木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

土井聱牙・どいごうが

2010年02月11日 | 江戸の人物
土井聱牙
河合継之介の生涯を描いた司馬遼太郎の「峠」に土井聱牙という人物が登場する。
長編小説の中、わずか三ページ弱の登場だ。
聱牙は、津で土井塾を開き、後に藩校である有造館の五代督学(校長)になった人物である。

(河合継之助は)内心聱牙など一文の価値もないと見限っていた。聱牙には言説があって行動がない。
「彼は用いられざることを憤っている」と、のちに継之助はいった。
「不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ」と継之助はいうのである。


司馬の筆にかかると、けんもほろろに描かれてしまっている。どうも、司馬は藤堂家が嫌いなのか、津の人物に対しては評価が厳しい。津城の天守閣は五層で、旅人はその見事さに驚いた、などと間違いをいくつか犯しているのも、そのせいだろうか(この頃、津の天守閣は焼失してしまい、なかった)。

先日、津へ取材に行っていて、聱牙の子孫に当たる方とお話する機会を得た。
江州日野の楓井(かいで)家に養子に行った次男・純の嫡流の方で、津城のすぐ近くで日本料理店を営んでおられる。

聱牙は、奇人としての行いで有名であった。
ひどく暑がりで、夏は素っ裸で過ごしたという。
暑くなると、裸のまま庭に出て、私塾の生徒に水鉄砲を持たせた。
簡易シャワーであり、気持ちよさに聱牙は奇声を上げて喜んだ。
この声を聞くと、近所の人は夏の到来を実感したという。

奇行ばかりが喧伝されがちな聱牙あるが、実際の思想はどのようなものだったのだろう。
当時、聱牙は「聖人論」という自書の中で孔子を否定したということで知られていた。
聱牙によると、孔子は儒学の祖として尊ばれているのであり、それならば盗賊団を作った人物も祖として尊ばれるべきだ、としている。
「わたしに言わせれば孔子のどこに徳があるというのだろうか」とまで言っている。
そこから考えれば、彼が佐幕派寄りの思想があったとは考えにくい。
彼に言わせれば(大きな声では言えないが)徳川家康は江戸時代という時代を作った祖として尊ばれているだけだと考えた。
実のところ、孔子否定は、幕府の基本思想・朱子学の否定にもつながるが、津の歴代督学は、自らの思想を政治の場面に持ち出さなかった。

津・藤堂家というのは、複雑な立場で、外様であるにもかかわらず、徳川家からの信頼が厚く、親藩に準ずる扱いを受けてきた。
伊勢に近い立地条件から、勤王思想も強い。
伊勢参りの客が立ち寄る観光国として開放的な土地柄でもあった。そのためか、海外からいちはやくカメラを購入するなど、進取の気性も持ち合わせていた。
様々な思想がミックスされていて、一方的な佐幕・倒幕を声高に論じるほど単純な風土ではなかったのである。

話を聱牙に戻す。
小心な人物が本心を見抜かれまいと、豪放磊落な人物を演じることがある。聱牙は小心であったと思わないが、司馬も描いていたように、照れ性だったように思う。
天の邪鬼でもあったのは間違いない。

聱牙は、若い頃、本の読み過ぎで極端に目が悪くなった。読書を制限しろという助言も無視して本を読み続けたため、ついに左目が完全に見えなくなってしまった。
勿論、それでも、聱牙は読む量を落とさなかった。
そんな聱牙であるから、生徒に対する指導には厳しいものがあった。
授業でも筆記は許されず、音読による暗記が求められた。
それも大声での朗読なので、生徒の声は枯れていることが多かった。
私塾を開いている頃は、有造館へのライバル心もあったのだろう。

ある時、聱牙は尋ねられた。
随分、厳しい教育方針だが、落ちこぼれた生徒はどうするのだ、と。
聱牙は答えた。
「私の言う事を聞かないで落ちこぼれた生徒は放っておく。私の言うことを聞いて、なお生徒が落ちこぼれるのであれば、それは教師の責任なので一命を賭しても教えぬく」

聱牙がよく書した言葉に「開物成務」という語がある。
易経の中の言葉で、人々の知識を拓いて、物事を成就させるの意。
東京の優秀な学校である開成学園の由来でもある。

「天下に棄才なし」も聱牙の言葉である。厳しい反面、生徒には愛情を注いだ。
有造館の歴代督学は、研究者よりも、教育者としての一面を大事にしていたように思う。


楓井家に伝わる藤堂家からの礼状

峠 司馬遼太郎(新潮文庫)
叢書・日本の思想家39 橋本栄治 明徳出版社

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