木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

小幡城と家康

2008年09月24日 | 城趾
天正10年6月2日(1852年)本能寺の変。織田信長が明智光秀に倒された。光秀は秀吉に倒され、その後、本格的に秀吉が天下取りに邁進していく訳だが、秀吉政権前夜に起きたのが小牧・長久手の戦いである。
時に、天正一二年(1584年)。
実質的に秀吉と家康の間で起きた小牧・長久手の戦いは、羽黒の戦い、白山林の戦い、桧ケ根の戦い、仏ケ根の戦いといった局地戦の総称である。
開戦に当たり、家康が小牧山、秀吉が犬山城に布陣を敷いた。
岡崎から戦いに出向いた家康と、大坂から出陣した秀吉であったが、家康が第二の拠点としたのが小幡城である。
家康の動きを見てみる。

4/ 8 22時 先発隊 小幡城に入城
4/ 8  0時 本隊   小幡城に入城
4/ 9  2時 小幡城を出発
4~5時 白山林の戦い
7時過ぎ 桧ケ根の戦い
12時   仏ケ根の戦い
16時   小幡城に退却
20時  小牧山へ帰陣


4月9日の17時には、秀吉軍も小幡城から2.5km先に位置する竜泉寺城に移動しており、小幡城を急襲する計算だった。しかし、秀吉が偵察隊を派遣した時点で、家康は早くも小牧に陣地を戻していた。
小幡城においては、家康の行動の迅速さ、鮮やかさが光り、競り合いは起こらなかった。

小牧・長久手の戦いは、家康が秀吉に勝った戦とされ、少数隊が多数隊に勝利したとも言われている。しかし、関ケ原の戦いのように二つの軍ががっぷり四つに組んで戦った訳ではない。局地戦で家康が多く勝利を得たに過ぎず、総合的にどちらが勝者であるかは、はっきりしない。
長久手教育委員会が出版した「長久手の戦い」の中で、柴田義雄氏は次のように述べている。

秀吉は、長久手の戦では、開戦前に自己の傘下に誘引した池田一族が、壊滅的打撃を受けただけで、自己の武将は無傷に近い。
しかし、家康は、自己の率いる主力部隊が大きな損害を受けている。その点、長久手の戦は、家康の全面的な勝利を意味しない。


また、名古屋大学教授の三鬼清一郎氏は対談の中で、次のように述べている。

確かに局地戦で秀吉は敗北したわけで、これははっきりしていますが、そのあと美濃・尾張あたりでの戦いで、結果的に家康を追い詰めていって、天正十二年十一月十五日の信雄(織田)との講和では明らかに秀吉が勝者として臨んでいます。

印旛、猪小石、森孝新田、矢田川、香流川などは、すっかり住宅地になっている。このような地で合戦が行われたというのは、今では信じられないようなことである。

「劇画 小牧・長久手の戦い」 長久手教育委員会
「長久手の戦」 長久手教育委員会
「小牧・長久手の戦い」 小学館ウィークリーブック


今も、城に関係した町名は多く残るが、城趾跡の場所を知る人は地元民でもほとんどいない。

一昔前は畑だったと言うが、今は駐車場になっている。場所は岡の頂上のような場所になっており平地は少ない。

例によって、簡単な立看板が残るのみ。名古屋市はもう少し考えたほうがいいのでは。

今はケアホームが建つが、斜面にへばりつくような感じは、城を想像させる。

彼方に小牧山を望む。


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鮒味噌・いな饅頭

2008年09月21日 | 江戸の味
蟹江町、と言っても東海圏に住んでいない人には分かりにくい。
みや~ちさんのような存在の町である(分からない人は飛ばして下さい)。
名古屋市の西部に位置し、町全体がゼロメートル地帯で、土地の四分の一が河川であるという凄い町だ。
かつて、吉川英治がこの地を訪ねた際に、「東海の潮来である」と言ったらしい。潮来のイタロウがあるなら、蟹江はカニロウか。などと下らないことを考えてしまう。
ところで、この地には名古屋の人でも知らないような独自の郷土食がある。
そのうちの一つが「鮒味噌」である。
「鮒味噌」は、砂糖と酒を加えた豆味噌に砂糖と酒を加えて、煮込んだもので、見るからに甘そうな感じである。
これは冬季の食べ物で、冬には地元のスーパーでも売られている。確か、700円くらいだったと思うが、安すぎず、高すぎない価格だったと思う。
(私は蟹江の「ヤオキスーパー」にて購入。 愛知県海部郡蟹江町大字蟹江本町字クノ割1-2 電話0567-96-3333)

2013.1.15追記 本日、スーパーに確認すると、現在は置いているとのこと。価格は680円。冬の間だけなので、3月くらいには終わってしまうようだ。

食べてみると、それほど甘くなく、もちろん、鮒の生臭さもない。
たまに甘党の人が、饅頭を食べながら酒を飲むということを耳にするが、そういった甘党の人の酒のつまみにはうってつけではないだろうか。量を食べるものではないので、一匹買えば、何人かで取り分けられる。昔のスィーツと言ったものなのであろう。
個人的な感想は、際物といった食べ物ではなく、ごく普通の食べ物。特別においしいのではないが、何となく懐かしい味という感じだ。
郷土食でいうと、「いな饅頭」というものもある。
蟹江を車で走っていて「いな饅頭」の看板を見たときは、魚型をした饅頭だと思っていたのだが、蟹江の郷土資料館に行ってみて、驚いた。これは、れっきとした料理なのである。
「いな」は江戸っ子が好んで使った言葉「いなせ」の語源とも言われる出世魚ボラの幼名「鯔(いな)」である。
(いなせ=鯔背と言われている)
丁寧に内臓をとった鯔に、豆味噌を中心に、刻んだ椎茸、銀杏、柚子などと混ぜ合わせたものを詰めて、香ばしく焼き上げる。
この料理は、すでに一般的でなく、町内の一部の旅館等で食されるだけである。
蟹江は海水と河川の水が混じったいわゆる汽水であったが、伊勢湾台風以降に行った治水作業で、海水が入らなくなり、生態系が大きく変わってしまったと言う。


鮒味噌。時季になると、普通にスーパーで売られている。ちょっとした高級品といった感じ。

いな饅頭。スーパーなどではお目にかからず、予約販売。価格も1匹1500円以上し、かなり高級品の部類に類してしまっている。

*いな饅頭が食べられるのは蟹江では3店舗。詳しくは蟹江観光協会のHPへ

いな饅頭と鮒味噌については名古屋市のHPでも詳しく紹介されています 掲載HPは下記。

いな饅頭

鮒味噌

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松井ベースボールミュージアム

2008年09月20日 | スポーツの周辺
石川県小松市に松井秀樹ベースボールミュージアムがある。
もちろん、ニューヨークヤンキースで活躍する松井選手の記念館である。
周りには観光地はおろか、宅地もあまりないような場所に、ドンと殿堂のような記念館が建っているのを見たときは、びっくり。
住宅地の真ん中に建っているイチロー記念館とは、立地条件が違うものの、建物の立派さという点では、こちらに軍配が上がる。駐車場なども、馬鹿でかい。
まだ現役の選手の記念館というのもいかがか、と思う気持ちがないわけではないが、まあまあ見ごたえがある。
特に、場内で上映されているドキュメンタリーは、よかった。
展示物の中で、来場者の目を惹いていたのは、幼い頃、松井選手が書いた絵である。
「野球選手になりたいです」
誰だったか、夢は醒めるために見るもの、と言っていた人がいたが、現実のものとなる夢もある。
強く願う心と、絶え間ない努力。
オリンピックは見る人を感動させるけれど、四年に一回の大会のために一年365日、努力を続ける陰の姿を想像させるからかも知れない。
牛歩の歩みであろうと、夢に少しづつでも、近づいて行きたいものだ。





松井秀樹ベースボールミュージアムHP
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守山崩れ

2008年09月19日 | 戦国時代
守山区は、名古屋のチベットとも呼ばれることのある秘境(?)である。
名古屋ドームを眺める位置にありながら、奥へ行くと、古墳発掘で有名な志段味地区などを持ち、宅地化が進む中にも「昔」を強く持ち続ける区である。
名古屋でも一番の繁華街である栄と、瀬戸物で有名な瀬戸市を結ぶのは、名鉄瀬戸線である。
名古屋ドームの最寄り駅といってもいい矢田駅は、規模の大きい大曽根駅の一つ先。
矢田川のすぐ手前に位置する。
矢田駅から徒歩10分。矢田川を山田北町方面に歩いたところに、市場という町がある。その市場町に宝勝寺という寺があり、その辺りが守山城のあった辺りとされる。
住宅地の波が押し寄せているとは言うが、宝勝寺の裏にはこんもりとした林が広がり、開発化の波を押しとどめている。
ここに守山城の立て看板だけがポツンと建てられている。
守山城は、守山崩れと言われる事件で有名になった。
時は天文四年(一五三五年)。
織田信長の父である信秀は、古渡城、那古野城、守山城の三城を中心とし、今川勢と対峙していた。
守山城を守るのは信長の叔父にあたる信光。
信光の誘いを請け、松平清康が岡崎を後にした。
清康は、家康の祖父に当たる。このとき、弱冠二五歳。若い藩主であったが、武力に優れ、三河平定に迫るほどの勢いであった。
清康が守山城に入り、今川勢と対峙した朝。
清康は、部下の勘違いにより殺害されてしまう。まだ、下克上の世の中である。
大将の思いがけない死により、松平家は大幅な弱体化を余儀なくされた。
これが、世に言う「守山崩れ」である。
あまり知られていない史実であるが、この事件がなければ、徳川幕府は生まれていたかどうか分からない。少なくとも、家康が今川家に人質に取られるなどということは起こらなかったであろう。
守山崩れで、清康が斬られたのが、村正であるといわれ、村正の妖刀伝説へと繋がっていく。


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今は、こんな簡単な立看板しか残っていない。地元に人に守山城址を聞いても、ほとんどの人がどこにあるか知らない。


奥に見えるのが宝勝寺の林。この林のおかげで、この辺りは随分と昔の面影を残している。


この辺りは標高25mの岡だと言う。確かに、視線を変えると、坂の上にいるのが分かる。

東海の城物語 中日新聞社
葵のふる里の歴史(中根大)松平の里観光協会

江戸前寿司

2008年09月17日 | 江戸の味
寿司というのは、どうしてこうも高くなってしまったのだろう。
一方で、回転寿司という格安の店も存在し、完全な二極化を招いている。
現代では、回転寿司=庶民、寿司=高級品のイメージが定着しているかのような寿司であるが、江戸時代は、寿司は庶民の食べ物であった。
江戸時代、寿司は三大ファストフードと言われた。
蕎麦、天麩羅、寿司である。
先日、半田にある博物館「酢の里」に行って驚いたことがある。
「酢の里」はミツカン酢が運営している博物館であるが、そこには、江戸時代の寿司を再現した模造品がある。
それを見ると、江戸時代の握り寿司は、とにかく、巨大である。
今で言うおにぎりくらいの大きさがある。もちろん、ネタの方も大きいのだが、今の寿司の大きさに見慣れた目には異様に映る。あなごなど、大きすぎてグロテスクにさえ見えてしまう。
もっとも、寿司が現在のような大きさになったのは、第二次大戦後らしく、戦前の寿司も、江戸時代ほどでなかったが、今の寿司の1.5倍はあった。
江戸寿司であるが、当初は山吹酢という色の濃い酢を使用しており、シャリも色付きであったと言う。


分かりにくいかも知れないが、右端においてあるのが500円玉。大きさを比較して頂きたい。

江戸時代、寿司はこのような屋台で売られていた。この屋台は立派であるが、もっと簡素な店も多く、一説には江戸には三千以上の寿司屋があったという。天麩羅や蕎麦も屋台が多かったが、それは火事の危惧から店舗としては、なかなか認可されなかったという事情がある。

酢の里HP

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陣屋って何だ?~奥殿陣屋

2008年09月13日 | 大江戸○×クイズ
問い:陣屋とは、大名が泊まる宿屋である。 ウソ? 本当? (答えは、文末に)

陣屋とは、現代に残っていない言葉の一つである。
江戸時代、原則として一万石以上の所領を与えられた武士を大名と呼ぶが、大名の居住地及び政務取り扱いの場がいわゆる「城」である。
だが、どの大名も城を持てたわけではない。経済上の事情や、「一国一城」の法令などにより、城を持てない大名もいた。
ここで、陣屋が登場する。
城殿輝雄氏の簡潔な説明によると、
陣屋とは、無城の大名の館。または、代官や領地の支配のための屋敷や役宅を指している。
とある。
具体的に、三河奥殿藩一万六千石の陣屋の例を見てみたい。
奥殿藩は、一二松平と言われた松平家の系統、大給松平家が治世した藩である。
大給松平家は、代々大給城を拠点としていたが、六代家乗の代に、上州那波(なわ・現群馬県伊勢崎市)に城を築いて一万石取りの大名となった。天正一八年、家康が関東に入国した年である。
このため、大給城は、廃城となり、領地は天領となった。
家乗には、二つ違いの弟である真次がいて、真次も那波城に従った。その後、武勲があり、秀忠より上州に三千石を与えられた真次は、故郷である大給の地に所領の地を換えてもらうことを願い許された。
真次は、七千石取りまで出世するが、城を建てることは叶わず、大給に陣屋を建てた。
真次の実子である乗次は、一万六千石までになり、三代乗成(のりしげ)の時には、大坂定番の任を命じられる。
更に四代乗真(のりざね)の代になると、三州四千石、信州一万二千石の所領となり、大坂定番の任を解かれる。その際に、大坂に在住していた家臣たちが、大給陣屋に戻ってきたが、手狭になったため、奥殿へ陣屋を移動し、奥殿陣屋は完成する。
奥殿藩となった藩士の構成を見ると、藩士236名(うち師弟勤務32名)のうち、

江戸藩邸  82戸
奥殿陣屋  47戸
田野口陣屋 73戸
京都      2戸

となっている。田野口というのは、信州の陣屋である。
奥殿陣屋の平面図を見ると、山を背にしているものの、三方を田に囲まれた平屋で、武力的な効果という点では、かなり低い。
大給松平家でも、城を持ちたいという悲願があり、文久三年(1863年)には、信州に五稜郭建設を願い、幕府から許されている。翌年から建設を始めたものの、完成を待つ前に明治維新を迎えてしまった。
同じ五稜郭でも、函館のものは有名であるが、佐久の五稜郭は、あまりにも知られていない。

答え:×(大名が泊まるのは、本陣である)


園内には、小規模ながら花火資料館も併設されている。金鳳亭では、季節の炊き込みご飯なども食べることができるが、人気があり、早目になくなってしまうことが多い。

中では、奥殿藩ゆかりの茶道裏千家の玄々斎のビデオがある。立派な庭園を見ながら、抹茶を飲むこともできる。

園内にあるバラ園は見事。隣接した畑にも季節の花が植えられ見ごたえがある。

(参考文献)奥殿陣屋 城殿輝雄

奥殿陣屋HP

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家康の産湯

2008年09月12日 | 徳川の話
豊田市の近くに松平という地がある。詳しくは、愛知県豊田市松平町である。豊田市も市町村合併で巨大となり、一概に豊田市と言ってもよく分からない。県外の人ではなおさらであろう。
松平郷の場所はここ
かなり縮尺を上げないと、どこだかさっぱり分からない様なところで、実際に行ってみると、のどかな山村というべき所である。
この地は、徳川家発祥の地とされる。
家康から八代さかのぼった親氏(ちかうじ)が松平家の養子となったのが、その祖とされる。
さて、ここには松平東照宮があり、神社の脇には徳川家康が産湯に使ったとされる水を汲んだ井戸が鎮座している。
この水は、一説によると、竹千代(家康の幼名)を産んだ於大の方が、松平家の井戸の水を使うとこの子は天下を取るであろうと夢に見たため、早馬で岡崎に届けさせたとされる。
一方では、岡崎城にも、家康が産湯に使ったとされる井戸が存在する。
松平東照宮の水は、多分、家康の祖父清康や父広忠が生まれたときも届けられたお祝いの品のようなものだったに違いない。於大の方の夢の件は、後々の創作であろうと思われる。


松平郷にある井戸。付近ではシニアの方々がゲートボールに興じておられた。

岡崎城公園にある井戸。「三河武士のやかた 家康館」からすぐのところである。ちなみに、「三河武士のやかた」の関ヶ原の合戦のジオラマは、見応えがある。

松平郷HP

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わらじの履き方って?

2008年09月11日 | 江戸の話
草鞋(わらじ)というと、雪駄の藁版のように思う人もいると思うが、雪駄がサンダルだとすると、草鞋は紐靴である。
しかも、草鞋の履き方がややこしい。
説明書を見ながら履かないと、履けないような代物である。
こんなにややこしいものだとは知らなかった。
草鞋の履き方の丁寧な写真解説が豊川市民族資料博物館に展示してあったので、下記にご紹介します。


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天狗党②

2008年09月10日 | 江戸の幕末
加賀藩の隊長は、永原甚七郎と言った。甚七郎は、水戸浪士の疲れ切った様子を見て、敵とは言え、同じ武士として見るに忍びないと、白米二百俵、漬物十樽、銘酒二石、スルメ二千枚を新保の陣中に送った。
食べ物だけではなく、酒やつまみまで提供された水戸浪士は、感激したに違いない。
さらに、敦賀に送られてからも、士分には一日一汁三菜、士分以下には一汁二菜のほか、薬用として一日酒三斗(1斗=18リットル=10升)、鼻紙、煙草、衣類などを供給したという。正月になると鏡餅や饅頭、酒樽などが与えられた。この金額は一日二百数十両にも及んだ。
さらに、甚七郎など金沢藩士は、公卿や慶喜に対し、助命運動まで行っている。
このような寛大な処置が一変したのは、田沼玄蕃が幕府総監として敦賀に赴いてからである。田沼は、水戸付近における天狗党との戦いで、天狗党に苦汁を舐めさせられていることもあり、天狗党を悲惨な境遇に陥れた。
五間に八間(約9M*15M)の真っ暗なニシン倉庫十六棟に浪士を押し込め、朝夕に焼きむすび1個づつにぬるま湯だけしか与えなかった。
甚七郎たちは、この処置に腹を立て、田沼の命令は受けたくないと、600名の藩士とともに金沢に引き上げてしまったくらいである。
時に、慶応元年一月二十九日。
この逆境も長くは続かなかった。
同年二月四日。武田耕雲斎以下24名が斬首にあったのを皮切りに、数日に亘り、353名が斬り殺されたからである。
近世に繋がる幕末を考えると、非常に人間の持つ残虐性の危うさというものを感ぜずにはいられない。
水戸の場合も、新撰組の場合も、イデオロギーを飛び越えて、結局は自派の都合のいいように各人が行動してしまったという面がある。
そこには、正義も悪もない。ただあるのは、自派と他派だけである。
水戸には、黄門さまがいて、烈公と呼ばれた尊皇攘夷の雄とも言える斉昭がいて、弘道館という日本一の藩校もあった。
だが、幕末は内紛でごちゃごちゃになってしまった。
内紛であるから争う複数の派閥がある。幕末の水戸の場合は、天狗党と諸生党であったわけだが、どちらがいいとか悪いとかいうことではない。
ルワンダにおいてツチ族がフツ族によって大量虐殺されたのは1994年。あまりに近年に起こった虐殺に驚いたのであるが、日本人においても一歩間違えば、水戸の内紛のように血で血を洗う政争が起こりかねない。
武田耕雲斎の辞世の句がそんな気持ちをよく伝えている。

討つもはた 討たれるもはた あはれなり
同じ日本の みだれと思へば


話は戻るが、斬首の前に簡単な聴聞があった。浪士は、「武器を取って戦ったか」と聞かれた。病死した24名を除く799名のうち、353名が武士の名誉のために、yesと答えたのである。否と答えれば、助かったのであるが。

最後に、山国老人という70を過ぎて、この行軍に参加して、斬首刑に処せられた人の辞世の句が少しばかり爽やかであるので、紹介して、結びにしたい。

ゆく先は冥土の鬼とひと勝負


既に風化してしまったかのような看板が更に哀れを誘う

幕末の水戸藩(山川菊栄)岩波書店

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天狗党①

2008年09月07日 | 江戸の幕末
幕末、水戸に天狗党なる派閥があった。
天狗党は、尊皇攘夷の士である、と言われるが、実はそんな単純なものではなかった。
天狗党は、藤田東湖の息子、小四郎を中心とした党で、朝廷のため夷狄を討つとして、筑波山に挙兵した。
この党の決起を促したのは、桂小五郎で、小五郎は元治元年(一八六四年)に徳川斉昭の墓参のため水戸に来たが、その際に小四郎に軍資金五百両を渡している。
小四郎は、この金のほかに富商、富農の献金を集め、行動の機会を伺った。
しかし、具体的な行動を起こせぬままにいたずらに時は過ぎ、諸生派と呼ばれる保守派との対立を深めていく。
焦りを感じた天狗党は、資金力を得るために、強奪をも行い、近隣の住民の生活を脅かした。
当時の藩主は、斉昭から慶篤に代わっていたが、慶篤は「よかろう様」と陰口されるほど、決断力に乏しい殿で、二派を調整する能力は全く欠けていた。
幕府は過激な行動を取ろうとする天狗党に危機感を抱き、天狗党を強盗集団であると定義、武力をもって鎮圧しようとする。当然、諸生党もこの動きに便乗する。
このため、全盛期は四千とも言われた天狗党は、千余名に激減。活路を見出すために、京都の朝廷に直訴しようとして、死の行軍に至る。この頃から、天狗党の総大将に担ぎ上げられてしまったのが武田耕雲斎である。かつての結城寅寿にしても同じことだが、本人の意思とは離れたところで、担ぎ上げられる者が水戸には多かった。耕雲斎は、六十を越える高齢で、五十日間に亘る行軍、しかも冬季の行軍は、本人の望むところではなかったであろう。
話は前後するが、小四郎の指導能力にも疑問が残る。
この頃、水戸は、尊皇攘夷の総本山として、雄藩の士からも別格視される傾向があり、東湖の息子というだけで、小四郎も英雄視されたことが容易に想像できる。その雰囲気の中、小四郎も「その気」になってしまったのであろう。
さて、天狗党が降伏して加賀藩に捕えられたのは、越前の新保という敦賀に近い山村であった。
水戸から二百余里。五十日をかけて行軍してきた天狗党には、刀を交える余力にも乏しかったし、大きかったのは京都後見職にある慶喜が討伐軍の大将であるという点である。
慶喜は自分たちを見捨てないだろうという見込みもあったのだろう。
十二月二十四日、天狗党八二三人は、敦賀に移される。
この陰惨な史実の中で、唯一、爽やかなのが、この時の加賀藩の対応である。

幕末の水戸藩(山川菊栄)岩波書店



武田耕雲斎。当時、六十三歳であったと言う。差しているのが、「刀」でなく「太刀」なのが気になる。水戸黄門さまに見えてしまうのは、私だけだろうか。(敦賀にて)

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