木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

地上5センチの恋心

2008年04月28日 | 映画レビュー
「地上5センチの恋心」という映画を観た。フランス映画である。
どうもフランス映画というと、ひねった結末が多いので、個人的にはあまり好きではなかったのであるが、この映画は、アメリカ映画以上に古きよきアメリカ映画的であったように思う。
スランプを迎えた人気作家と未亡人というメロドラ風になりそうなところを、コメディを加えて、うまく演出している。
この中で、作家がつぶやく言葉が胸に残った。

多くの人は、間違った場所で幸せを探している。
幸せになるには、まず自分を認めること。


監督のエリック=エマニュエル・シュミットは、インタビューの中でこの映画について、以下のように語っている。

大事なのは私たちが心の奥に持っていて、今の社会生活によって抑えられている生きる喜びを解き放つことです。オデットがバルタザールにまなざしを向けたように、幸福とはまなざしの問題です。ですから次はバルタザールがオデットにまなざしを向けることで、再び幸福が生まれるのです。

マザー=テレサは言っていた。「愛情の反対の言葉は憎悪ではなく、無関心である」と。
今の時代は、まなざしが必要な時代だ。

この映画で、一番面白かったのは、サイン会で主人公があこがれの作家を前にして、緊張のあまり、自分の名前=オデット、が言えずに、デットとしか言えなかったところである。作家は、デット(debt=借金)とサインしてしまう。映画の予告編でもその場面がちらっと出てくるが、カトリーヌ=フロという女優の演技が見事にコミカルである。
バックを流れる音楽は、ジョセフィン・ベイカー。
結構、おすすめ。

地上5センチの恋心公式HP

肥桶ひとつ 中身の値段は?

2008年04月27日 | 江戸の風俗
お待たせの第2段(????!)
お食事前の方と、興味のない方は、くれぐれもお読みにならないように。
前回は、渡辺信一郎氏の「江戸のおトイレ」から排泄の「小」についてピックアップしたが、今回は、「大」である。氏の筆は淡々としているが、ますます冴え渡る。

お姫さまでも 左お捻じり

「ほとんどの辞書には載っていないが」と断りを入れながら、「江戸時代で、左ねじりとは、人糞の異称であった」という。
今風に言ったら、「アイドルでも 左ねじり」であろうか。高貴なお姫様でも、排泄は人並みであろうと言う句である。「お捻じり」と「お」を付けているところが丁寧である。
寛政年間の小咄集「軽口四方の春」からの「奥様の野遊び」と題された小噺もえぐい。
断っておくが、尾篭な話である。以下、引用。

れきれきの奥様、野遊びにお出になされた時、とても顔色が悪く見えたので、腰元どもが心配して、「どこかお悪くございませぬか」とお尋ねすれば、「いやいや、どこも悪くはないが、うらむきへ行きたい」とおっしゃるゆえ、「そんなら、ここなる野雪隠へなりともお出になさりませ」とお薦めする。お入りになると、じきに出られたから、なぜにと問えば、「下に大きなばばがしてある。後に入った人が、わたしのだと思うと恥ずかしい」。腰元が「それならば、下に延紙をたんと撒き散らして置いて、その上になさりませ」と言うと、奥様は成るほどとて入る。しばらくして、殊の外不満足な顔をして出て来られる。腰元がどうでしたかと聞くと、「お前の言う通りにしたが、紙の上にしたわたしのばばは、下のよりもまだ大きかった」

この「江戸のおトイレ」は、厚い本ではないが、薀蓄はすさまじく、江戸のトイレ百科事典と言ってもいいような内容である。おならに関する項目も面白いのだが、女郎屋の次の句も凄い。

女郎屋の後架 摘入汁(つみいれじる)に海苔

後架はトイレ、摘入汁とは魚肉と小麦粉をすりつぶして団子状にして煮た汁である。女郎がよく食べたらしい。この句の作者は、物好きにも穴の中をしげしげと眺めたのであろう。
この先も渡辺氏の知識はとどまるところを知らないが、これ以上は、引用するのを遠慮しておく。

最後に同著の中から、薀蓄をひとつ。
長屋の後架に溜まった汚物は、近隣の農家が引きとり、代価が支払われた。その代価は、大家の取り分になったのであるが、どのくらいで取引されていたのであろうか。
渡辺氏は、幕末近くの「守貞漫考」と、それより九十年以上前の「武野俗談」の二書を引いて、類推している。前書によると、十軒の肥代が年二、三分。後書によると、百軒の肥代が年八両とある。一両=四分=四千文であるから、一軒当たりに換算してみると、前者が三百文、後者が三百二十文。肥代は、時代によって大きな隔たりがあったというが、平均してみると、こんなものなのであろう。
ここで、私流であるが、一両=12万円と考えると、一軒当たりの年間肥代は9000円、月750円(二十五文)となる。そばが十六文であるから、一軒当たりの肥代では、月二杯は食べられなかった計算になる。
蛇足ながら、現代では、吉野家の牛丼が確か380円だったと思うので、牛丼二杯くらいの値段か。
さて、渡辺氏であるが、汲み取った肥桶、一つあたりの単価まで弾き出している。それによると、1つの桶が三十三文であるということだ。先ほどの計算式を当てはめると、桶ひとつ1000円という計算になる。

参考:渡辺真一郎「江戸のおトイレ」 新潮選書

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京女 くるり捲くって 立ち小便

2008年04月18日 | 江戸の風俗
古書店で「江戸のおトイレ」という本を入手した。
著者は、元深川高校校長の渡辺信一郎という方である。裏表紙の写真を見ると、少しいかつい感じだが、ごく真面目な方のように見受けられる。
しかし、本をめくって、びっくり。あまりに赤裸々な、江戸庶民の排泄に関する情報がぎっしりと網羅されている。これだけの知識を得るには、相当な時間が必要であったに違いない。ことあるごとに知見を蓄積していかないと、とてもこのような濃い内容のものは書けない。名著である。手元の本は2002年の初版であるが、渡辺氏は残念なことに、2004年に亡くなられている。合掌。
さて、本題に入る。
ちょっと、尾篭な話なので、興味がない方は飛ばして頂きたい。
以前、アメリカ映画で、飛び散って便器が汚れるというので、座って小便をさせられる夫が描かれていた。
男性は立って事を済ませ、女性は座って事を済ませるのがごく一般的である。
江戸時代においても、江戸の町では、それが当たり前だった。
しかし、京都では違ったという。大田南畝の作った戯れ歌に次のようなものがある。

いなかにまさるきたなさは
のきをならぶる町中で
おいえさんでもいとさんでも
くるりとまくって立ち小便


「おいえさん」とは奥様、「いとさん」とはお嬢様を指す。
強烈な戯れ歌であるが、もっと強烈な引用もある。「静軒痴談」という書物からのものらしい。

京師の貴き女は、被(かつぎ)というものを蒙(かぶ)るよし。賤しきも推しはかるべし。然れども被きながら、途中にて浄手(ちょうず)することは、憚らぬ(はばからぬ)よし。

江戸時代、人糞が肥料として使われ、有料で取引されていたのは有名であるが、江戸では、大と小はきっちりと分けられ、小は、肥料として利用されなかった。大小混じっているのは、「混じりもの」として引き取り拒否されることもあったと言う。
しかし、京都や上方にあっては、小も有料で取引されていた。特に、京都は、店先のあらゆるところに桶が置いてあり、尿意を覚えた人々は男女問わず、その桶の中に放尿したと言う。
そこで、冒頭の句である。
女性も、人目を憚ることなく、桶目掛け、放尿したのである。
さらには、被りものをするような高貴な女人も、立小便は、恥ずべき行為ではなかったと見えて、普通に放尿している。桶に入った尿は月6回程度、引き取りに来るといい、その尿代は、
桶を置いた店の者のものになるというから、現代の感覚でいうと、飲料水の自販機を置くような感覚だったのだろうか。
もっとも、女性の立ち小便は、京都に限ったことではなく、田舎へ行くとごく普通に見られた光景であったそうだ。
しかし、江戸では、そういうことはなく、桶もなかった。

江戸を見よ 小便などは 垂れ流し

などと言う句もあり、田舎から江戸に出てきた者が天水桶(火災に備えて水をいれておく桶。よく飲食店などの店先に置かれた)を見て、それに小便をしようとして止められたなどの笑い話もある。
特に女性は困ったであろうが、盛り場にあった貸しトイレは、一回五文というのが、相場であったようである。

次回は、大について引用したいと思っている(しつこい?)。

参考:「江戸のおトイレ」 渡辺信一郎 新潮選書


男性用のトイレには、よくこのような「教歌」が貼ってある


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坊ちゃんが、さぼっていたので吃驚(びっくり)!

2008年04月15日 | 江戸の話
坊ちゃんが、さぼっていたので吃驚(びっくり)!

冒頭から、一体なんのことだろう。
何かを覚えるための語呂合わせ?
何かのパロディ?
いえいえ、これは、全部、江戸時代には口にされなかった言葉なのである。
江戸において、坊や、坊主、坊などの言葉は使われたが、坊ちゃんという言葉は使われなかったようである。坊様という語が坊ちゃんに当たる語として使われており、坊ちゃんそのものは、明治以降の語である。
サボるは、フランス語の労働争議での怠業を意味するsabotageから来ており、びっくりは、ドイツ語Wirklichに語源があるとされる。これらも、江戸の時代においては、まだ登場していない。
「だぶる」なども英語のdoubleからきており、同様である。
では、次は、どうだろうか。

非常口から出た、かまととなおてんばが、群集の中に消えた。

勘のいい方ならお分かりであろうが、これは、全て江戸時代には既に使われていた言葉である。
どれも、江戸時代においては、あまり似つかわしくないような語感であるが、非常口は、江戸時代には既に使われていた。
かまととも、幕末には使われていた言葉である。ただし、江戸では一般的でなく、上方言葉であった。蛇足ながら、意味は「誰でも知っているようなことをわざと知らないような振りをして、無邪気を装うこと」である。一定の年代であれば「ブリっ子」という言葉が懐かしく思いだされるかも知れない。
おてんばは、オランダ語に語源があるという説もあるが、詳細は不明である。しかし、近松門左衛門も使用しており、軽はずみな女性を指した。
群集は、江戸時代には「くんじゅ」と読まれたのであるが、意味は現代で使う意味と変わらない。
当然であるが、江戸時代では、意外な言葉が使われていたり、意外な言葉が使われていなかったりする。

松村明 「江戸ことば 東京ことば辞典」 講談社学術文庫

帯と貞操

2008年04月04日 | 江戸の風俗
着物と帯、どちらが早く誕生したのであろうか。
これは、妙な質問で、大概の人が、着物のほうに決まっていると思うのではないだろうか。

話は江戸時代を遠く飛び越えて、古代までさかのぼる。
人々は、裸で暮らしていたが、恥部を隠すのに帯を巻いていたいたという。だから、衣服より先に帯ができていたという主張がある。しかし、それは帯ではなく、褌ではないか、と思うのだが。

少々ロマンチック(?)な別な説もある。
それによると、古代人は、適齢期になった者は互いの腰に帯を結んで、夫婦契約の固めのしるしとしたという。帯が呪術的なシンボルとなり、恥部を隠し、貞操を守ることになったという。このように帯と貞操には、深いつながりがあり、当事者である夫婦以外に、帯に触らせることはなかった。
これは、ドイツの学者ラッツェルという人物の主張したものだということであるが、日本でも「結ぶ」ということには、指切りからも分かるように「契る」という意味がある。

この説によると、裸体の原始人も最初は、契約のために一本の蔓草を巻いたに過ぎなかったのであるが、その草が二本になり、やがて三本、四本と増えていって、衣服に進展していったという。
人間の心理であるが、お隣さんが、腰に二本の草を巻いたら、自分は三本、すると、向こう隣は四本というように、増えて行ったのである。
今度は、本数だけでなく、創意工夫が加わり、草が段々衣服らしくなっていった。
そうすると、草が衣服になっていく経過には、人間の見栄というものが多分に働いていることになる。

裸の「ヒト」が衣服を着るようになったのは、羞恥心や利便性からではなく、見栄からだったと考えると、なかなか興味深いものがあるのではないだろうか。

帯の趣味 石崎忠司 徳間書店