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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

札付きの悪とは?

2024年01月07日 | 町人の暮らし
「札付きの悪」の札付きというのは、何のことだかよく分からない。

その前に、「札付きの悪」の意味のおさらい。
岩波国語辞典によると、「札付き=札(正札)がついていること。転じて、悪い定評があること。そういう人または物」とある。
言葉の意味は分かるが、「札付き」の札が何だか分からない。

前回も参考にした「絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント」(遊子館)笹間良彦著に詳しい解説があった。
結論から言うと、この場合の札とは付箋のようなものだ。
以下に同書からの内容を書いてみたい。

江戸時代は連座制だったので、一家の誰が罪を犯しても、罰は家族全員に及んだ。
そこで、子供が罪を犯す恐れがありそうな場合は、前もって親子の縁を切って、勘当したという書類を町人に届けた。
町役人から書類を受け取った名主は町奉行所に届けて決済を受けた。
江戸時代、町人の戸籍というのは現代と同じくらいきっちり管理されていて、町役人のところや町奉行所には人別帳という戸籍簿があった。
この人別帳から抹消(帳外)されて無宿者となれば、家族は共同責任を追及されなくなる。
この作業を久離(きゅうり)を切ると言った。

ここまでが前段で、以下が札付きの説明となる。

勘当されそうな要注意人物には、あらかじめ札を貼っておいて、犯罪を犯したらすぐに札を外して、帳外にするための手続きがとれるようにしていた。
このように勘当の予備軍としていつでも手続きをとっていたので、これを「札付き」と言った。

ということである。







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水戸黄門のお銀の職業って?

2023年12月09日 | 町人の暮らし
水戸黄門に出てくるかげろうお銀。
由美かおるが演じ、人気を博したキャラクターである。
お銀は、くノ一なのだが、普段は鳥追女の恰好をしている。
鳥追女?
よく分からない職業ではないだろうか?

鳥追いというのは、元来、小正月(1月15日)に行う農耕行事だ。
小学館の「ビジュアルワイド 江戸時代館」によると、

鳥追いは田畑の害鳥を追い払う行事。
小正月に棒で地面をたたいたり、唄や音曲で鳥を追い払ったりして、豊作を祈った。


とある。

では、鳥追女はどうだろう。
遊子館「絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント」(笹間良彦)から引用する。

鳥追女は、普段は質素な姿で菅笠をかぶり、新年(正月一日から十五日まで)のみ衣服を新しくし、菅笠から編笠にかえて三味線を弾き、清元や富本、常磐津、長唄、新内などをうたいながら門付けした女太夫と称する女芸人である。

鳥追女は、江戸時代中期になって弾左衛門配下の車善七支配の山本仁太夫の許可を貰った五十人がはじまりである。
この鳥追女が流して歩けるのは江戸府内のみで、関所を越えることはできなかった。

まあ、水戸黄門さまが一緒なのだから、関所を越えられたとしてもおかしくはない。
しかし、江戸時代中期にならないと現れない鳥追女が江戸初期にいたというのは、いかに黄門さまといえども手には負えないのではないだろうか。






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足を洗うの語源

2015年09月14日 | 町人の暮らし
「足を洗う」の語源としては、「修行僧が外の修業から寺に帰ったあと、足をあらって世俗の垢を落とす行為」から来ているとの説明が多い。
間違ってはいないと思うのだが、江戸時代の人々が「足を洗う」の語からまっさきに頭に思い浮かべたのは、仏教ではなく、「儀式」のことだった。
遊郭を出る遊女も、出る際に「儀式」を行ったが、これも僧を真似ていたのではない。
では、本当の「儀式」は何かと言うと、人別帳から帳外(人別帳から名前を外されること)となっていた者が、再び人別帳に名前を載せてもらい、常人に戻る際に行う際に行う儀式である。
復帰を希望する無宿者の親類縁者は、乞食頭の車善七に願い出て、町奉行所に人別帳への再記載届けを出してもらう。
もちろん、けっこうな金は掛かる。
所定の金額は決められていなかったが、そうやすやす納められるような額ではなく、儀式を行えるのは縁者に裕福な者がいる者であった。
金が支払われると、浅草の乞食小屋のある空き地で「儀式」が行われる。
空き地には水の入ったたらいと、湯の入ったたらいが用意される。
を行う者は、まず水の入ったたらいで身体を洗い、次に湯の入ったたらいで身体を洗う。
用意された衣服に着替え、車善七が型どおりの検分を行い、常人に戻ったことを宣言して、乞食の人別帳から名前を消す。
これが江戸時代の「足を洗う」の意味であるが、いまではほとんど語られることがない。

「時代劇のウソ・ホント」笹間良彦(遊子館)


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踏み絵

2013年07月02日 | 町人の暮らし
踏み絵は、以前はよく時代劇で目にしたが、最近ではあまり見ないような気がする。
実物も見たことがなかったのだが、先日名古屋の栄国寺に併設された切支丹遺跡博物館で本物の踏み絵を見た。
簡単な説明文によると「はじめは紙にキリストの像を書いたものを使い、破れるから木板の像、最後にはこのような銅板のものをつかうようになった」とある。
実際に見てみると、意外なくらい立派である。こんなところにも日本人の律儀さというか、手の細かさが感じられる。
やはり安っぽい踏み絵よりは、高そうな踏み絵のほうが確かにありがたみがある。
その分、切支丹にとっては踏みづらかったのであろう。

切支丹遺跡博物館



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栄国寺と切支丹

2013年06月21日 | 町人の暮らし
名古屋市中区に栄国寺という寺院がある。
西山浄土宗に属し、清涼山と号して、西光院第9世任空可信を開祖とする。
れっきとした仏教の寺ながら、境内には切支丹遺跡博物館があり、殉教碑もある。
この理由には、歴史的背景がある。

慶長十七年(1612年)3月17日、徳川家康はキリスト教禁止を発令。
翌慶長十八年十二月には、宣教師追放を公布。
しかし、発令当初はまだ締め付けもゆるく、まだ布教は行われていた。
尾張地区でのキリスト教取締が厳しくなってくるのは、寛永八年(1631年)くらいからで、この年にはキリシタン57名が検挙されている。
うち4名は火あぶりの極刑に処せられ、9名は斬首、残り44名は江戸送りとなっている。
寛文期となると、尾張藩はキリスト教の大がかりな検挙に乗り出す。
寛文元年(1661年)から始まる大弾圧である。
寛文四年、尾張、丹羽郡、葉栗郡、五郎丸を主とした地域(現在の犬山市)、扶桑町などに及び、検挙者は2千人に上った。
ときの尾張二代藩主・徳川光友は、その中の主だった者、二百名を千本松原と呼ばれる刑場で処刑。寛文四年一二月一九日のことである。
栄国寺にある石碑によると、光友は、残りの者を救済しようと画策したが、幕府の許可が得られず、寛文七年10月に処刑せざるを得なかったという。
二百人が処刑されてから二年が経過しているが、この月日をどう考えたらいいのだろう。
切支丹は問答無用に斬り捨てられたかのようなイメージがあるが、地方とすれば、中央の勝手な方針で働き手を失うのは嫌だったに違いなく、ことあるごとに改宗のタイミングを与えていたには違いない。
それでも多くのキリシタンは、改宗しなかった。

光友がその者たちを弔うために寛文五年に作られたのが、清涼庵である。
交通の盛んなこの地に刑場はふさわしくないとの見解もあった。
その後、清涼庵は、貞享三年(1686年)には、栄国寺と改められている。

このような事情で、仏教の寺ながら、栄国寺には切支丹の碑がある。



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虫聴き

2012年05月30日 | 町人の暮らし
虫聴きという言葉を知ったのはもう随分前で、東京は墨田区にある向島百花園に行った時だった。向島百花園は以前から夏から秋にかけて虫聴きの会を行っている。
だが、江戸時代、虫聴きの場所として名高かったのは道灌山である。
道灌山は現代に残っていない地名であるが、JRの日暮里から田端の線路の辺りである。
感じとしては、京浜東北線の田端から赤羽に向かっていく左手に見える丘が道灌山のようにも思えるが、その感覚は半ば当たっていて、古くは日暮里から赤羽の丘をも道灌山と言ったらしい。
確かに日暮里の辺りは高台であり、江戸時代には日光、筑波の山並み、下総の国府台などが見え、近隣も一望できた。

さて、虫聴きであるが、花見のように、虫聴きは酒の口実で、実際のところは酒を飲みたかっただけのようにも勘ぐることができるが、「詞人吟客ここに来りて終夜その清音を珍重す」と江戸名所図会にもある通り、主役は酒ではなく、あくまでも虫の声だったようだ。
下の絵は江戸名所図会からの抜粋だが、三人の男が思い思いに虫の声を楽しんでいる。酒を飲んではいるようだが、何とも風流な光景だ。今の花見のように、カラオケやラジカセを持ちこんでドンチャンというのとはえらく違う。江戸の夜は本当に暗く、静かだったから、このような場所に来たら、場合によっては一晩をここで明かしたのかも知れない。
江戸の町内に住んでいる人は現代で言うキャンプのような感覚で虫聴きを楽しんでいたのだろうか。
男三人で、虫の声を聴きながら酒を飲む、というのは、やはり風流だ。
現代の感覚からすると、どんなイベントが近いのだろう。いずれにせよ、気が合う友人というのは、有り難い。
年齢を重ねてくると、若いときとは違って段々、ものの考え方が狭まってきてしまうものだが、価値観が似通った友人は何事にも代えがたい財産である。

虫売りも江戸の町には存在した。
飼っている間は、虫の声を楽しみ、盆に放してやるのが一般的だったので、6月上旬から7月盆までがピークの商売で、盆以降は売り上げが減った。
虫の種類としては、ホタル、コオロギ、松虫、クツワムシ、玉虫、ヒグラシなど多くの種類がいた。
生き物商売だからか、棒手振りのような行商よりも、固定店舗(といっても屋台のようなものが多かった)での販売が多かったという。
現代では、鳴かなく外来種のカブトムシだとかクワガタが人気だが、これも時代なのだろう。
カブトムシやクワガタも悪くないが、少なくとも風流ではない。

そういえば、虫の声を楽しむのは日本人だけだ、といった内容を耳にしたことがあるので調べてみると、ドイツではこおろぎの声を楽しむためにカゴを用意していたらしい。
ただ、多くの種類の虫を聴き分けるというのは、繊細な日本人ならではの感覚のようだ。
インターネットを調べていて、ドイツ人はチョコレートコーティングしたコオロギを食べる、というサイトを発見したのだが本当だろうか。もっとも、コオロギはフリーズドライした原型を留めないもので、ジュリア・ロバーツも愛食していると言う。一種の健康食のカテゴリーなのだろう。
日本人はもっとワイルドでイナゴだとか、タガメだとか、ザザムシを食べて来たのだから、驚くには足らない。イナゴの唐揚げだけは食べた経験があるし、また食べていいと思うのだが、残りは食べる気がしない。もっとも、イナゴだとかタガメなどは、残留農薬のほうが心配だ。

おまけとして、虫の声を聴けるサイトを発見した(real playerが必要)ので載せて置きます。

参考: 江戸名所図会を読む(東京堂出版) 川田壽著



鈴虫の販売をしている松井スズ虫研究所
(以前、何回もここからスズムシを買っていました。懐かしい!)

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丁稚・手代・番頭~商人のドレスコード

2012年05月29日 | 町人の暮らし
今はすたれてしまった感のあるスキー。
その昔は服装によりそのスキーヤーの腕前(足前?)が分かった。
それがいつの頃か、服装だけではスキルが分からなくなってしまった。
考えてみると今は、会社でも部長よりも新入社員のほうがいい背広を着ているかも知れないし、逆にベンチャー企業では若い社長がポロシャツで出勤している。
見た目では階級が分かりにくくなっている。名刺を見ても、管理職はみな「マネージャー」と括っている企業もある。ますます、誰が偉いのか分からない。
その点、江戸時代はきっちりとした身分社会であったから、商人であっても、例外ではなかった。
のんびりとした印象のある江戸時代、大店と呼ばれる店においては、過酷な出世レースが繰り広げられた。
たとえば、京都に本店のある「白木屋」だと、10歳から12歳くらいの寺子屋で成績優秀な子供が採用され、江戸に送られた。
いわゆる丁稚である。
この丁稚が初めて故郷に帰ることを許されるのは、なんと9年後である。これを初登りと言った。
その間は当然、一回も故郷には帰れない。思春期にも満たない年端の子供には辛い修業に違いない。
丁稚が成人すると若衆と呼ばれるようになるが、初登り後、再び江戸に戻った奉公人は手代へと昇進する。
その後は、平手代から小頭役年寄役(組頭役)支配役と役は進むが、椅子取りゲームになっていくのは現代と変わらない。
小頭役以上は、毎年進退伺いをすることになっていた。
現代でいえば、一年ごとに契約更新する役員のようなものであろう。
支配役になっても店に住み込んで暮らしている以上は結婚もできなかった。
30歳くらいに、結婚を機に退職し、第二の人生を送る者も多かったらしい。

話は冒頭の服装に戻る。
白木屋では、身分の違いにより、着用する服が厳密に区分されていた。

木綿格・・・・入店八年目までは木綿しか着ることができない。
五年目までは仕着せ(店からの支給品・袷は松坂産藍色縦縞)しか着用できない。
青梅格・・・・九年目の初登りの後、冬小袖・袷羽織に青梅藍縞が許された。
太織格・・・・一二年目以降。太織無地紋付の冬小袖などが許された。
紬格・・・・・・一五年目以降。冬小袖に黒紬紋付がゆるされた。
絹格・・・・・・一八年目以降。冬小袖に絹郡内紋付、本上田縞、越後紬縞が許された。


なんとも細かく規定している。

名前でも大体のところが分かる。
丁稚は名前に「」「」が付けられ、本名の一字に付け加えられた。たとえば、「豊吉」「豊蔵」。
手代は、「」が付けられた。
番頭となると、「」が付いた。
例外もあるが、原則としてはこのような名になっていた。

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参考文献


写真は、くすりの博物館(岐阜県)


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棒手振りの暮らし~収入

2012年05月07日 | 町人の暮らし
現代はインターネットで何でも注文できる時代となった。
けれども、インターネットゆえの問題もある。本などは中身を見れない場合が多いし、食品なども写真や情報で判断するしかない。
その点、江戸時代は棒手振り{ぼてふり}が長屋の軒先まで売りに来た。
棒手振りとは、商品の入った籠を肩に担いだ棒の両方に吊り下げ、行商に来る商人である。
その場で野菜や魚の鮮度や状態を確かめることができたし、麦飯や菜飯なども売りに来た。
行商が売りに来たものとしては、卵、針、洗濯後の着物につける糊、団子、薬、ござ、塩、あゆ、朝顔、桜草、花火、金魚など多種に亘る。
床屋も廻って来たし、廃品回収も来た。
驚くのは、卵屋なら卵だけ、針屋なら針だけを売りに来ていたことだ。単品だけ扱っていては、売り上げもしれたものだろうが、それでも何とか生活できた江戸時代というのは、何とも優雅な時代だった。
浅野史良氏の「数字で読むおもしろ日本史」(日本文芸社)によると、「文政年間漫録」からの事例として、棒手振りの収入を説明している。
以下は要約である。

夜明けとともに銭六百文から七百文を持ってダイコンやレンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。一日中、町の路地裏まで入っていき、日が沈んだころ、自分たちの食べる分だけを少しだけ残して長屋に帰ってくる。棒手振りは財布から稼ぎを出し、明日の仕入れ用の金を除き、家賃分を竹筒に納める。棒手振りは米代として二百文、味噌や醤油代として五十文を女房に渡す。さらに子供たちに菓子代として十三文ほど手渡すと、手元には百から二百文が残る。ここから酒代として少し抜き、残りは雨で商売に出られない日のつなぎ用として竹筒に入れる。

なんだか小学生の足し算・引き算の問題のようになってしまったが、大まかに一文30円と計算すると、収支は下記のようになる。

(収入)
元金   700文 (21,000円)
野菜の売上    1,200文(36,000円)・推定
合計         1,900文(57,000円)

(支出)
野菜の仕入れ値 681文(20,430円)・推定
米代        200文(6,000円)
味噌・醤油代    50文(1,500円)
菓子代        13文(390円)
酒代(2合)     16文(480円)
家賃用貯蓄     40文(1,200円)・推定
貯蓄         200文(6,000円)
翌日への繰り越し 700文(21,000円)
合計        1,900文(57,000円)


つまり野菜を仕入れて販売する経済活動により、棒手振りは1200文-681文=519文(15,570円)儲けたことになる。
もちろん、これほど儲からない日もあるし、商売に出られない日もあるが、単純に月22日稼働と計算すると、年収411万円となる。
貧しい棒手振りという固定観念からすると、少しイメージが違う。
家賃は毎日40文も貯蓄しなければならない訳ではなかった。
この文政のころであれば、家賃は二間の長屋で300文(9000円)、二間半の長屋で400文(12,000円)ほどであったからだ。
この日は、売り上げ好調で、このように米や味噌・醤油に家賃用にまで金をまわして余裕があったようだ。

こうしてみると八百屋というのは稼ぎがよかったようにもみえるが、単品を売って歩く棒手振りの収支はどうだったのだろうか、と気になってしまう。
江戸の売り声を芸にしている宮田章司さんが著書「江戸の売り声百景」(岩波アクティブ新書)の中で下記のようなことを書かれている。

昔の物売りは、納豆屋なら納豆、鰯屋なら鰯、花にしたって季節によってサクラソウ売りがいるかと思えば、朝顔の苗売りなんていうのもいる。お盆になったら迎え日用のおがら売り、月見のころはススキ売り。こんな具合に単品をちょっとづつ売って、それでも暮せたということ自体、すごい時代だと思うんですよね。食うや食わずだったかもしれない。でもものすごく活気があった大都市、江戸。

野菜を扱う棒手振りにせよ、今では考えられないほど高利益を得ていたし、単品を扱う棒手振りもそれなりの高い利益率を保っていたに違いない。
ではそれが現代でいう適正利益でなく、暴利だったかというと、そんなことはない。
みんなが暮らしていけるだけの相互利益を得ていたのだと思う。
江戸の時代は、現代の100円ショップのように安い=大事にしない、という発想ではなく、高い=大事にする、という発想であった。
インターネットで1円でも安い商品を探すことはせず、高ければ諦めるだけだった。
生鮮食品にしろ、現代の感覚からすると、高いと感じる価格で取引されていた。
高いのであれば、食べる量を減らせばよい。それが江戸時代の考え方のような気がする。
安いものを多く食べるのも、高いものを少なく食べるのも、費用的には同じだ。

安いものを多く食べられるようになった現代人は幸せかというと、必ずしもそうではない。
食べ過ぎや飲み過ぎによる成人病の急増、安ければいいだろうという安易な販売者の増加。
食の安全が失われたのは、低価格を求め過ぎる消費者の責任でもある。

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行灯の明るさ

2010年03月20日 | 町人の暮らし
行灯とかいて「あんどん」と読む。
もう時代劇の中でしか見ない代物である。
行灯の中は蝋燭だと思っている人も多いかも知れないが、江戸時代、蝋燭は高級品であった。
夜になって、一般庶民が行灯に入れるのは油であった。
掻き立て と呼ばれる陶器に芯を立て、油を入れた皿に芯を立てる。
この辺りの事情は石川英輔紙が石川優子氏との共著「大江戸生活体験事情」の中で詳しく書いている。

石川氏が行灯の光はあまりにも暗いと力説しておられたので、自分でも実験してみたくなった。
用意したのは三つ。

①醤油皿にサラダ油を入れ、ティッシュペーパーをこより状にして粘土で重しを付け、漬けたもの。
②キャンドルホルダー用の蝋燭。
③白色のペンライト。

以上を、A4のコピー用紙を丸めて、セロハンテープで留めたもので被った。

予想では③②①の順に暗くなるはずであった。
暗い場所として裏のベランダの隅にそれぞれを置く。

明るさを見るために、ソーダの缶を置いて、三脚に固定したデジカメで映像を撮影した。
以下が、その写真である。


ペンライト

キャンドル

サラダ油

なんと、予想を完全に裏切る結果であった。
③のペンライトは一方向しか照らさず、照らしている反対方向は闇となってしまう。方向性が強く、光が拡散しないため、一点を見るにはいいのかも知れないが、室内照明としては全く不向きである。
②と①の結果も意外であった。
でも考えてみると、②の芯は細く、①の芯は太い。
燃える量が①のほうが多いので、明るさも①のほうが明るいというのは自然である。
もっと太い芯の蝋燭を使えば別の結果も出たのかも知れないが、安易に蝋燭の火のほうが明るいと考えるのは危険であると思った次第。

昔の狭い部屋であれば、油の行灯でも十分に明るかったには違いない。
確かに読み物、書き物をするには不便な明るさでしかないが、江戸時代では家に帰ってまで、仕事をする者はほとんどいなかったし、パソコンもなかった時代だから、夜に行う作業としては、行灯の光でも事足りたのであろう。

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天井の花嫁

2010年02月12日 | 町人の暮らし
天井の花嫁とは、何だろうか。
ホラー映画ではない。
ネズミの異称だそうである。

忌み言葉というものがある。
今でも、たとえば、スルメをアタリメと言い換えたりする。
あるいは、受験生のいる家庭では「滑った」などという言葉を使わないといった類である。
口にすると縁起が悪いとされるのが忌み言葉である。
時には、使わない訳にもいかない時があるので、その場合は言葉を置き換える。

ネズミは古来から、農作物に多大な被害を与える動物であった。
今でも駆除するには、苦労する。
ましてや、昔はもっと大変だった。
そこで、昔の人々はネズミを祀ってしまった。
ネズミを霊的なものとすることによって、祈祷や信仰で害を防げると考えたのである。
ここから発展して、「ネズミ」という言葉を発すると、ネズミの霊を刺激してしまい、ネズミの害が増えると考えた。
そこで、「ネズミ」の言い換えが生まれた。
冒頭の「天井の花嫁」もそういった発想から生まれた語である。
その他の置き換え語には、「嫁が君」「嫁様」「嫁殿」「姐っこ」「姫様」「福太郎」などがある。
ネズミがなぜ嫁関連の言葉に置き換えられたのは、寡聞にして知らない。

この忌み言葉には面白い例が多い。
猟のとき「犬」と口にすると、獲物に聞きつかれて逃げられてしまうと考えられたところから、漁師は犬を「へだ」「せた」「宍子(ししのこ)」などと置き換えたという。

また、江戸の吉原は、葦(あし)が生える土地柄であったため「葦原」となるところを、「あし(悪し)」を「よし」と置き換えた。

「蛇」も忌み言葉である。
噂をすれば影、のことわざのように、「蛇」と口にすると、蛇を呼び寄せてしまう、と考えたのである。
青大将なども、置き換えた言葉がそのまま通用するようになったのであろう。

樋口清之 「日本人の歴史・11(禁忌と日本人)」 講談社

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