所在地 備中国分寺 岡山県総社市上林1046
国道270号の「吉備路もてなしの館」に車を止めて。備中国分寺は市南部のアカマツにつつまれた丘陵地のほぼ中心部に位置し、聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つです。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されました。境内にそびえる五重塔は、県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっています。
備中国分寺跡は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉(ききん)から人々そして国を守ること (鎮護国家)を目的に建てられた官寺の一つです。その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されており、 当時を偲ぶことができます。
これは本堂です。現在の建物群は、江戸時代中期に浅尾藩主の蒔田(まいた)氏の援助によって再建されたもので、寺院というより、書院風の簡素な建物であるみたいです。
境内から、ちょっと五重塔を拝見です。
少し、吉備路を歩いてみます。向こうに見える丘が「こうもり塚」古墳のようです。
標識が、右へ「こうもり塚」・左へ「松井の井戸」「備中国分尼寺跡」と書かれていますので、まずは 「こうもり塚」古墳の方へ行きます。
全長約100mの前方後円墳。後円部にある横穴式石室は巨石を用いた全長19.5mにも及ぶ巨大なもので、中に家形石棺が安置されているようです。
奥には、全長約100mの前方後円墳。後円部にある横穴式石室は巨石を用いた全長19.5mにも及ぶ巨大なもので、中に家形石棺が安置されています。
先ほどの標識まで戻り左へ進むと「松井の井戸」がありました。
むすびあぐる松井の水は底済み うつるは君が千代のかげかも 藤原茂明
常盤(ときわ)なる松井の水をむすぶ手の 雫(しずく)ごとにぞ千代は見えける 藤原資実
この二首の和歌は久寿2年(1155)の後白河天皇及び建久9年(1198)の上御門天皇の即位に当って行なわれた大嘗会(だいじょうえ)のときに詠まれたものです。
「松井の井戸」から池の周りを通り林を通り抜けると、奈良時代の尼寺跡で、台地の松林の中に円形の造り出しのある金堂の礎石が往時のままに保存されている。その他、南大門、中門、講堂、塔の跡なども確認されていますが、何も建物がありません。
旧山手村役場
備中国分尼寺跡の中を通り抜けると、この建物が風早雲嶂(かぜはやうんしょう)((1846~1896、医師・初代山手村長)という人が自宅として建てたものです。以前は今の山手村役場附近の都窪郡山手村大字地頭片山にありました。建築様式・手法からみて、幕末から明治初頭のもののようです。
雲嶂の死後は山手村が購入し、明治35(1902)年から昭和43(1968)年までの66年間、山手村役場として使用されていました。
「旧松井家住宅」
この民家はもとは岡山市沼に所在し、旧山陽道に沿う茶屋でした。。建築の様式・手法からみて江戸時代末期頃に建てられたもののようです。
屋根は茅葺・入母屋造の建物で基本的に当時の一般的な民家の構造ですが、簡素な必要最低限の間取りとなっています。
吉備路を歩いて長閑な田園風景を見ながら過ごすのが一番心休まるひと時です。
備中国分寺五重塔は、南北朝時代に1度焼失し、1821年(文政4)ごろから位置を変えて再建、高さ34.32メートル。江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔です。
田園風景の中に建つ国分寺五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっているんでしょうね~
次回をお楽しみに では またね