木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

鵜飼玉川~日本初のプロカメラマン

2008年11月30日 | 江戸の写真
写真というのは不思議だ。
瞬きもできないくらいの短い時間、露光しただけで、画像が写ってしまう。
デジタルカメラなどは、さらに不思議だ。
「カメラ」という語自体は、「カメラ・オブスクラ」の略でラテン語で「暗い部屋」を意味すると言い、発明はアリストテレスの昔に遡る。もっとも、この「カメラ」はレンズを通じて写される光学的画像を楽しむだけで、画像の保存が利かなかった。
画像が保存できるようになるのは、ぐっと下って一八三九年のことである。この頃の写真は、「ダゲレオタイプ」と言って、紙ではなく、銀板に画像を写すものであった。
一八四八年(嘉永元年)には、日本に入ってきている。諸藩は、今で言うIT技術のように、写真技術をステイタスと捉えており、盛んに研究が重ねられた。
しかし、民間の人間のほうが熱心であった。
職業写真家の嚆矢は、鵜飼玉川(うかいぎょくせん)という人物である。玉川は、常陸府中藩士の第四男であったが、一八五九年(安政六年)、昨年締結された日米通商条約に基づき開港された横浜港に行った折、日本で初めて写場を持った若き写真家O・E・フリーマンから技術を習い、一八六一年(文久元年)には江戸の薬研堀に「影真堂」という写場を設ける。だが、この時、玉川は54歳となっており、一八六九年(明治二年)、玉川62歳の時に、写真から撤退している。直接の原因は、焼付けの不備から保存していた画像が消えてしまったことらしい。
玉川は、谷中墓地に眠っているが、その墓の横には写真塚が設けられている。
かつて、玉川の死後、彼が撮影した多くの写真がその塚に埋められたため、現在はっきりと玉川の写真だと言えるものは、数少ない。
写真業を引退してからは、もともと興味のあった書画骨董の世界に没頭したといい、谷文兆らとも交流があった。
上野彦馬、下岡蓮杖といった写真創世記のビッグネームに比べて、鵜飼玉川の名前はあまり知られていない。活動も僅か八年間であり、どのような弟子がいたかもはっきり知られていない。
だが、「日本初のプロカメラマン」という称号が玉川のものであることに変わりはない。

幕末Nippon 角川春樹事務所

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木村謙之介のメダル


ラーメンミックスうどん

2008年11月25日 | B級グルメ
私は大の麺好きであるが、時々、ラーメンにしようか、うどんにしようか、はたまた蕎麦にしようか迷うことがある。
同じような悩み(?)を持つことがある方もいると思うが、そのような人に朗報。
今日、私が食べたのは、「ラーメンミックスうどん」。
???・・・
と、思う人もいるだろうが、下にある写真がそのラーメンミックスうどんである。
なんと、このうどんには、ラーメンの麺が乗っている!
汁は、和風のもので、うどんの出汁なのだが、ラーメンにも合う。
食べる段になって、少し迷う。
胡椒と七味が並んでいるからである。
どちらをかけようか?
店の人に聞くと、両方掛ける人が多いとのこと。
そんな、無茶な。
さすがに、うどんと蕎麦というのはメニューになかったのだが、この店のHPを見てびっくり。
蕎麦とうどんの組み合わせも隠しメニューであるらしい。
お店の名前は「長命うどん」。チェーン店であるが、わたしが利用したのは名古屋市中村区の八田店である。
価格は、大盛りで450円とリーズナブル。
写真は、掻揚げ(100円)乗せだが、この掻揚げも小海老入りでおいしかった。

「長命うどん」八田店 名古屋市中村区並木町2-219 
052-412-3164

長命うどんHP

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水野忠邦③~奢侈禁制

2008年11月24日 | 江戸の人物
株仲間の解散は、一部の商人の特権を剥奪し、自由競争力を高めることによって物価の安定を図ろうとするものであった。
この大鉈が振るわれたのには、問屋仲間が生産地の商人などの仲間外商人たちに流通ルートを攪拌され、弱体化したという背景がある。弱まった力を回復しようと問屋仲間は、幕府の命に反しても、買占めや値待ちなどの物価騰貴となる行為を繰り返さざるを得なくなっていたのである。
さらに、忠邦は銭の公定歩合を引き上げて、物価の安定を狙う。金利の引き下げ、最低賃金の制定なども併せて法令化する一方、町民にはありとあらゆる奢侈禁制の足かせをはめた。
たとえば、女性の髪結い禁止や、縁側での将棋禁止(火事のおそれあり)、寄席の縮小、薬湯の禁止など、微に入り、細に亘るものであった。
収入源である年貢でも、幕府は苦戦している。
延享元年(1744年)には180万1855石であった年貢収納量は、天保七年には103万9970石にまで減少している。
これには、天保期が記録的な不作の年が多く、離農者も多かったことにも起因しているが、農民の積極的な抵抗力が強化されたことが最大の原因である。
経済市場の発展の前には農村も無関係ではなく、多くの情報も流れ込んできていた。
農村近郊での地場産業には、農業に従事しているよりも有利な賃金を得られる場も現れ、離農者も多く見られるようになった。また、在農者であっても米以外の作物を作ったり、内職により農産物以外の商品を作って販売を行う者も見られるようになった。年貢供出にあたっては各地での米の値段(石代)がそれぞれ制定されたから、農民の中には、自分の土地での石代よりも安い産地の米を購入し、その分を納入することも行われた。
この農民層の節税対策とも言える努力の成果あって、たとえば河内若江郡小若江村などでは、天保十三年の祖率は表向き70%という高率であったのに、実際は26.8%でしかなかった土地もある。
また、天保期は、慶応に続いて江戸時代でもっとも百姓一揆が多かった年でもある。一揆の内容もこれまでの強訴中心のものから、打毀しなどより過激なものに変化していた。
天保期に入ると、年貢の取り決めも幕府が一方的に通達し得るものではなくなっていたのである。
忠邦退陣の直接的なきっかけとなったのは、上知令である。
上知令とは、江戸、大坂十里四方を天領にするという案である。利害が複雑に絡むこの案には代地の問題や、地元住民たちの反対が多く、幕府にも強引に押し切れる威厳はなかった。
反対者の多さに驚いた将軍家慶により、この上知令は撤回させられ、忠邦も老中の座を追われることになる。
天保の改革は、時代錯誤で甘い現状認識の上に立脚したものだと捉えるような論調もしばしば見かける。
井関隆子という旗本夫人は、忠邦に対して次のような意見を述べている。

政治に関わる人は、いくら金銀を積み上げても、うまくはゆかない。人々を慈しむ心こそ大切であり、人を思いやる心があってはじめて、従うものである。
それなのに、上の御為といって、人々を苦しめ、世の騒ぎになるようなことを企てるのは、むしろ罪人ともいうべきである。この人はそれほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは、多くの人々の恨みによるものであろう。


この文が旗本、いわゆる身内によって記されたのは注目に値する。「人々を慈しむ心」がある政治家などというのは、近年も含めていた試しがないと思うのだが、忠邦の政策には、強硬論ばかりで暖かさの欠片もないのも事実である。剛ばかりで柔がないと、息が詰る。これは、忠邦自身の生き方だったのかも知れない。
ただ、「我には性欲を律する克己心がある」と自慢した松平定信よりも、何人もの妾を囲っていた忠邦のほうが人間くさいような気がする。
また、忠邦は緊張すると吃音する癖があり、将軍に謁見する際も、人を通じて、自分の癖を事前に知らせている。小心なところのある忠邦としては、落ち目になった途端、手のひらを返すように寝返っていった人間を見て、随分と落ち込んだのではないだろうか。
方法論はどうあれ、幕末近くなり信念を持った武士が少なくなった中、忠邦が出色の人物であったことには、間違いがない。

忠邦は、一度、老中を罷免された後、翌年に再び老中に返り咲いている。
忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。
この頃の忠邦は開国派になっていたと言うが、真偽のほどは分からない。

水野忠邦 北島正元 吉川弘文館
日本の歴史18 北島正元 中央公論社
旗本夫人が見た江戸のたそがれ 深沢秋男 文春新書
江戸時代年鑑 遠藤元男 雄山閣

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水野忠邦②~十組問屋の解散

2008年11月23日 | 人物伝
徳川の江戸時代は独裁政治だったと思っている人もいるかも知れないが、幕府の力は独裁を行えるほどは強固でなかった。武家社会においても藩の移封や改易は幕府が自由自在に行えるものではなく、他人が納得しうる理由付けが必要であった。商人に対して行われた棄捐令の類は問答無用の踏み倒しであるが、貸すほうにしても、そのリスクはある程度計算済みであっただろう。
支配者層と被支配者層という二元的な捉え方をするならば、この両者の利害はまったく対立する。戦国時代であるならばともかく、泰平の世が続いた江戸時代においては、商人にとって支配者層である武士は利用すべき存在に成り下がっていた。
支配者層というプライドがあるから、武士層も商人の力を肌で感じていても、その力を積極的に評価することができなかった。
水野忠邦にしても、同様である。
忠邦は、分限を越えた贅沢、奢侈が風俗の廃頽、物価の騰貴など諸悪の根源であるという信念を持っていた。
天保期に入ると、地震や火山の噴火などの天災が相次いで起きたが、とりわけ天保四年から続いた農産物の不作は、大規模な飢饉を招き、物価上昇を引き起こした。更には天保八年に大坂で起きた大塩平八郎の乱が、物価上昇に拍車を掛けた。
天保十二年十二月、忠邦は水戸徳川斉昭の意見を取り入れて、江戸の日用品を扱う株仲間である十組問屋を解散させた。
それまでも、忠邦は再三にわたって、諸価格の値下げを商人に命じていたが、商人たちが要請に耳を応じなかったためである。
幕府としても株仲間から入る冥加金には未練が残ったが、背に腹は代えられなかったのである。
(以下次回)
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水野忠邦①~青雲之要路

2008年11月22日 | 人物伝
水野忠邦の評判は芳しいものではない。
明治の時代まで30余年となった天保において、最後の悪あがきともとれるような天保の改革を行い、幕藩体制の立て直しに尽力したのが忠邦である。
唐津から浜松へ転封し、中央界への強い憧れと野望を抱く忠邦は、自ら「青雲之要路」と名付けたサクセスストーリーを組み立て、夢を着々と現実のものとしていく。その様子からは、実務や根回しにも長けた能吏としての一面を覗くことができる。豊穣の地唐津から、浜松へ移る時の藩士達への説得、老中になるための人脈の選定、賄賂の使い方など、善し悪しはともかく、その行動は的を射たものである。
忠邦が藩主として、もっとも力を入れたのは幕藩体制の立て直しであり、そのために再編による強化を狙った。この時、忠邦は収入源である対農民政策に最も重きを置き、更には質素倹約による風紀粛正を図ろうとした。しかし、生産能力にも倹約にも限界がある。その分は富商からの借財によって賄ったが、しばしば、浜松藩はこの借金を踏み倒した。商人の犠牲により、藩政建て直しを行おうとする政策は表層的なもので、長続きはしない。
商人にも現代のような税金を掛け、奪い取るのではなく、合理的に搾取すればいいのではなかったか、と思うのだが、経済の動きは複雑で支配階級である武士にはよく理解できなかった。
たとえば、浜松では、綿が特産物であり、忠邦としては、綿を専売制にしたかったのであるが、実際は専売制はとれなかった。これは、経済市場が多様化・自由化してきて、為政者の力を以てしても統制不能な状況に陥っていたことを示す。市場規模が大きくなればなるほど、この傾向は強くなる。地方ですら、このような状況であるから、幕府においては、商人を思い通りに操ろうとするのは、至難の業であった。
これらの関係は、かつては政府統制であった米の流通制度にも似ている。
米は、生産者から農協(あるいは商人系集荷)を通じ、経済連(あるいは集荷組合)を通して、さらに全農(あるいは全集連)を経て入札され、登録卸売業者から小売業者へ販売されるのが正規のルートであった。
消費者としては、米は米屋さんから買うしかなかったのであるが、今では食管法が変わり、生産者からも直接買うことができるし、ドラッグストアやガソリンスタンドでも米を販売している。
これも、経済市場の変化が、ボトムアップの形で法律を変更させた一例である。
これと同じことが、江戸の中期以降は、頻繁に発生していた。

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水野忠辰

2008年11月19日 | 人物伝
元文二年(1737年、将軍は八代・徳川吉宗)、岡崎藩に若き藩主が誕生した。水野忠辰(ただとき)14歳。
彼は学問好きで、経済難にあえぐ藩政を儒教の教えにのっとって、改革しようとした。
徹底した節約や人材登用などは、取り立てて目新しい政策ではなかったが、かといって机上の理想論ではなかった。
藩の現状をよく認識したうえでの、具体的かつ有為な案が多かった。忠辰は封建制度のもたらす悪弊が藩に広がり始めていたことを自覚し、積極的な対応策をとろうと画策する。
重臣たちが門閥を形成して、権力を集中しようと腐心しているのが藩政腐敗の原因の温床となっているとし、中級以下の武士であっても実力があれば取り立て、門閥政治に対抗しようとした。
養子制度なども中下級武士にも有利なように改定し、若い層の支持を得た。
また、一部の家老に対しても、処分を加え、先制攻撃に成功した。
しかし、その後の忠辰の運命は過酷である。
結託した家老軍のボイコットに逢い、藩政は立ち行かなくなった。
結局、家老たちの言いなりになるしかなく、せっかく中下級から登用した者たちも罷免するしかなかった。
失意の忠辰は狂ったように放蕩を始め、家老たちへのあてつけで、湯水の如く金を浪費した。見かねた実母・順性院は、一命を賭して我が子を諌めようと自裁したが、忠辰は却って、自暴自棄の度合いを高めた。
家老たちは、忠辰を座敷牢に閉じ込め、幕府には「発狂」として届けた。
忠辰は座敷牢で憤死する。享年29歳。

江戸時代、それも中期以前、忠孝の精神は絶対であったかのような印象がある。
だが、結局は今も昔も人の感情や欲望には、たいした変わりがない。
為政者に求められるのは思いつきではなく、ビジョンである。
忠辰の政策は、ミクロで見れば優れた部分が多かったし、方向も間違ってはいない。
だが、到達地点も示されていなかったし、一命を賭してまで成し遂げる覚悟もなかった。
若かったから、無理もない、とも言えるかも知れない。だが、若くても大事を成し遂げた人物もいる。吉田松陰も亡くなったのは三十である。

最近、人間の実力というものを考える。
人には得手、不得手があって当然だが、オールマイティにすべての分野において高得点な人がいいのだろうか。それとも、不得意分野の得点は低くても、得意分野が突出しているのがいいのだろうか。
アインシュタインだったと思うが、高額の小切手を栞代わりに使い、そのままなくしてしまったエピソードが残っている。ノーベル賞を取るような科学者が、日常生活で物忘れが激しく、預かった原稿などもすぐなくしてしまうとしても、笑い話になるかもしれない。けれども、一般のサラリーマンが、ミスプリントや、計算ミスを繰り返していると、それだけで、全体像までマイナスイメージになってしまう。

話は戻る。
忠辰は希望に燃え、ある程度の信念も持っていたが、覚悟が足りなかった。根回しをするだけの智力もなかった。自己認識も低かったといえる。
だが、わたしは好きである。
与えられた権限を天賦のものとして、なあなあで上手くやっていこうとすれば、忠辰も可能だった。
それを敢えて、改革を行おうとしたのは、若さゆえといえなくもないが、青臭いような若者が、老練な家老連中を相手にして敵わなかったとしても恥ではないと思える。

ちなみに、この忠辰は、天保の改革で有名な水野忠邦の曾おじいさんにあたる。
(2013.1.22加筆修正)

水野忠邦 吉川弘文社 北島正元
大名の日本地図 文春新書 中嶋繁雄

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ミドル・オブ・ザ・ロード

2008年11月09日 | ミドル・オブ・ザ・ロード
引き続き、「ふたりだけの恋の島」の余韻から抜け出せないでいる。
この映画の挿入歌を唄ったのが、前回にも述べた「ミドル・オブ・ザ・ロード」であるが、今またこのバンドにはまっている。
映画では、作曲者のジャンニ・マルケッティの意向があったのだろうが、哀愁を帯びた歌声になっているが、バンドの志向としては、明るいポップスである。
ボーカルのサリー・カーの曲線美もすばらしく(失礼!)、歌声ものびやかである。
見事な金髪にすらりとしたスタイルはアバのフリーダを思い出させる。
ギターは、スコーピオンズのルドルフ・シェンカーのような髭をたくわえているが、音を聞くと、フラワー世代といってもいいのだろう。
残念ながらスマッシュヒットに恵まれなかったためか、バンドとしての方向性がひどく揺れ動いているが、現在でも健在なのは、逆にそのことが幸いしたのかも知れない。
今の映像は・・・あまり見ないほうがいいかも。人は時には逆らえない。

名曲「イエロー・ブーメラン」の映像はこちら


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