hasyan の 旅の散歩道

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鳥取藩主池田家墓所  2011.06.06

2011年06月07日 20時51分24秒 | 歴史・遺跡・伝説


 所在地   鳥取藩主池田家墓所   鳥取市国府町奥谷・宮下

 池田墓所へ行く途中には、「馬立場跡」があり 江戸時代、藩主墓所参詣のため乗馬で来られた人は、この場所で馬を繋ぎ溜池の土堤を右折れし山の手旧道を通り墓所に参詣していたので、この地を馬立場といっていました。

 墓所の山門にやって来ました。奥谷の山麓に鳥取藩主池田家墓所ですが、樹木に覆れた閑静の地に広大な墓域を造り代々の墓碑が立ち並んでいるようです。

 山門を入り左手の石段を上がっていきます。鳥取藩主池田家の初代光仲から第11代の慶栄までとその夫人や姫、分家まで78基の墓碑と、一族に仕えた人の名を刻んだ254基の灯籠が立ち並びます。初代から第11代まで参拝しました。

 初代藩主池田光仲の墓です。因伯32万石鳥取藩の藩祖池田光仲は、岡山藩主池田忠雄の長子として江戸藩邸で生まれました。池田家墓所の歴代藩主の墓碑は、高さ4.6mにも及び三段の台石の上に亀の形状をした亀趺(きふ)と呼ばれる台石を乗せたもので亀趺円頭(きふえんとう)」の墓碑といわれています。

 初代藩主池田光仲の墓より前方を拝観です。徳川幕府と深い関係にあった鳥取池田家は、池田家の藩主の名前はその時の徳川将軍の名前から一文字もらってつけられている特徴があり、歴代藩主の墓碑はいずれも玉石垣を巡らした台石に三段の台石を据えています。

 2代藩主 池田綱清の墓です。父は池田光仲、母は正室茶々姫で、正保四年(1647)江戸藩邸で生まれました。歴代藩主の中で綱清の墓石のみが「亀趺円頭」の形式をとっていない。これは、有名な「生類憐みの令」に配慮したためともいわれます。

 5代重寛の墓所から3代吉泰の墓所を見たところです。

 3代藩主 池田吉泰の墓です。幼名を長吉、のち勝五郎、長じて輝清、吉明と改め、のち吉泰といった。父は分知東館の祖壱岐守仲澄、母は松平播磨守頼隆(水戸徳川家の分家)の娘菊子(涼月院)です。元禄八年(1695)男子のいなかった綱清の養子となり、元禄十三年(1700)隠居した綱清のあとを受け家督を継ぎました。

 4代藩主 池田宗泰の墓です。幼名を長吉といい、また勝五郎と改めた。享保二年(1717)鳥取城で生まれた。生母は側室中村氏である。享保十六年(1731)、将軍徳川吉宗の前で元服の式を行ない、従四位下侍従に叙任され、出羽守と称した。三代藩主池田吉泰が逝去し、この年宗泰が家督を継ぎました。

 5代藩主 池田重寛の墓です。四代藩主池田宗泰が三十一歳で逝去した時、その嫡子池田勝五郎(重寛)は、わずか二歳の幼児であったため、鳥取藩は分知家(西館)の甲斐守定就を藩主とし、重寛をその養子とすることを願い出た。ところが、幕府はこれを退け、勝五郎をもって家督を相続することを許可しました。幼年で藩主の座についた例は、藩祖光仲の先例があり、また勝五郎の生母は紀州徳川家より入った久姫(桂香院)であったことから、実家である徳川家の応援を得て勝五郎の家督相続に成功したものと思われます。

 6代藩主 池田治道の墓です。五代池田重寛の第三子で生母は側室村上氏である。幼名は岩五郎、後に秀三郎と改めた。明和五年(1768)江戸の藩邸で生まれ、安永七年(1778)重寛の夫人仲姫に養われて嫡子となり。仲姫は田安中納言宗武の四女で「寛政の改革」で名高い老中松平定信の姉です。重寛には第一子に鶴五郎がいた。のちの池田治恕である。治恕は将来を非常に期待された人物であったが、天明元年(1781)病により江戸藩邸で逝去した。続いて天明三年(1783)父重寛の逝去により、治道が十六歳で鳥取池田家の家督を相続し、六代藩主となりました。

 7代藩主 池田斉邦の墓です。幼名を秀三郎、ついで銀之進といった。父は治道、生母は治道の側室於三保の方で天明七年(1787)鳥取城で生まれた。銀之進には一つ違いの弟、永之進がいた。永之進の生母も側室浦の方であったが、江戸で生まれたことから声援するものが多く、兄である銀之進は影が薄かった。その為、継嗣をめぐって、江戸と国表において対立が起った。これを憂いた鳥取の用人役佐々木磯右衛門は、寛政四年(1792)藩主池田治道の帰国に際して、兄の銀之進を継嗣とするよう強く諫言した。

 8代藩主 池田斉稷の墓です。七代斉邦の後をうけて鳥取藩主になったのは、斉邦の弟永之進である。文化四年(1807)、将軍家斉の前において元服の式を行い、従四位下侍従となり因幡守と称した。そして将軍家斉の一字を賜わり、名を斉稷と改めました。

 9代藩主 池田斉訓の墓です。天保元年(1830)八代藩主斉稷の逝去により鳥取藩をついだのは、斉稷の実子誠之進である。養子の斉衆が文政九年(1826)に逝去したので嫡子の取り扱いとなり、幕府の許可を得て世子となりました。

 10代藩主 池田慶行の墓です。九代藩主斉訓の逝去により鳥取藩主になったのは、鳥取池田家の分知家である壱岐守仲律(東館)の長男亀丸である。池田仲律は、池田仲雅の三男で、仲雅は、本家である五代藩主重寛の六男であったので慶行は五代藩主の曾孫にあたります。

 11代藩主 池田慶栄の墓です。 嘉永元年(1848)僅か十七歳で逝去した十代慶行にはまだ男子がいなかったので、藩では、分知家のうち(東館)壱岐守仲律の子で慶行の弟裕之進を仮養子として幕府へ申し出た。ところが幕府はこれを退け、加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに仲律の娘延子をめあすよう指図した。鳥取池田家は、初めて他家から藩主を迎えることになり、このことは国表の藩士にとっては寝耳に水の驚きでありました。

  最後の12代鳥取藩主池田慶徳は、水戸中納言徳川斉昭の五男五郎麿で、生母は松波春子です。異腹の弟七郎麿は徳川幕府最後の将軍慶喜でもあります。天保八年七月江戸で生まれた。十一代慶栄が伏見で逝去後、幕府は慶徳に養子を命じられ、嘉永三年(1850)十月に家督を相続しました。従四位上侍従に叙任、相模守と称した。慶応三年(1867)の大政奉還を受け、その後に鳥取藩知事に任じられるが、家禄は十分の一とされました。慶徳は明治十年八月二日明治天皇の還幸を神戸まで奉送の際肺炎にかかり、神戸で逝去、東京の弘福寺に葬られ、後に多摩霊園に改葬されました。
清源寺跡の広場には、「あずま屋」があり、今の時期「サツキ」と「花菖蒲」が咲き、秋は、紅葉の名所でもあるようです。
 次回をお楽しみに  では またね