木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

島流し・2

2012年03月14日 | 江戸の風俗
前回に引き続き、島流しの話。

女犯の罪。
僧侶が女性と通じた場合の罪である。
該当する罰としては、遠島と言われているが、正確には少し違う。

女犯僧の場合、寺持ちの僧と、一般の僧では刑罰が違っていたのである。
一般の僧は、人通りの多い日本橋で三日間の晒し刑を受けた後、寺を追放された。追放は寺法により定められており、厳しさには三段階あった。
通常、町奉行所が僧侶を逮捕した場合は寺社奉行に引き渡すが、女犯に限っては町奉行所の手によって晒し刑を行ったあと、本寺に引き渡した。
寺持ちの僧(所化僧と言った)には、遠島が適用された。
遠島になった僧侶は数多かった。この数を以て、江戸時代の仏教は堕落していたと説明されることもある。
実際に女犯の罪を犯した破戒僧もいたが、実はそれだけではなかった。
話はさかのぼる。
文禄年間(1592~96年)に、日奥{にちおう}が説いた日蓮宗の一派は『不授布施』派と呼ばれた。
「同じ信仰を持たない者からは施しを受けず、供養も受けない」という主張であり、ときの為政者豊臣秀吉と衝突した。
宗教の前には権力者にも逆らう姿勢は、施政側からすれば邪魔な存在でしかなく、徳川幕府も弾圧した。
改宗要求に応じない不受布施派の僧は、島流しとされた。
『御定書百箇条』の五十三条にも、はっきりと不授布施派は遠島にする、と明文化されている。
法難により遠島となった僧侶は400名以上に上ると推定されているが、さすがに時代が下ってくると、幕府も宗教弾圧により僧侶を遠島にする、という考えが不都合に思えたのか、いつの間にか、『女犯』の罪で括ってしまったのである。
自ら信念のために遠島になった僧侶も、『女犯』の罪を被せられるのは、不本意だったに違いない。
遠島になった僧侶の数から単に、江戸時代に助平な僧侶が多かったとの結論を導き出すのは早計であるということになる。


この厳しい宗教弾圧は、明治になるまで続いたが、不授布施派は絶えることなく今に伝えられている。
宗派の寺としては、東京麻布の若松寺などが今日でも存在している。


流刑 段木一行 文芸社
遠島―島流し 大隈 三好 江戸時代選書
江戸の流刑  小石 房子 平凡社新書
江戸町奉行所辞典 笹間良彦 柏書房

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