木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

丁髷(ちょんまげ)

2013年09月25日 | 江戸の風俗
丁髷(ちょんまげ)は、兜を被ったときに頭頂部が蒸れないようにとの工夫から生まれた髪型だった。
踊り字のゝ(ちょん)に似ているから付けられたと言う。
踊り字とは、「学問のすゝめ」のように繰り返しに使われる記号だ。
ただ、「ゝ髷」では字面が悪いので「丁髷」の字が充てられるようになった。
先日、磯田道史氏の「歴史の愉しみ方」を読んでいたら、この丁髷に関する興味深い記事が載っていた。
丁髷が発生した戦国時代では、頭の前部、つまり月代に当たる部分の髪の毛は刃物で剃らないで、抜いていたというのだ。
「慶長見聞集」には「黒血流れて物すさまじ」との記述があるようだが、これでは我慢大会だ。
剃るようになったのは、秀吉以降の天正期以降だというのだが、織田信長なども、ヒーヒー言いながら、毛を抜いていたのだろうか。
丁髷を結う行為は戦闘の準備行為であり、主君への忠誠を示す姿勢でもあった。
であるから、丁髷を結わないのは、主君に対する不忠であった。
磯田氏は「彦根往古ノ聞書」を資料として、江戸初期、丁髷を結わないで登城した武士についての記述を行っている。
それによると、剣豪の血を引く上泉権左衛門という武士が丁髷を結わず、長髪で登城したところ、彦根藩主(井伊直孝)に咎められた。
権左衛門は「拙者は髪にて御奉公はつかまつらず」と反論したというが、この理屈に藩主は激怒し、閉門とさせられた。
彦根藩では、その後、ふたりが長髪の咎を負い閉門。
もうひとり、松井七左衛門という藩士は、丁髷を糸で結わず藁で結ったため、処分されている。
なんとなく、この辺りは管理社会へ移行する際の見せしめ的な要素を感じるが、現代社会でも普通の会社で、金八先生のような髪型は認められてはいないのだから、同じようなものだ。
ひげについても、江戸時代では幕府から禁止令が出ている。
明治以降、ひげを生やす政治家が多かったのも、禁止令への反感もあったようだ。

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江戸時代の温泉

2012年05月28日 | 江戸の風俗
江戸時代も温泉は今と同じで人気があった。
いや、旅行が気楽でなかっただけに、今以上の人気だったに違いない。
現代では秘湯への旅も比較的容易になり、驚くような数の温泉に入っている人がいるが、さすがに江戸にあっては多数の温泉に入っている人はごく少数で、多くの庶民は憧れに近い目で遠隔地の温泉を見ていたのだろう。
江戸時代には色んなものに番付を付けることが流行ったが、温泉番付も発行されている。
江戸後期に発行された「諸国温泉功能鑑」もその一例である。
この番付によると、行司役に「紀州 龍神の湯」「伊豆 熱海の湯」「上州 さわたりノ湯」(沢渡温泉)「津軽 大鰐の湯」が並び、勧進元は「紀州熊野 本宮の湯」、差配人(副主催者)として「同所 新宮の湯」とある。今の那智勝浦温泉である。
気になる番付であるが、東の大関は「瘡{そう}どく三病諸病ニよし 上州草津温泉」。瘡毒とは梅毒、三病とはハンセン病、てんかん、うつ病であるから万病に効くということである。
草津温泉は初夏から晩秋までの半年だけ営業し、寒い期間は旅館も閉鎖した。山中とはいえ、新鮮な川魚のあらいが食べられ、一流の芸人の芸が観られた。
関脇は「諸病ニよし 野州那須湯」。余談ではあるが、個人的に好きな湯である。
小結は「眼病ひつひぜんニよし 信州諏訪湯」。ひつとは、江戸訛りで「しつ」のこと。湿瘡である。ひぜんとは皮癬で、いずれも皮膚病である。
前頭「切り傷 打ち身ニよし 豆州湯河原」、前頭二枚目「しつひぜんによし 相州 足の湯」(箱根・芦ノ湯温泉)、三枚目「瘡毒諸病によし 陸奥嶽の湯」。
西を見ると、大関として「諸病ニよし 名泉あり 摂州有馬湯」。
関脇「万病ニよし 但馬城ノ崎湯」(兵庫県)。
小結「諸病ニよし 豫州 道後温泉」(愛媛県松山市)、前頭筆頭は「加州山中湯」(石川県)、二枚目に「しつひぜんニよし 肥後阿蘇湯」、三枚目には「諸病ニよし 肥後温泉湯」(長崎県・雲仙温泉)と続く。
皮膚病はともかくも、梅毒などに効くと宣伝しているのをみると、江戸時代はよほど梅毒患者が多かったのだろうか。
それはさておき、江戸時代の庶民はこのような番付を見ながら、まだ見ぬ温泉に思いを馳せたに違いない。



参考:大江戸番付づくし 石川英輔 (実業之日本社)

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江戸の力士

2012年05月23日 | 江戸の風俗
相撲の起源はいつに発するかはっきりしない。
古来、社寺の年中行事としてイベントとして村の力持ちが集まって開かれた奉納相撲が起源であって、それこそ古い時代から行われていた。
それでは、金を取って見せた勧進相撲がいつから始まったかというと、三田村鳶魚翁は、寛永元年(1624年)、明石志賀之助が四谷塩町3丁目の笹寺で行われたのが普通の説だと述べている。傍証として寛文元年(1661年)の間違いだという説も併せて紹介している。
しかし、当時相撲は決して歓迎されるものではなく、逆に禁令が出るほどであった。
娯楽の少なかったこの頃、相撲は現代でいうプロレス、あるいは格闘技的な要素が強く、風紀を乱したと言う。
歴史は古くとも、武術のようにしきたりやルールが制定されておらず、特に当初は力が強い者が勝つ世界であったから、稽古もなく、技もなく、とにかく腕自慢の荒くれの参加も多かったらしい。荒くれには取り巻きの仲間がつきもので、とかく見物客同士でも喧嘩が多かったようだ。
相撲にもルールが整ってくると、ただ力の強い者が勝つ時代は終わる。
すると、一流と呼ばれる力士が誕生し、彼らの多くは諸藩お抱えの力士となる。
このような一流の力士を生んだきっかけとなったのは、寛政三年(1791年)6月11日、江戸城吹上御庭で行われた天覧相撲である。将軍は家斉。
この日の結びの一番では、東西の両横綱小野川喜三郎谷風梶之助の取組が行われた。
谷風は身長189センチ、体重169キロ、白川藩お抱え、対する小野川は身長176センチ、体重116キロ、久留米藩お抱え。
行事は吉田追風
勝負は「待った」をした小野川が負けとされた。
なぜかと問われた吉田は、「行事が立てと言ったのに、立てなかったのは小野川に油断があったからだ」と心持ちの弱さを指摘した。
これを聞いた者は、みななるほどと感心した。
しかし、小野川は当時吉田に教えをしばしば請うていた。その小野川が晴れある場で、わざわざ待ったをしたというのは、常識では考えにくく、勝敗については小野川と吉田の仕組んだものではなかったか、などという疑いが残る。
この頃はまだ、相撲もまだ当初のショー的要素が含まれていて、勝ち負けよりも見せ場を作るほうが優先されていたきらいがある。「待った」についても自由で確たる規約がない。吉田はもっと勝敗に拘るべき、と相撲改革を主張していた。
先の勝負は、吉田の主張を表すものとなった。
勝敗が仕組まれたものであるかどうかの真偽はともあれ、この天覧以来、相撲は「胡乱くさいもの」から、武芸へと進化を遂げていったのである。

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四郎兵衛会所

2012年05月17日 | 江戸の風俗
吉原へは男性しか入れなかったかというと、そうではない。
奥底はドロドロしていても、吉原の表面上はきらびやかであって、花魁たちはファッションリーダーだった。その世界は女性にとっても魅力的であったには違いない。
吉原には男は誰でも無料で入れたが、女性は中からの逃亡防止で厳しかった。逆の言い方をすると、女性でも容易に吉原を見物できた。
それには大門をくぐってすぐのところにある四郎兵衛会所で切符(通行証)を買えばよかった。
客になり得ない女性は、入場料を払えという意味もあったのだろう。
四郎兵衛会所の存在は、関所と同じであり、吉原から不法に抜けだそうとする女郎は逮捕された。
会所は町の自身番と似ていて、遊郭内の治安を守っていたが、一番大きな役目は、女郎衆の逃亡防止である。
切手だけ持っていれば、女性は誰でもフリーパスだったとかというと、そうでもないだろう。きっと、会所の中には博覧強記な人間が詰めていて、切手を発行した相手をひとりひとり覚えていたに違いない。

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吉原への道

2012年05月16日 | 江戸の風俗
明暦の大火、いわゆる振袖火事で江戸の多くは灰燼に帰した。
葺屋町(現代の中央区日本橋人形町付近)にあった吉原も同様に、灰となった。
もともと、明暦の大火以前に、あまりにも繁華街に近い場に遊郭があることを憂慮していた幕府は吉原の移転を命じる。
移転先は、浅草田圃と呼ばれる郊外の地。
幕府の優遇措置もあり、移転を認めた吉原の住人たちは、新天地へと移動する。
この時から、以前の吉原を元吉原、後の吉原は単に吉原、もしくは新吉原と呼ばれるようになった。
かくなる事情から、新吉原は江戸の外れといってもよい場所に位置した。

現代でも吉原と言うのは、土地の人間か、ごく一部の人間以外にはどこにあるのかイマイチ分かりにくい場所にあるのだが、JRでいえば日暮里が最寄駅となる。
ただ、江戸時代の人間であれば、日本橋や神田、浅草方面から行くのがごく普通であった。
江戸時代の記録マニア喜田川守貞の「守貞謾稿」も吉原は格好の研究対象と思ったのか、かなり詳しく記載している。

昔、新吉原に通うの遊客は専ら雇馬にのりて行く。すなわち馬士{まご}、小諸節を唄い行く。

とある。何とも牧歌的な光景であるが、わざわざ、「昔」と断っているところを見ても、江戸後期にもなって、吉原に馬で通う人間は少なかったのだろうと思う。
「守貞謾稿」では、馬や駕篭、舟での所要料金も記載している。
またもや、1文=30円レートで計算してみる。

馬     並二百文(6,000円) 白馬三百四十八文(10,440円) 日本橋~大門
駕篭   二朱(15,000円) *雨の場合は増賃  小伝馬町~大門
猪牙舟 百四十八文(4,440円)  
屋根舟 四百文~五百文(12,000円~15,000円) 柳橋~山谷堀


ちなみに、現代の小伝馬町から台東区千束までのタクシー料金をみてみると、10km程度なので2,000円弱である。
江戸時代の人は現代人が電車やバスを乗るのと、同じ感覚で歩いていた。現代人が電車やバスを乗り継いで行ける場所にタクシーを使う場合の費用格差よりも、江戸のほうの格差が大きかった。
江戸は贅沢に関してはかなりきっちりと金を払っていた時代だと言えよう。

現代人の感覚からすると、やはり舟で行くのが趣があるように思う。
柳橋は現代でいうと、JR総武線の浅草橋駅の近く。この辺から舟に乗って大川(隅田川)に出た客は、首尾の松を左手に見ながら、吾妻橋を潜る。ほどなくして、竹屋の渡しが見え、舟は支流の山谷堀へ入るため、左に舵を取る。今戸橋を潜ると、舟は船宿へと着く。船頭に酒手をいくらか弾んで、船宿へと上がる。そこからは日本堤とよばれる土手である。日本堤とは壮大な名前だが、もうひとつ近くに堤があったので二本の堤というところから、日本堤と呼ばれるようになったらしい。別名、土手八丁。これは吉原までの距離が8丁(900m弱)だったからそう呼ばれた。気が焦るのか、船宿から駕篭を使う客も多かったという。衣紋坂という堤から一般の道へ降りる坂を下りると、見返柳が見える。吉原への名残惜しさから、客が見返ったという場所である。そこからは、吉原が直接見えないようにわざと屈折された五十間道(三曲りとも言われた)が広がる。やがて、大門が見える。大門は、「おおもん」と読む、と「守貞謾稿」もわざわざ書き加えている。
二間(3.6m)のお歯黒どぶと呼ばれる堀を越え、大門をくぐると、そこにはまさしく異次元空間が広がっていた。


日本堤公園。堤という江戸の面影は全くないが、確かにまっすぐである。今でも、この地には日本堤という地名が残っている。


なんとなく寂しげな見返り柳。今ではあまり見向いてくれる人がいないのだろう。


五十間道。この地形はうれしい。多分、昔と変わっていないのだろう。三曲りと呼ばれた地形がよく分かる。

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水茶屋と笠森お仙

2012年05月15日 | 江戸の風俗
水茶屋はもとはヨシズ張の小屋で、日中に商いをし、日が暮れると店じまいをする出茶屋であった。
当初は街道や神社仏閣などの付近に設けられ、腰掛茶屋とも呼ばれる粗末なものであったが、次第に町内にも増えていった。神社や寺の水茶屋はその後もほとんどが出茶屋であったが、町内の水茶屋は、享保の終わり頃から、座敷などのついた居茶屋が見えるようになる。
水茶屋は現代でいうところの喫茶店であるが、茶酌女が若く綺麗な娘だったところから、娘目当ての男連中が押し寄せるようになる。
寛政以前では、客はお茶の代金のみ置いていったが、後にはお茶代の何倍、何十倍もの金を置いて行く客が多くなった。
水茶屋は見栄っ張りな江戸っ子の射幸心を煽ったのであろう。人々は競うように高い金を置いて行く。上方ではらこうはいかないのであろうが、朱に交わって赤くなったのか、上方から下った歌舞伎作者の並木五瓶もずいぶんと江戸では水茶屋で無駄な金を遣っている。
水茶屋でもっとも有名なのは浅草観音境内の二十軒茶屋である。この茶屋は、参拝客の休憩所であったが、一方では吉原通いの者も休憩するようになり、美女を置くようになった。
水茶屋の全盛期は、田沼時代の直前の明和から安永にかけてで、この頃には一枚絵にも描かれる看板娘が現れるようになる。
ひとくちに水茶屋といっても時期が長いので、初期と後期ではかなり雰囲気も違うのであるが、標準的な水茶屋は表に床几や腰掛けが出してあり、その上にムシロ、さらに座布団が敷いている。店先には朱塗りのかまどがあって、そこには真鍮の茶釜が置いてある。横には「お休み処」と書かれた長方形の行燈が掛っていた。
酒は出せないのが原則であったが、こっそり頼むと腰の瓢箪からお神酒が出てきたこともあるらしい。
水茶屋御法度で「身売り同様のことを致し」不届きである、といった文が見られるところからも、一部では春が売られていた。
天保の改革では厳しい取り締まりにあったせいもあり、天保以降、揚弓屋へと人気が移って行くことになる。

笠森お仙」は、明和五年の秋頃に現れた看板娘である。
お仙は、谷中の水茶屋「鍵や」の看板娘であった。あっと言う間に、鈴木春信が浮世絵に描くほど人気者となり、その当時の江戸三大美女と称賛されたが、お仙の人気は抜きんでいていた。
後にお仙は、御庭番である倉地政之助の女房になる。
今でいえば、人気絶頂のアイドルが公務員に嫁ぐような感じであるが、百姓の出であるおせんにしてみれば旗本の奥方は出世には違いない。
もともと、御庭番は吉宗が紀州から連れてきた信頼のある一七家を基礎としている。倉地家もその一七家のうちの一家であるが、吉宗に同行した政之助の祖父・文左衛門が、笠森稲荷の大の信者だった。政之助とお仙の結びつきも、その縁が大きかったのだろう。
御庭番というのは、公儀隠密であり、その妻となったお仙は、気苦労も多かったであろうが、子宝にも恵まれ、七〇歳の天寿をまっとうしている。


今も人でにぎわう浅草寺

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島流し・2

2012年03月14日 | 江戸の風俗
前回に引き続き、島流しの話。

女犯の罪。
僧侶が女性と通じた場合の罪である。
該当する罰としては、遠島と言われているが、正確には少し違う。

女犯僧の場合、寺持ちの僧と、一般の僧では刑罰が違っていたのである。
一般の僧は、人通りの多い日本橋で三日間の晒し刑を受けた後、寺を追放された。追放は寺法により定められており、厳しさには三段階あった。
通常、町奉行所が僧侶を逮捕した場合は寺社奉行に引き渡すが、女犯に限っては町奉行所の手によって晒し刑を行ったあと、本寺に引き渡した。
寺持ちの僧(所化僧と言った)には、遠島が適用された。
遠島になった僧侶は数多かった。この数を以て、江戸時代の仏教は堕落していたと説明されることもある。
実際に女犯の罪を犯した破戒僧もいたが、実はそれだけではなかった。
話はさかのぼる。
文禄年間(1592~96年)に、日奥{にちおう}が説いた日蓮宗の一派は『不授布施』派と呼ばれた。
「同じ信仰を持たない者からは施しを受けず、供養も受けない」という主張であり、ときの為政者豊臣秀吉と衝突した。
宗教の前には権力者にも逆らう姿勢は、施政側からすれば邪魔な存在でしかなく、徳川幕府も弾圧した。
改宗要求に応じない不受布施派の僧は、島流しとされた。
『御定書百箇条』の五十三条にも、はっきりと不授布施派は遠島にする、と明文化されている。
法難により遠島となった僧侶は400名以上に上ると推定されているが、さすがに時代が下ってくると、幕府も宗教弾圧により僧侶を遠島にする、という考えが不都合に思えたのか、いつの間にか、『女犯』の罪で括ってしまったのである。
自ら信念のために遠島になった僧侶も、『女犯』の罪を被せられるのは、不本意だったに違いない。
遠島になった僧侶の数から単に、江戸時代に助平な僧侶が多かったとの結論を導き出すのは早計であるということになる。


この厳しい宗教弾圧は、明治になるまで続いたが、不授布施派は絶えることなく今に伝えられている。
宗派の寺としては、東京麻布の若松寺などが今日でも存在している。


流刑 段木一行 文芸社
遠島―島流し 大隈 三好 江戸時代選書
江戸の流刑  小石 房子 平凡社新書
江戸町奉行所辞典 笹間良彦 柏書房

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首尾の松

2010年01月28日 | 江戸の風俗
先週、両国から吉原まで歩いてみた。
両国から浅草までは川沿いを歩き、浅草寺を通って待乳山聖天宮を経て、山谷堀、日本堤、吉原大門という道程である。

歩いてみて印象的だったのは浅草寺の賑わい。
外国の人を含め、進むのも困難なくらいの混雑振りであった。

隅田川沿いは歩道が整備され、歩きやすい。
ちらほらと観光目的で歩いている人も見かける。
両国から浅草にかけての見所としては、国技館、安田庭園、首尾の松、といったところ。

首尾の松は隅田川沿いに張り出す見事な枝振りで、江戸時代、舟通いの客にとってもっとも目立つ存在であった。吉原の帰りに客が「首尾はどうだった」と確認を行う場所とも言われたのが、首尾の松の語源とされる。
実際に見に行くと、隅田川からは少しだけ離れた場所にある。この位置だと、安藤広重の絵のように隅田川まで張り出すのは難しいと思える。場所が移ったのだろか。
それに、いかにも小振りである。
現地にあった説明文を読むと、この松は昭和37年に植えた7代目だそうだ。
初代は、江戸初期に植えられたが、安永年間に風害で倒れ、代わりに植えられた二代目も安政年間に枯れたとされる。
松が百年の間にどれだけ大きくなるのか知らないが、少なくとも、安政年間には目印になるほど大きな松の木はなかったことになる。
安政以後はたびたび木は枯れ、明治には「湖畔の蒼松」に改名したというが、重厚すぎるネーミングである。
「首尾の松」の由来にも3種類あるらしいが、吉原通いの客が首尾を確認したという案が一番しっくり来る。



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遊女の格

2009年12月24日 | 江戸の風俗
遊郭の吉原は「江戸のテーマパーク」という一文に出くわした。
吉原は、田舎から出てきた者が必ず見物に行くような憧れの場所であった。
灯りが高価であった江戸時代にあって、夜間でも煌々と焚かれた灯によって不夜城であり、花形花魁は錦絵という、いわばブロマイドによって更に名が広まった。
江戸の二大悪所と言われた歌舞伎にも吉原での出来事は盛んに取り上げられ、吉原は現代にたとえたなら芸能界のような趣を呈していた。
だから、吉原を「江戸のテーマパーク」と呼ぶ言い方があるのだろうが、吉原が人身売買によって成立した売春街であるという事実を忘れてはならない。
江戸研究の大家である石川英輔氏は、豊かな現代でさえ、春を売って楽に金を稼ごうとする女性が多いとし、
「人間の本質がそれほど容易に変わらない以上、江戸時代でも自分から進んで遊女になった人がかなりいたはずだと思うのが常識であろう」(雑学 大江戸庶民事情・講談社文庫)
と書いているが、これは行き過ぎである。
吉原がどんなにきらびやかにみえても、それは虚飾でしかない。中身はもっとどろどろしたものである。

前置きが長くなったが、吉原の遊女にも厳格な格付けがあった。
高級な遊女を花魁(おいらん)と呼ぶのをよく耳にするが、花魁は格を示す言葉ではない。

吉原は、一回移転しているので、移転する前を元吉原、移転後を新吉原(または単に吉原)と区別するが、元吉原が出来上がった当時は

①端(はし)女郎 → 格子(こうし)女郎 → 太夫

という格付けであった。

それが、元吉原後期には、

②切見世(きりみせ) → 端女郎 → 局(つぼね)女郎 → 格子女郎 → 太夫

の5段階となる。

移転後の格付けは、

③切見世 → 局 → 散茶 → 格子 → 太夫

となり、さらに、

④切見世 → 局 → 梅茶 → 散茶 → 格子 → 太夫
となる。

この中の散茶というのは、振らないでも出る挽いた茶のことであり、「客を振らない」に引っ掛けた言葉である。
さらに、挽茶を薄めたという洒落から「梅茶」なる格も生まれた。
ここまで続いた最高位の太夫とは、もとは舞台芸人の統領の呼び名であったが、時代が下ると吉原でも用いられるようになった。
太夫の呼び名は有名なので、江戸末期まで存在したかというと、さにあらず。吉原が移転した際には、20~30名ほどの太夫がいたとされるが、安永九年(1780年)に太夫格の女郎はいなくなったと言う。
これは、吉原の上客が武士階層から商人層に移行したという理由もある。商人は格式の張る太夫よりも、もっと実利ある女郎を求めたのである。
太夫がいなくなってからの格はそれまでのものとは、かなり変わる。

⑤切見世 → 部屋持 → 座敷持 → 附廻 → 昼三 → 呼出

太夫に代わり最高位となった呼び出しは、客の呼び出しがあるまで自分の部屋で待機し、呼び出しがかかると客の待っている茶屋まで行く遊女である。
昼三は、昼でも夜でも、揚げ代が三分かかる遊女。附廻とは、昼二の別名のとおり、揚げ代が二分の遊女。
座敷持ちは居室のほかに座敷、つまり2ルーム持っている遊女で、ここまでが上級とされた。
それ以下の遊女の揚げ代はピンキリで、切見世だとチョンの間(10分)百文という相場もあった。
もっとも、10分ではあまりにも短いため、あらかじめ客は2倍か、3倍の金を払うことが多かったという。

呼出の揚げ代は、1両1分=四千四百文であるから、切見世の揚げ代が仮に二百文とすると、二十倍の格差があることになる。

江戸300年 吉原のしきたり 渡辺憲司 青春出版社
吉原入門 永井義男 学研

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P.S.クリスマス・イブに書いていたのかあ。7年前はどんなクリスマス・イブだったんだろう?


江戸の落語

2009年09月22日 | 江戸の風俗
日本人は独自の『笑い』を持った民族である。
西欧人にとって笑いとは可笑しいか、相手を侮蔑する時以外には発せられない。
しかし、日本人は照れくさい時にも笑うし、相手を拒否する時にも笑う。
「顔で笑って、心で泣いて」というように、悲しいときでさえ笑うことがある。
ジャパニーズ・スマイルと言われ、「日本人は無表情か、薄ら笑いを浮かべているかのどちらかだ」と表現されるように、あまり評判のいいものではない。

では、どうしてこのような笑いが発生したかというと、日本人は古来、笑いの中には邪悪なものを追い払う力がある、と思っていたからである。
たとえば、村の中で悪い行いをした者がいると、悪い行為をしたその本人が悪いのではなく、邪悪な霊がその人の悪い行為を行わせたと考えた。
その時、村人は、悪い行為をした者を取り囲んで嘲笑した。笑いにより、邪悪な霊を取り除こうとしたのである
時代が下ると、邪悪な霊を追い払う、という儀式的な面は忘れられ、「笑いものにされる」といった表現に見られるように、マイナスのイメージだけが残るようになる。
今でも神事の際には「笑い祭」などが全国に伝わっているが、元来、笑いは宗教的なものであった

その笑いは、神事や民俗芸能には伝承されていたが、落語としてきちっとした形態を帯びるようになるのは、寛政の頃である。
それ以前にも、辻話として、落語の萌芽は芽生えていた。
延宝年間((1673~1680年)から元禄にかけて、京に露五郎兵衛、大坂で米沢彦八、江戸で鹿野武左衛門が現れた。
三人とも非常な人気を博したが、現在も伝わる『寿限無』は彦八の考案である。
一方、他のふたりよりやや遅れて現れた武左衛門は、他愛もない話を書いたに過ぎないが、評判の大きさから幕府から咎めを受け、伊豆大島に6年間に亘り流罪になっている。

寛政に入ると、江戸では三遊亭可楽三遊亭円生、上方では桂文治が現れた。
この三人が落語の祖といってよいだろう。
文化・文政期になると、三遊亭円朝、柳家小さんといった現在に残るビッグネームも次々に登場している。

その後、天保期には水野忠邦の改革により、寄席が大激減させられるという打撃を受けるが、改革が終わるとそぞろ復活し始め、明治に至る。
ちなみに、この天保期、寄席を潰すことに大反対したのが遠山の金さんこと、遠山左衛門丞であった。

日本人の歴史(樋口清之)講談社

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