別のない庶子がいる。すなわち七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶(もととも)などである。これらの内で、将来知能も完全に人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ何方の遠境になりとも封ぜられたい。しかし大抵は愚鈍で無力の者であろうから、左様な者に対しては如何様に処置をとられても、それは勝手であって何の異存はない」
あまりにひどいような……。
原文で見ても「唯今虫けらのやうなる子ともとも候」と間違いなく、虫けらなどと言われている。
人情としては、虫けらと呼ばれた庶子がどう成長したか調べてみたくなる。

元清 ・・・ 備中猿掛城・三村氏の一族穂井田元資の養子となり、数々の武功を挙げ、広島城の構築にも活躍。享年四十七歳。
元秋 ・・・ 月山富田城(島根県安来)の城主となる。享年三十四歳。
元倶 ・・・ 石見国出羽元祐の養子となるも、十七歳で夭逝。

ちなみに、三兄弟の享年を見てみると、
隆元(六十四歳)、隆景(六十五歳)、元春(五十七歳)と「虫けら」と呼ばれた庶子よりも高齢である。
しかし、一番高齢まで生きたのは、元就で、七十五歳の歳に没している。
いずれにせよ、元就の実子たちは、関ケ原の戦いの翌年までには全員が没し、その後は初代長州藩主となった元輝ら、元就の孫たちの時代となる。


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近藤勇の首と団子~法蔵寺(愛知県岡崎)

2008年12月20日 | 江戸の幕末
近藤勇が板橋の刑場の露と散ったのは、慶応四年(1868年)の春。斬首刑により切り取られたその首は塩漬けにされ京都三条大橋にて晒された。
この斬首というのは、ただ単に犯罪者を死に至らしめるだけでなく、死んだ後も胴体と頭を別々にされているため成仏できない、という仏教的な恐怖を与えるためであった。死体も打ち捨てで、遺族が引き取ることもできない。
大物政治犯となった近藤勇の場合も遺体は、埋められていたものを有志が掘り起こしたとされているが、真偽のほどは分からない。
晒された首は、後日、行方不明になったと言う。首の場合は、遺体と違って目立った所に置かれていた訳だし、セキュリティシステムもない時代の話であるから、夜陰に紛れて奪取することは可能だったのであろう。
しかし、首を奪っても朝敵となった新選組幹部の首を堂々とは葬れない。秘密裏に行われたことであるから、近藤勇の体、あるいは、首が最終的にどこに埋められているかについては、分からない。
そのため現在、近藤の墓ないしは首塚と呼ばれているものは、国内に数カ所ある。
今回、私が訪ねた岡崎市の法蔵寺もその一つである。
寺の看板にある由来を要約する。
三条大橋に晒されていた近藤の首を奪取した同志は、かつて近藤が敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に供養してくれるように申し入れる。和尚は、39代目の貫主になることが決まっていた法蔵寺に近藤の首を密かに持ち込み、塚を建立した。
真偽については、十分な確証がないため触れない。
ただ、この寺はさすがに岡崎だけあって、家康ゆかりの寺でもある。
家康は幼少の頃、この寺で学問を学んだこともあると言い、門前には、家康手植えの松(今の松は後に植えられたもの)がある。
徳川ゆかりの寺に、近藤の首伝説が残るというのも、何かの因縁である。
この寺は、旧東海道筋にあり、門前では昭和の初め頃まで、法蔵寺団子なる名物が売られていた。
一本の串に指で平たく潰した五つの団子を炙り、溜り醤油で味付けしたものだと言う。
炙られた団子のいい匂いに誘われて、大いに売れた。盛時には遠方からわざわざ買い求める人もいるほど人気を呼んだらしい。
近藤勇の首塚説が浮上したのは、昭和30年代であるので、それまでは、法蔵寺は、団子で有名な寺だったということになる。

寺内にある近藤勇の胸像


寺の全景

法蔵寺の地図

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近藤勇の写真

2008年12月15日 | 江戸の写真
幕末から明治にかけては、目覚しい技術革新が遂げられた時期であるが、写真黎明期においても例外ではなかった。以前に書いた鵜飼玉川を筆頭に東では下岡蓮杖、西では上野彦馬の二人がプロカメラマンとして営業を開始しているが、その後、続々とプロのカメラマンが誕生している。
写真が伝わった当初は「魂が抜かれる」と言われて日本人に忌避され、日本に来た外国人が主な客であった写真であるが、次第に日本人の中にも浸透していく。
この頃に立志伝中の人物も数多く写真を撮影しているが、新撰組局長近藤勇もその中の一人であった。
当時の写真は誰が撮影したか、よく分からないものが多い。例えば、坂本龍馬のように、上野彦馬の下で修行中の井上俊三が撮影した、などとはっきりと言明できるものもあるが、逆に、よく分からない写真のほうが多い。
近藤勇の写真も同様である。
インターネットを検索しても、百家争鳴に近い状態で、どの説が正しいのか、混沌としている。中には、根拠なく断定しきっている記事もある。
そんな折、四ツ谷見附の「春廼舎(はるのや)」さんで、古写真研究家、森重和雄さんの講演があることを知り、喜び勇んで拝聴させて頂いた。
勉強不足の私にはかなり分からない点が多かったのだが、実証主義の氏の研究態度には深く感心させられた。
森重氏は、専門の研究家ではないが、とにかく「自分の目で見る」ということを大事にしている。
幕末の勇士の写真は、後にブロマイド的に流通したこともあり、構図的な切り取り、いわゆるトリミングが行われたケースも多かった。古写真研究家は、背景に使われる小道具、敷物、椅子などに着目するという。椅子の形、ときには、椅子についた傷などという「点」を手繰って、この写真とこの写真は同じ場所で撮影されたという「線」に結び付けていく。
その時、このトリミングは邪魔でしかないと森重氏は語る。
だが、トリミングが行われている写真はオリジナルではないことが分かる。
近藤勇の写真も、親族である佐藤氏の家に伝わる写真はオリジナルではないと言う。この辺りは、実際に現物を確認した氏の話であるから、説得力がある。
結論から先に述べると、近藤勇の写真は、「京都の堀與平衛の写真館で慶応二年に撮影されたもの」が森重氏の結論である。
この根拠については、敷物の柄が堀の写場のものと同じであるとしている。
氏は、この根拠だけではなく、撮影時期の特定もされている。新撰組の隊員川村三郎の子孫の方と面談して、「近藤勇は大与という写場で撮影した」と伝えられていることもつきとめている。
「大与」とは、堀の写真館であるということで、裏付けも確認できたとしている。
今の世の中は便利になって、インターネットで全てが分かる、と思っている人も多いと思うが、現地に行かないと分からない匂いがある。
実証主義ということを再考させられた一日であった。

春廼舎HP

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ペリー肖像画三態

2008年12月09日 | 江戸の幕末
名古屋のボストン美術館で、「ペリー&ハリス展」が開催されている。
マシュー・カルブレイス・ペリーが「黒船」を率いて浦賀にやって来たのは、嘉永六年(一八五三年)。軍艦サスケハナ号を擁した艦隊による軍事力を誇示し、翌年の安政元年には日米和親条約を締結させた。この「事件」ともいえる一件は、日本国内を激しく揺るがし、日本は攘夷から開国へ繋がる波に巻き込まれていく。
ペリー(Matthew・C・Perry)は、漢字を当てると「彼理」となるが、オランダ語読みに、「ペルリ」と表現された。「まつちうぺるり」、「マツラウペルリ」などとも呼ばれたが、「惣大将へろり」という呼び方になると、著しく迫力に欠ける。
この時、ペリーの肖像画も多く描かれた。日本には、写真がなかった時代でもあり、その肖像画は多くは想像で描かれた。
中にはペリーが見たら、怒り出しそうな絵もある。
端から見るのは、あまりにも面白いので下記にアップしてみました。
一番下にあるのがアナポリス海軍兵学校博物館に飾られているジェームズ・ボーグルという人が描いたペリー像だが、デフォルメがあるとしても、まったく同一人物だとは思えない。
ボストン美術館の「ペリー&ハリス展」は、今月の21日まで。観ていない方は、お急ぎを。
 → ボストン美術館HP



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堀江鍬次郎

2008年12月07日 | 江戸の写真
堀江鍬次郎。文政十三年(1831年)~慶応二年(1866年)。
幕末の津藩、藤堂高猷に仕えた百五十石取の武士である。
有造館の師、斉藤拙堂の推挙を受け、第二期長崎海軍伝習所生ともなっている。
その際に、知合ったのが、日本写真史上、下岡蓮杖と並び、最も有名な上野彦馬である。
写真史上の大きな足跡とすれば、鍬次郎は、藤堂高猷から百五十両もの大金を引き出し、写真機をイギリスから取り寄せた。
ダルメイヤという人が作ったダルメイヤB三類というレンズをつけたピカピカの写真機が届いたのは、注文してから半年後。この新しい写真機は、鍬次郎と彦馬の若い心をひどく昂揚させたであろう。
鍬次郎二十九歳、彦馬二十二歳。
安政の大獄の嵐が吹き荒れた安政六年から二年後の文久元年(一八六一年)のことである。
この後、彦馬は、高猷の要請もあって、江戸、津と鍬次郎と行動を共にする。
鍬三郎は、彦馬と共著で、「舎密(せいみ)局必携」という化学の本を著す。
文久二年の秋には、彦馬は長崎に帰っている。
彦馬はその後、写真家として華々しくサクセスストーリーを作っていく。
一方の鍬次郎は、どうであろうか。
鍬次郎は、江戸詰が長かったのだが、長崎遊学以後は、津にいることが多かった。
尊敬する斉藤拙堂の下、有造館でも教鞭を取ることが多く、また藩士の軍事的な教育にも当たった。
文久三年に起きた天誅組の変制圧にも参加している。
その後、福岡藩に養子に行った高猷の三男・黒田慶賛(よしすけ・後に長知と改名)の相談役として九州に渡る。
しかし、慶応二年、36歳という若さで夭逝している。

鍬次郎の死が急だったこともあり、津では早い時期に写真術が根付かなかったとされる。


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