hasyan の 旅の散歩道

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網干・龍門寺  2013.02.28

2013年03月02日 21時39分06秒 | 神社・寺院


 所在地   龍門寺    兵庫県姫路市網干区浜田812

 「網干」の名の起こりは魚吹八幡神社(うすきはちまんじんじゃ)の放生会(ほうじょうえ)が行われる日、氏子の漁師が殺生をやめて網を干してお参りをしたことから、周辺を網干と称したことによるといわれています。古くから開発の進んだ地で、江戸時代に至ると当初は姫路藩領でしたが、のち天領・龍野藩領・丸亀藩領等に分かれるなど複雑な様相を示しました。古社・古寺も多く、文化財に富んだ地域です。その一画に天徳山 龍門寺があります。

 元禄三年(1690)に下された東山天皇の宸輸にも「龍門の巨寺、宗風を播陽に起す。」と仰せられて
おり、郷土の誇りとする寺院である。   

 龍門寺は、盤珪禅師が丸亀藩主京極家の保護と網干の豪商佐々木家の援助を受け、寛文元年(1661年)再興した寺で20余りの堂が並び播磨屈指の禅宗寺院です。盤珪禅師は浜田に生まれ17歳で出家、全国を修養し、難解な禅をやさしく説きました。

 「観音堂」は、寛文年間(1661~1673)に創建されたが創建時のまま残る建造物の1つで建物の特徴は、当時の播磨地方の建築様式を見ることができます。本尊の木造聖観音立像は、量感ある堂々とした体躯だが、面相や衣紋は穏やかで平安後期の作と云われています。

 「鐘楼」は、元禄5年(1691)の創建、上層に縁を廻した正規の袴腰付鐘楼で、現在の梵鐘の寛政元年(1789)に鋳造し直したものであるが、「1里こえて2里ひびく」と俗謡にあり、その音色は播磨灘の舟人の心の安らぎを与えました。

 「水掛一願不動尊」は、不動堂の空海作の不動尊を、分身として製作され右手の利剣は悪魔をくじき、左手の縄策は迷いの道に踏み込む衆生を正道に引き戻す慈悲の不動明王であり、明王に水を掛ければ一願成就すると古来より伝わり、どうしても叶えたい願いごとがあるときに‥‥。

 「不動堂」は、盤珪国師の念持仏であり不動明王の像を祀るため貞享3年(1686)に創建された二層建造物である。この仏像彫刻は弘法大師の作と伝わっています。国師はかくちの行脚にも常に身にまとい、守り本尊とした持仏です。

 この奥の、大衆禅道場は誠実な意欲さえあれば、一般の方も入門ができます。国内外の禅修行者を受け入れ、禅録講義、坐禅、禅仏教の基礎的学習、作務を行ないます。 また人生相談、カウンセリング等も受け付けています。出家希望者のため、春・秋に、妙心寺派公認の特別修行週間を設けています。

 鐘楼(元禄五年・1692年の建立)大晦日には除夜の鐘を突かせて貰えるそうです.「108」という数の由来は、一般には煩悩の数を表す。眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)の六根のそれぞれに好(こう:気持ちが好い)・悪(あく:気持ちが悪い)・平(へい:どうでもよい)があって18類、この18類それぞれに浄(じょう)・染(せん:きたない)の2類があって36類、この36類を前世・今世・来世の三世に配当して108となり、人間の煩悩の数を表しているのだそうです。

 「大方丈」は、龍門寺の本堂にあたる建造物で延宝元年(1673)の創建で現在の建物は宝永元年(1772)に再建され正面の寺号額は盤珪国師の直筆だそうです。

 江戸前期の臨済宗(禅宗)の名僧で、当時生身の釈迦と仰がれた盤珪禅師[ばんけいぜんじ]が郷里の網干に創建。布教活動の拠点とした。建物17棟は姫路市の文化財に指定、県の文化財に指定されている仏像など所蔵している。境内には、同時代の著名な女流俳人で盤珪に帰依した田捨女[でんすてじょ]の墓もあります。
 次回をお楽しみに  では またね
 

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