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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

志士となった国定忠治の息子 

2025年02月11日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
上州国定村の忠治は博徒の親分として名高い。

しかし、忠治の晩年は中風を患い、知り合いの間をたらいまわしにされるというみじめなものであった。
不自由な身体のまま縄を受けた忠治は、大戸の関所に併設された処刑場で磔にされた。

唐丸駕籠で運ばれた忠治であるが、その駕籠の中には高級品である更紗の座布団を二枚重ね、さらに真っ赤な座布団を重ねるという豪華仕様であった。
また忠治のいでたちは、無地の浅黄に白無垢を重ね着し、白い手甲と脚絆を着け、首からは大きな数珠を掛けていた。
この派手な格好をして、堂々と立ち振る舞う様子は見事なもので人々の脳裏に強烈な印象を残した。
磔のあと、いよいよ槍を突き刺される段になっても動じたところを見せず、逆に役人を励ましたというエピソードは忠治の人気を高めた。
さらに芝居で取り上げられるようになり、忠治の人気は不動のものとなる。
その忠治に息子がいたのは意外と知られていない。

忠治の女性関係は華やかであった。正妻の鶴のほかに、よく知られたところだけでも愛妾の町、徳などの女性がいた。
大久保一角という武家崩れの娘に生まれた貞も忠治の妾のひとりである。
その貞と忠治の間に生まれたのが寅二である。
もっとも、忠治が処刑されたのが寅二8歳(数え年)のときであり、実際に会ったことがあるのかどうかも分からない。
元服して国次と改名するようになった寅二は、さらには真言宗の寺である出流山万願寺に入門し、千乗と名乗る。


下って、時は慶応三年(1867年)十一月。
明治になる一年前。
幕府挑発のため、薩摩藩が御用盗と呼ばれる江戸市内での強盗や放火などのテロ行為を指示していたのはよく知られているが、江戸以外での地方でも工作が行われた。
薩摩藩の意向を受けた竹内啓、西山謙之助らの勤王志士は薩摩藩主・島津忠義夫人の安産祈願という触れ込みで万願寺に入った。
彼らは寺に入るやいなや、討幕の意を露わにする。
その決意に共感した千乗こと国次は、以来、大谷刑部、あるいは大谷国次と名乗り、志士たちに合流する。

下野国に集まった志士たちは本気で討幕を試みていたであろうが、薩摩の上層部としては、幕府を威嚇して戦闘の口火を切らせるための陽動作戦でしかなかった。
赤報隊の悲劇にも共通するが、いわば切り捨てられた部隊だった。
たいした戦果を挙げることもできず、敗戦する。

国次は志士たちの群れに参加してからわずか一か月ほどしか経っていない慶応三年十二月十八日、処刑された。
わずか24年という短い生涯だった。
大谷刑部と名乗ったのは、関ケ原の合戦で散った名将・大谷刑部吉継にあやかったのは間違いない。
処刑されるときに国次の脳裏に浮かんだのはどのような考えであったのだろか。


緑が美しい万願寺の山門。


万願寺は、滝行ができることでも有名。


奥の院には、鍾乳洞でできた十一面観世音菩薩がある。


現在では出流そばでにぎわっている。


巴波川に架かる念仏橋(現在の幸来橋)の付近では、激しい戦いが行われた。


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宇田川三代 ~ 岡山県津山市

2025年02月03日 | 人物エピソード~人を知れば時代が見えてくる
先日、岡山県津山市に行った。
この地は洋学が盛んだった地で、宇田川玄随、宇田川玄真、宇田川榕按三代の所縁がある。
個人的には「舎密開宗」を表した宇田川榕按の名前は知っていたが、宇田川三代と言われるとよくわからない。
そこで調べてみました。

宇田川玄随(1755-1797) うだがわーげんずい
津山藩(現岡山県津山市)は、江戸城鍛冶橋門の内側に一万二千坪の拝領敷地を持っていたが、この江戸上屋敷で生まれたのが宇田川玄随である。
もとは漢方医で西洋医学を白い目で見ていたが杉田玄白らと付き合ううちに西洋医学の重要性に気づき、日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』(全18巻)を刊行する。
蘭学者の大槻玄沢は、玄随の容姿を「色が白く体は小作り、顔付きは柔和で鼻は顔の釣り合いより大きく、眉は真っすぐ」と書いている。
また、性格については「常に控えめで、争いを好まない物静かな性格だったため、言葉や挙動が穏やかで婦人のようだった」とし、友人は玄随の号の東海を取って、東海婦人と呼んでいたそうです。




宇田川玄真(1770年 - 1835年)うだがわーげんしん
伊勢国(現三重県)の生まれ。
宇田川玄随の知己を得たのち、杉田玄白の養子となり、順風満帆のようにみえたが、養子になった直後から放蕩が始まる。
怒った玄白に離縁され、路頭に迷う暮らしに転落。
心を入れ替えた玄真は、「蘭日辞典」を編纂中の稲村三伯を助け、「ハルマ和解」を完成させる。
この努力が認められ、玄随の養子となる。
「西説内科撰要」を表し、蘭学者としての名声を得る。
その後、蕃書和解御用に命じられ、藩医のかたわら月に8回ほど幕府の仕事をした。
弟子には佐藤信淵、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫といったそうそうたる顔ぶれがいる。




宇田川榕按(1798年 - 1846年) うだがわーようあん
大垣藩の藩医の息子として江戸にて生まれる。
14歳のとき、玄真の養子となる。
玄随が西洋医学の先駆けとして現れ、玄真が玄随の考えを継ぐ一方、翻訳業にも精を出したのに対し、榕按は植物学と化学に歴史的な足跡を残した人物である。
榕按は、日本で初めての植物学の植物学書である『理学入門植学啓原』(しょくがくけいげん)全3編を書く。
さらに『舎密開宗』(せいみかいそう)は日本の化学史に残る燦然たる実績である。
伊地智昭亘氏によると、榕按が作った言葉としては、

圧力、亜硫酸、塩酸、王水、温度、還元、気化、蟻酸、凝固、希硫酸、金属、金属塩、珪土、結晶、琥珀酸、酢酸、酸、酸化、酸性塩、試薬、煮沸、蓚酸、昇華、蒸気、蒸散、蒸留、親和、水鉛、吹管、青酸、成分、、装置、炭酸、中性塩、中和、潮解、尿酸、白金、物質、沸騰、分析、ほう酸、法則、飽和、溶解、容積、硫化、硫酸、流体、燐酸、るつぼ、濾過

などがあるとされる。
また19歳のとき『哥非乙説」という論文を書いて、コーヒーを紹介している。
珈琲という当て字を作ったのも榕按だとされている。



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