木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

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2012年12月31日 | 日常雑感
私は性格的に色々問題のある人間だというのは自分でも実感している。
不平とか不満が溜まりやすく、自己嫌悪にも陥りやすい。
そんな自分ではあるけれど、これまで凶悪犯罪にも手を染めなかったし、精神的にも病院に通うほどではない。
それは一重に「書く」という行為のおかげだと思っている。
さまざまな辛いことが起こるのが人生だ。
そんなとき、うまくかわす人、正面からがっぷりと立ち向かう人、色んな人がいる。

私の場合、立ち向かうが負けてしまうと自己嫌悪になる連続だった。
そんな負けた場合でも、「書く」という行為が自分を救ってくれた。
「うるせえ、お前の書いたものなんか、誰も読みはしねえ」
と言われるかもしれない。
それでも書くことを止められない。

酒を飲むこととか、泳ぐことというのは、趣味なのだが、「書く」というのは、自分そのものなのだから。

今日、大みそかは、「書く」ことに感謝する日。
そして、拙文を読んでいただいた方に感謝する日。
来年がみなさまにとって、いい一年でありますように。
ありがとうございました。
合掌。

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モモンガの爪攻撃

2012年12月30日 | モモンガ
モモンガを部屋で遊ばせるときは危険物の少なそうな決まった部屋で行う。
キッチンのような場所で放すと危険なだけでなく、冷蔵庫の裏辺りが気に入って出て来なくなるときがある。
安全だと思っても、何があるか分からないので、目をはなさないようにしているのだが、ふといなくなってしまうときがある。
カーテンの裏辺りが怪しいと思ってめくると、エイリアンのように顔の向かって飛んでくる。
やめてくれよ、心臓に悪いから。

またあるときは、頭上からランボーのように背中に急速落下。
モモンガの爪は鋭く、服の上からでも十分に痛い。
厚着の冬はいいだろうと思っていると、服の裾から直接肌に侵入。
パジャマの下から侵入してきて、襟のところから、がばっと顔を出す。
またもや、エイリアンモード。
これを繰り返されると、肌に軽いミミズ腫れのような痕が残る。
痛むほど深いものではないが、少々痛痒い。
傷に気が付かずに、プールに行ってしまって、カッコ悪かった!



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切腹

2012年12月29日 | 武士道の話
切腹の話。

現代の感覚からすると、江戸時代には切腹が数多く執り行われていたように錯覚しがちであるが、実際は意外なほど少なかった。
戦乱の時代、切腹は戦場に咲く華であった。
負けを悟った際、自ら腹を掻き捌いて、大見得を切りながら死ぬのは勇猛な武士の最期として誠にふさわしかった。
徳川の御代となり、太平の時代が続くと、戦場はなくなったが、仇花である切腹は残った。

徳川幕府が興って八十五年後の元禄から享保年間にかけて、武士道という考えが発生し、古実・伝習などの作法を知っていることが武士の嗜みとされた。
かつて戦場においては豪快に腹を搔っ捌けばよかったのであるが、数々の手順に従わなければ、切腹もできなくなった。

伊勢貞丈の「凶礼式」山岡敏明の「切腹考」工藤行広の「自刃録」、「切腹口決」星野葛山らの「武学拾粋」など、いわゆるハウツー本が江戸中期には盛んに刊行された。
切腹の作法を知っていることが、武士の教養として求められたのである。

天保十一年に上州沼田藩士・工藤行広が表した『自刃禄』の頃になると、かなり具体的な内容になっている。
 
『切腹の作法は、其座に直り候と、検視へ黙礼し、右より肌を脱、左へと脱終り、左手にて刀を取、右手に持替、左手にて三度腹を押撫、臍の上一寸計を上通りに、左へ突立、右へ引廻す也。或は臍の下通りが宜しと云う。深さ三分か五分に過ぐからず、夫より深きは、廻り難きものなりと云』

ここには丁寧に腹の切り方が書いてあるが、実際に行われていたのは扇子腹という方法である。
三宝の上に置かれた九寸五分の短刀に手を伸ばした途端、介錯人が首を刎ねる手筈になっていた。しかも、三宝の上に置かれるのは短刀ではなく、扇子である場合が多くなっていた。

幕末になると、状況が変わってくる。
慶応四年二月の土佐藩士によるフランス人海兵殺害、いわゆる堺事件の責任をとって十一名が割腹した。
またイギリスの外交官・アルジャーノン・B・ミットフォードの著《TALE OF OLD JAPAN》(昔の日本の物語)に紹介された例も有名である。この例は、慶応四年一月、神戸事件の責任から備前藩士・滝善次郎が古来の作法に則り切腹している。

もっとも、滝善次郎の例は、新渡戸稲造が「武士道(シヴァリー)」で紹介してから一躍有名になったという。
太平洋戦争で武士道だとか、割腹自殺などが喧伝されたのも、「武士道」の影響が大きい。

切腹が我が国民の心に一点の不合理をも感ぜしめないのは、他の事柄との連想の故のみではない。特に身体のこの部分を選んで切るのは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。

それ(切腹)は洗練されたる自殺であって、感情の極度の冷静と態度の沈着となくしては何人もこれを実行するを得なかった。(武士道)


アメリカ大統領のトルーマンは「ナチュラルな死を不道徳と思えばこそ、やつらはハラキリで飛ばしてくるのだろう。まともに相手をしていられぬとあれ(原爆)を試してみることにしたのだ」(トルーマン回顧録)と語っているが、この言葉は「武士道」の読後感だという説もある。
つまり、「武士道」の存在が原爆投下と直接関わっているというのである(八切止夫「切腹考」)。

トルーマンの説は詭弁に過ぎないが、切腹の本質を碧い眼の外国人が理解できなかったとしても無理はない。なにせ、江戸時代も遠くなった昭和期にあって、日本人にしろ、切腹の意味について理解しているかどうか疑問であったからだ。
切腹を「桜は潔く散る」だとか、白装束に赤じゅうたんのような様式美として捉える人も多い。
だが、有名な「花は桜木 男は武士」などというもっともらしい言葉は後世に作られたものに過ぎないし、私たちが切腹と言われて思い抱く光景は、多くが歌舞伎の演出による部分がほとんどである。

通常、切腹の座には白木綿五幅とあわせ風呂敷を敷いた。身分の高い切腹人の場合は、畳三畳のうえに、一畳の布団を敷くことになっていた。
赤毛氈を敷くのは、畳に血が通らないための工夫であって、美的な効果を狙ったものではない。
切腹が庭で行われる際には、敷物を敷いたが、これは呆然となっている切腹人が履物をうまく履けない場合が多かったためだ。
赤穂浪士の切腹も時間の都合上、切腹の儀式はほんの少しで、実のところは斬罪でしかなかった。
新渡戸教授が絶賛したような「極度の冷静と態度の沈着」を持った武士ばかりがいた訳ではなく、だまし討ちのように首を落とした例もある。
「武士」の中にも、いろいろな人間がいたということだ。今の世の中だって、臆病な自衛官がいるかも知れない。
いつの世も、ひとくくりで語れないのが人間である。

あまり語られないようだが、武士が腹を切るには、重大な訳があった。
なんらかの嫌疑を掛けられた武士は、釈明の場を与えられる。
その際、出頭して申し開きができなければ刑に服すことになる。罪人を出した家は、当人の処罰には留まらず、禄は没収され士籍は削られる。
いわゆる御家断絶である。
自刃して病死との届けを出すと、本案は不起訴となり、処刑を免れる。
天保の改革の中、譴責を受ける予定だった柳亭種彦は直前になって死んでいる。
もともと言いがかりに近い譴責だったが、逆に言えば、罠であるから、どのように取りつくっても申し開きができない可能性が高かった。
種彦には病没説もあるが、このタイミングの死は、自害の可能性が高い。
現代でも政治家や秘書などが重大な裁判の前に自殺をする場合があるが、似たような考えなのかも知れない。

江戸時代は病気による若死にが多いが、届出は病没でも実際は自害である場合が多かった。
これらは公式の記録では病死であるので、正確なところは分からない。
自害したとしても、腹を切って死んだかどうかは、なおさら分からない。

SEPPUKU CEREMONY(youtubeの映像)

徳川刑罰図譜


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サンタクロース追跡!

2012年12月24日 | 日記
早いもので、今年もクリスマスの季節がやってきた。

科学の発達はすごいもので、昨今では、そりに乗ったサンタクロースの追跡が可能となった。
わくわくする試みなので、ぜひ、見て欲しいと思います。

それでは、よいクリスマスを!

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サンタクロース追跡!

2012年12月24日 | 日常雑感
早いもので、今年もクリスマスの季節がやってきた。

科学の発達はすごいもので、昨今では、そりに乗ったサンタクロースの追跡が可能となった。
わくわくする試みなので、ぜひ、見て欲しいと思います。

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 すみません・・・。

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モモンガとハゲ

2012年12月11日 | モモンガ


生き物の値段を語るのは非常に下品だと思うが少しお許し頂くとして、モモンガの生体は、オスよりメスのほうが高い。
ショップの女性に聞くと「メスは子供を産めますし、オスはハゲが出ますから」との答え。
もし私がツルッパケだったとしても、あの店員さんは同じ答えをしたのだろうか。
モモンガと同居の諸先輩は、当に御存じだと思うが、モモンガのオスは大人になると頭のてっぺんにハゲができる。
まだら模様と言ってもいい(よくないか!?)のだが、やはり呼び名としては、ハゲが相応しい。
人間の価値観をモモンガにまで押しつけるのはいかがか、と思う。

今日見たら、うちのモモちゃんにもハゲが。
そろそろ、大人なんだなあ。

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努力量は嘘をつかない?

2012年12月11日 | 水泳


今日は東海地方も全般的に雪。
とても寒い一日になった。
積もるかと思った雪も名古屋市内は、ほとんど積もらなかった。

先日、同年代のトップスイマーの人と話していて強く思ったことがある。
世の中には有意義な努力と、意味のない(あるいは、とても効率の悪い)努力がある、という点だ。
私の水泳に費やす時間は、多分、先のトップスイマーの方より多いと思う。
もともとの才能もあるのだけれど、それにしても、このタイム差は「才能」の一言では括れないほどの差だ。
ではどこに、練習の差があるのか?
答は簡単で、頭を使って練習しているか、いないか、だ。
戦略、といってもいいのだろうけど、目的は何で、その目的のためにはどのような練習を、どのような強度で、どれくらい行えばよいのか。
そのようなことも考えないで、水泳雑誌に載っていた練習を思いつきのように行っても、効果は薄い。

これは水泳に限ったことではない。
たとえば、小説の執筆だって同じだ。
自分の弱点はどこで、強みはどこなのか。
弱点を矯正しつつ、長所を伸ばすにはどうすればいいのか。
小説家を目指す者すべてが、司馬遼太郎や池波正太郎、あるいは藤沢周平になれる訳ではない。
自分なりの長所を生かして行ったものが勝つ。

努力は自分のもの、結果は他人のもの、という言い方があるが、どうだろうか。
努力する自分に酔っていては、決して進歩はない。
時間は限られている。
人生を生き抜くためには、羅針盤と海図が必要だ。

今回も水泳からまた教えられた。

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与謝野晶子と写真

2012年12月07日 | 人物伝
私が繰り返し観た映画で一番回数が多いのは「ブラックレイン」だと思う。
マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシア、松田優作といった俳優陣の名演技、脚本の確かさ、日本を舞台にした親近感などもあるのだろうが、なんといっても、音楽がいい。
この音楽を担当したのは、ハンス・ジマー。
「クール・ランニング」「グラディエーター」「ブラックホークダウン」など数多くの映画の中にとてもいい音楽を提供している。

いきなり映画の話から入ってしまったが、歴史上の人物でも、人気の高い人には、いい写真が付きものだ。
以前にも書いたが、たとえば、松平容保。
一番有名な例の烏帽子姿の写真は、悲劇の主人公としての容保をすべて表している。
坂本龍馬の懐手をしながら立っている写真もしかり。
寝起きを起こされて眠かっただけとも伝えられているし、近眼せいもあったようだが、目を細めて立つ姿は未来を予見しようとしている姿にも見える。

逆の例もある。
「汚れちまった悲しみに」の中原中也はあの詩のように純真無垢な青年ではなかったと思うのだが、これまた例の帽子を被った写真によって、名声を高めたような気がする。

与謝野晶子、詩人、堺生まれ。明治11年(1878年)12月7日~昭和17年(1942年)5月29日。
今日、12月7日は与謝野晶子の生まれた日である。

晶子はバイタリティの人である。
12人の子供を産み、残した詩は5万首以上。
お茶ノ水にある専門学校・文化学院の創始者の一人でもある。

晶子は先に述べた人たちのような代表的な「これ」といった一葉がなかった。
今でも人気のある晶子であるが、「ベストショット」があったら、もっと人気があったに違いない。
なにしろ、

柔肌の熱き血潮に触れもみで悲しからずや道を説く君

と詠む晶子である。
中原中也ばりの写真が残っていたら、男として「何か」を思わない人間は少数派だと思う。

ちなみに、夫・与謝野鉄幹は下戸に近かった。
晶子はかなり強かった。
「飲んでも酔わないし、旨くないもから、酒は飲まない」と言っていたそうだ。
なんとなく、与謝野家の位置関係を暗示しているような気がする言葉だ。

三田村鳶魚の本を読んでいたら、偶然、晶子の話が出てきた。
東京に出てきた晶子は、セイロに乗ったザルそばの食べ方が分からず、汁を蕎麦の上に全部掛けてしまった。
当然、下から汁が漏れて困ったそうだ。
当惑して「ワヤやわ」と関西弁で叫んでいる晶子の姿が目に浮かぶようだ。


出回っているのが、この写真だったら、まだいいような気がする。

文化学院による「与謝野晶子の履歴書」

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