木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

米の消費量~江戸時代

2006年07月13日 | 江戸の味

先日、農家の人と話をしていたら、日本人の米の一人当たりの年間消費量は60kg(1俵)を割ったそうである。そんなに少ないものかと、自分の場合を計算してみたら、確かに少なかった。 年間60kgということは、一日に換算して170g。一合強の計算となる。 現代人の米の消費量は驚くほど少なくなっている。

それでは、江戸時代はどうだっただろう?

牢獄の例を見てみる。

囚人ひとりにつき玄米搗五合で、白米にすると一割減の四合五勺であった。これを朝夕の二度に分け、一回に二合二勺五才、盛立ての目方正味八十五匁あたりであった。(中略)副食は味噌汁と糠漬の大根であった。*②より

とある。

囚人でさえこんなに食べていた。

余談となるが、囚人のご飯は大きな丼に盛られ、モッソウ飯と呼ばれた。これが「臭い飯」の語源である。

白石一郎の小説に「元禄武士道」という一風変わった短編小説がある。

そこに大食いの武士が登場する。小説ではあるが、古事を調べた上での内容だと思う。

本人はそれを(大食)を恥じて、人前では決して暴食をしなかったが、一度に七升の飯を喰うという噂であった。真実は、一日に三升の飯を何度にも分けて喰う程度だったが、なまじ本人が隠すので、大食の噂は、かえって誇張されてしまったのである。

三升だって信じられないくらいの量である。主人公星野小五郎は、ばかばかしいとも思える藩同士の意地の張り合いに巻き込まれ、藩命を受けて、一尺あまりの堂々たる鯛27匹、15杯の椀、二升の酒を飲む。*③より

本当にこんなに食べられるものなのだろうか?

振り返って、現代を見てみると、小林尊という人物がいる。

フードファイターと呼ばれる「大食い」の第一人者である。

彼は先日、アメリカで行われたホットドッグ早食い大会で5度目の優勝を自己新記録で達成している。

アメリカの早食いはあくまでも早食いで大食い競争ではないのだが、彼は12分間で53.5本のホットドッグを食べている。回転寿司でもごくわずかな時間に50皿もぺろっと平らげてしまう。時間があったら一体、どれくらい食べられるのか想像もつかない。それでいて、痩躯だから不思議だ。人間は可能性の動物だとつくづく思う。

話がまたまたずれたが、一般の人は米をどれだけ食べていただろう。

1840年の長州藩のものであるが、主食だけで1664キロカロリー摂っていたと記録されている。明治3年の飛騨地区の記録も残っているが似たようなものだ。*①より

カロリーから計算してみると、一日の米の消費量は、三合弱。

囚人は米しか食べられなかったので四合半の米を食べていたことを考えると、米以外のものも口にしていた一般人の場合、きわめて納得できる数字である。

ここ100年で日本人の米の消費量は3分の1になったわけであるが、肥満、糖尿病の人のパーセンテージは激増した。満腹度の割りにはローカロリーな米のことを考えると、当然の結論のような気もしている。

(米の覚書)

精米一合は約150グラム

  精米一升は約1.5キログラム

  米一合は330グラムのご飯になります。  (=590カロリー)

  米一升は3.3キログラムのご飯になります。

  米はご飯にすると重量で2.2倍、目方(容積)で2.5倍になります。

  弁当では少なめでご飯150グラム(生米68グラム)多めでご飯250グラム(米114グラム)

http://www.okishoku.co.jp/siryo.html上記は、沖縄食料HPより

①人口から読む日本の歴史 講談社学術文庫 亀頭宏

②江戸町奉行所辞典 柏書房 笹間良彦(名著です!)

③幽霊船 新潮文庫 白石一郎

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古道

2006年07月07日 | トマソン的町歩き
去る7月5日、仕事で岡崎に行った。碧南桜井という駅からタクシーで目的地へと向かう。商談が終わった頃には、さっきまで激しく降っていた雨も上がったので、駅までの距離はのんびり歩くことにした。雨はやんだが、風は強い。あたりに人気はない。小さな鹿乗川という川を越えて右手を見ると雰囲気のある古道が川と平行して続いている。道は少しぬかるんでいて革靴では歩きにくそうだが、あまりにいい感じなので歩いてみることにした。風は相変わらず強く、木々の激しく触れあう音に何回も後ろを振り返ってしまった。雨傘を刀のごとく腰に差すように持っているのに気がついて苦笑した。昔はわらじなんてものを履いて、このような道を歩いていたのだから、長い距離を歩くのは大変だっただろうなと想像する。私はどうにも歩くのが好きな性質らしく、放って置けば何時間でも歩いている。歩きながら妄想に近いようなことを考えている。その日は真昼だというのに、さっきまで降っていた雨のせいで人の気配がまったくなく、なんとなく不思議な感覚である。近くの畑にはお花を自由に取ってくださいとの看板。なんとなくほのぼの。そうしているうちにいつの間にか、短い古道は終わって公園に出る。大きな公園だが人気はない。トイレを見ると、金属の看板。「非常灯が点滅しているときは中で人が倒れているおそれがありますので様子を確認してください」。公園を抜けて住宅地へ入ってもまったく人がいない。なんだか、バイオハザードの主人公になったように思う。ゾンビでも出てきたら刀で斬ってやる、などと空想する。それから5分くらい歩いてやっと車の往来のある通りまで出て、この小旅行?は終わった。こんなことで、楽しみを見つけているとは私も平和なものだ。最後に酒屋さんのガラス戸に貼ってあったういろうの広告。ストレート過ぎて面白かったので、写真を撮ってきた。


黄身返し②

2006年07月03日 | 江戸の味
奇術家の書いた本であるせいかどうか分からないが、「大江戸奇術考」が本棚からエスケープしてどこに行ったか分からない。
非常に面白い記述があったので、また引用しようと思ったのだが、それはまた今度にします。
さて、前回の黄身返し、結論から言うと失敗でした。
下にある写真(左上の小さいサイズ)のように、黄身がはみ出したできそこないような茹で玉子が出来上がっただけでした。
そこで、今度は縦方向にクリリップを刺してみることに。
しかし・・・。
結果は、またもやできそこないの茹で玉子の数を増やすことになっただけでした。
「大江戸奇術考」の泡坂氏もまだ完全な黄身返しはできていないそうで、伊藤家の食卓では、かなりの数の玉子を使ったんだろうなあ、と負け惜しみのように思うのみです。
どなたかの吉報を待ちたいのですが・・・。


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