木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

山岡鉄舟~西郷隆盛との会見

2011年05月14日 | 江戸の人物
山岡鉄舟(山岡鉄太郎高歩{たかゆき})天保七年(1836)~明治21年(1888)は、剣豪として名高いが、ひとりも人を斬ったことのない、不殺の剣士でもある。
北辰一刀流の遣い手として、千葉周作の玄武館や、幕府の講武所で剣を学び、頭角を現した。
その一生を見ていくと、驚くほどの頑固さと、驚くほどの素直さが同居しているのが分かる。
凝り性で、自分が信じた道は、人から何を言われようと曲げようとしないのであるが、間違いが分かれば素直に頭を下げることもできる人物だった。

鉄舟の名を一気に有名にしたのは、慶応四年三月八日、駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた西郷隆盛との会見である。
JR静岡駅から歩いて5分ほど行ったところに隆盛と鉄舟の会見碑がひっそりと建っている。
場所は、旧東海道である伝馬町通りと北街道が交わる江川町交差点の手前、ペガサードというビルの前になる。
この会見は、勝海舟の使いであって、鉄舟には全権は委任されてはいなかったが、強い信念を持った鉄舟の態度は、権限とか責任などの枠を超えて、隆盛の胸を強く打った。
その証拠に西郷側から提示された五つの条件のうち、徳川慶喜を備前に預けるという項目についての譲歩を得ている。

この会見の内容については、鉄舟が岩倉具視の求めに応じて書いた「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ赴イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」に詳しい。
何事も大げさに言う癖のある勝海舟の書であったら、割り引いて読まなければならないのだろうが、鉄舟の文であるから、そのまま素直に読んでいいと思う。下記が部分部分の抜粋である。

大総督府の本営に至るまでに、もし自分の命を奪う者があったなら、非はその者にある。わたしは国家百万の生霊に代わってことに及ぶのであるから、生命を捨てることになろうと、それはもとよりわたしの望むところである。(略)

六郷川を渡ればすでに官軍の先鋒が達しており、左右に銃隊が並ぶ。その中央を通っていったのだが、止める者はいなかった。隊長の宿舎と思われる家に至ったので、案内を請わず中に入り、隊長を探したところ、そう思われる人がいた。
大声で「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎。大総督府に行く!」と断ると、その人は「徳川慶喜、徳川慶喜」と二度ほど小声で言うのみ。この家に居合わせたのは、およそ百人ほどと思われたが、誰もなんとも言わない。ただ、わたしのほうを見ているばかりである。(略)

(静岡にて)しばらくして、西郷氏がわたしに言ったのは、「先生は官軍の陣営を破ってここに来ました。本来なら捕縛すべきところなれども、よしておきましょう」というもの。わたしが「縛につくのは望むところです。早く縛ってもらいましょう」と答えると、西郷氏は笑って「まずは酒を酌みましょう」と言う。数杯を傾けて暇を告げれば、西郷氏は大総督府陣営の通行手形をくれたので、これをもらって退去した。(略)

(後日)大総督府の参謀より、急ぎの用があるので出頭すべし、とのお達しがあった。わたしが出頭すると、村田新八が出て来て、「先日、官軍の陣営をあなたは勝手に通っていった。その旨を先鋒隊が知らせてきたので、俺と中村半次郎で追いかけて斬り殺そうとしたが、あなたはとっとと西郷ところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった。あまりの口惜しさに呼び出してこのことを伝えたかっただけだ。別に御用の向きはない」と言う。わたしは「それはそうであろう。わたしは江戸っ子で足は当然速いのだ。あなたがたは田舎者でのろま男だから、わたしの速さにはとても及ばないだろう」と言って、ともに大笑いして別れた。

この文から読み取れるのは、武士道というよりもフェアプレイの精神ではないだろうか。事の是非は是非として、後に一塵の遺恨も残さない。
そして、命を賭けて、一大事をなそうとする精神。
ともに、現代に欠けているものに思われてならない。

西郷隆盛に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり」と言わせ(西郷南洲遺訓)、勝海舟に「山岡鉄舟も大久保一翁も、ともに熱性で、切迫のほうだったらから、かわいそうに若死にをした。おれはただずるいから、こんなに長生きしとるのさ」(氷川清夜)と言わせた鉄舟。
ふたりの言葉通り、鉄舟は金とも名誉とも無縁に生きた。
晩年は剣と禅に深く関わって生きたが、単なる朴念仁ではなかった。落語家の三遊亭円長をはじめとした幅広い交友関係もあり、ユーモアの感覚も持ち合わせていた。
鉄舟に金千円を貸した松崎某は、後日、一筆取っていないことに気づき、鉄舟に借用書を書いてくれるように頼んだ。
そこで鉄舟が書いたのが下記の文句である。

なくて七癖、わたしのくせは、借りりゃ返すのがいやになる
右に記したような癖があるから、俺の借金の証文なんて意味がないが、もらうのだったら多少のところは構わない


松崎某は借金を踏み倒されるのかと、愕然として知人に相談したところ、知人はあの山岡鉄舟が書いた洒脱の借用書は価値があると言い、千円で買いたいと言い出す。
松崎某はそれを聞いて、この証書を家宝とした。後日、鉄舟が返金に来ると、金はいらないから、この書は手元に留めたいと言う。鉄舟は仕方なく、その書に加え、数千枚の墨跡を書いて渡したということである。

困難も人のせいだと思うとたまらないが、自分の修業と思えば自然と楽土にいるように思えるものだ(鉄舟)

参考文献:最後のサムライ 山岡鉄舟(教育評論社)
       図説幕末志士199 (学研)
       氷川清話(角川ソフィア文庫)
       西郷南洲遺訓(岩波新書)
       戊申戦争(中公新書) 佐々木克著


伝馬町の鉄舟・隆盛の会見碑


鉄舟の書になる清水港の壮士の墓


鉄舟の父は飛騨高山の郡代であった。鉄舟は十代半ばまで高山に住んだ。

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