木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

作為について

2010年02月14日 | 日常雑感
僕の両手には神秘十字線と呼ばれる手相が刻まれている。
この神秘十字線というのは、頭脳線と感情線の間に刻まれた十字線のことで、この相を持つ人は直観力に優れているといわれている。
そのせいか、小さい頃からスピリチュアルな事柄に興味があった。
占いにも興味があって、タロット占いなどはセミプロだったこともある。
この占いというのは不思議なもので占われる人が友人だったりして、個人情報をよく知っていると、当たらなくなってしまうことが多い。
人のことは占っても、自分自身はけっこう、優柔不断だったりする。
こうあって欲しいとか、自分の得になる判断をしようなどと考えると、途端に直観力は鈍る。
「この人の占いは当たるんですよ」などと誰かを紹介された場合も、的中率は鈍る。
作為が現れると、だめになってしまうのである。

文章なども同じだ。
いい文を書いて人をうならせてやろう、などと考えると、どこかで聞いたような陳腐な文になるか、耳障りな文になってしまう。
与謝野晶子の「君死にたもうなかれ」が人々の心を捉えるのは、技術の問題ではなく、ハートの問題である。

愛知県の大口町にある堀尾跡公園には、裁断橋という橋が復元されている。
この橋の擬宝珠には、豊臣秀吉の小田原北条攻めの際に命を落とした兵士の母親の手になる文が刻まれていた。
作為のまったくない、感情の吐露は、読む人の心を打つ。

生き方にしても同じなのではないだろうか、と最近思う。
かっこよく生きようなどと思うと、困難に当たったとき逃げたくなる。
障害のない道をスマートに歩こうと考えるのも、でこぼこの道を必死に歩こうとするのも、どちらも考え方である。
障害のない道を歩くほうが遠くまで行けるのかも知れない。
だが、新幹線の旅よりも、各駅停車の旅が悪いと決まっているわけではない。

自分から障害のある道を選ぼうとするほど強くないが、それでも、障害が現れたとき、逃げるだけの生き方も嫌だと思う今日この頃である。

裁断橋の銘文


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