たびびと

世界を楽しく旅しましょう!

世界遺産観光地から開発途上国まで、世界各地の心あたたまる、すてきな風をお届けします。

不運? 幸運? 海に落ちた松下幸之助さん

2010年02月17日 | こころの旅
エピソードその3です。

松下さんが若い頃、小さな蒸気船でのことです。
船の縁を歩いてきた人が足を踏み外し、ちょうどそこに腰掛けていた松下さんをつかみ、もろともに海に落ちてしまいます。

突然の災難です。

小学生の初詣のことを思い出しました。
寒川神社という神奈川県にある有名な神社にお参りに行ったときのことです。
最寄り駅は宮山というJR相模線の駅です。ローカル線で、とても小さな駅でした。電車も数量編成で、乗車、降車時にはボタンを押してドアが開閉するタイプです。

初詣の日は人、また人。電車は満員です。神社も大行列で、少しずつゆっくり前に進んでいきます。お参りするのに何時間もかかりました。

その宮山駅でのこと。
電車から降車し改札口に向かいます。当然、駅のホームは人であふれています。
そのとき、人に押されたのかどうかは忘れてしまいましたが、駅のホームから線路に落ちそうになったのです。
とっさに横にいた人をつかみました。大人の男性であっと思います。僕は小柄な小学生、だから、その方は支えてくれました。

その後
「あぶないじゃないか」
と叱られることはありませでした。

「子どものしたことだから」
と、大目に見てくれたのかもしれません。

しかし、その後神社に歩いていく途中で父が言いました。
「他人を巻き添えにしてはいけないな」

その通りでした。

今回の松下さんのエピソードのような被害者の経験はありません。
むしろ、今お話をしたような、恥ずかしい加害者の経験があります。

でも、仮に海に落ちた松下さんの立場だとします。
僕ならどう思ったでしょうか。

「何てことだ。海の中に落ちてしまうなんて。しかも、自分ではなく、他人のせいで。
一体どこまで僕はついてないのだろう」

しかし、松下さんに言わせると、
「運が強いから助かったのだ」
と言うのです。

「冬であれば、体の弱い自分はそれでいっそう病気が進むか、ひょっとしたら死んでいたかもしれない。それに多少の泳ぎも出来たし、すぐに船が気づいて戻ってきてくれた。
実に自分は運が強い」
と言うのです。


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不運? 幸運? 病弱だった松下幸之助さん

2010年02月16日 | こころの旅
エピソードその2です。

病死していった家族に続いて、松下さんもまた20歳のときに肺尖カタルを患い、病床に臥します。

病気がちな人生はつらいものです。

実は僕も体があまり健康な方ではありませんでした。

幼少時、鼻水、鼻づまりがひどく、よく耳鼻科に通い、鼻に薬剤を投与するネブライザーという治療を受けていました。
しかし、のど、鼻の炎症が好転しないので、ついにアデノイドという、のどの組織の一部を削除する手術を受けることになりました。

手術室で、
「これは仮面ライダーのマスクだよ。つけてごらん」
と言われたこと、そして手術後の足の点滴のことを覚えています。

小学生時はアトピー性皮膚炎がひどかったです。全身に広がってはいませんでしたが、頭や体の一部の皮膚がかさかさになります。そして強いかゆみもありました。
皮膚科で処方された副腎皮質ホルモンのぬり薬を、頭部によく塗っていました。中学生の頃までです。
その頃はステロイド剤の副作用などは問題になっておらず、ごく自然な対応でした。

今なら、医者いらず老い知らずの生き方などの本を読んでおり、異なる治療方法を選択していると思います。
病気の真の原因が少しずつ解明されてきました。
その場しのぎの対処療法ではなく、根本治療が可能となる代替医療、健康食品を利用することができるようになりました。素晴らしいことですね。

高校生の頃、新卒で着任した現代社会担当の先生が、複合汚染 (新潮文庫)の書籍を授業中に取り扱いました。

驚愕の真実に
「一体、社会はこれからどうなっていくのだろう」
と少し不安になりました。

それ以来、食品添加物、卵等の摂取を極力控えるようしました。すると、体のかゆみ、アトピーが少しずつよくなっていきました。
数年後、今度は牛乳を飲まなくなると、さらにかゆみとアトピーはよくなり、今ではほぼ完治しています。

「卵、牛乳はとても体にいい」
と思われ、学校給食では子どもたちが毎日牛乳を飲んでいます。

ところが、数年前にミリオンセラーとなった病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-には、乳製品を食べてはいけない理由が事実をもとに詳細に書かれています。現場の第一線で活躍する医師の言動には説得力があります。
今では、数多くの書籍が、牛乳、乳製品の弊害について言及するようになりました。時代が急激に変化しています。

最近は月に数回、自然食品店で、飼料に配慮され、放し飼いで飼育された鶏の有精卵を購入しています。
豆乳を時々飲みます。ごくまれに牛乳を飲むときは、同じく安全な飼料を与えられ、放牧されている牛のノンホモ牛乳を購入しています。
高価なので、その分自然に購入頻度が減り、一石二鳥です。

食品添加物については、当初、化学調味料である調味料(アミノ酸)なしの食材を探すのに苦労しました。
ほとんどの食品、お菓子に調味料(アミノ酸など)が添加されています。最初は、これが化学調味料であることを知りませんでした。食品の裏側―みんな大好きな食品添加物の本を読み、食品選択の参考にしました。

近所に数件の自然食品店ができ、そこで安心、安全な食材が手に入ります。
通信販売や生協の宅配でもこれら自然食品が手ごろな価格で購入できます。便利な社会になりました。

病気についての話にもどります。

上記以外にも、何と小学生という若さで突然の腰痛。スポーツテストが原因であったと思います。じっと座っていられなくなりました。単に集中力がなかっただけかもしれませんが…。
高校からは、今では有名な病気となった顎関節症(当時はこの病名が存在せず、どの病院でも対応できませんでした)を患いました。口を開けるときに右顎が痛むのです。食事のときも気になります。ゴリゴリと小さな音もしました。
その他にも数多くの病気を経験することになります。

開発途上国では、数回の食中毒、マラリア、デング熱にもかかりました。

病気がちであった人生。
幼少時は、時々両親に、
「どうしてこんな弱い体に生んだのか」
と不平をもらしていました。

(とんだ勘違いでしたが…。)

そして思っていました。
「ああ、また病気。どうしてこんなに体が弱いのだろう。
体が弱いと、勉強に集中できない。希望する大学にも行けない。

おもいっきり仕事ができない。やりたいように事をすすめることができない。こんなんじゃ出世も望めないし、社会的成功もおぼつかない。
なんでこんなに病気で苦しまなければならないのだろう」

ところが松下さんは、病弱であったにもかかわらず、
「体が弱かったのが良かった。運がよかった」
と言っていたのです。

「だから、人に仕事を思いっきり任せ、そして人も育ち、優れた人材になってくれた。

もし、わたしが健康ならば、自分で何もかもやってしまい、人も育たなければ、会社も大きくならなかっただろう」
と言うのです。


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不運? 幸運? 学校に行けなかった松下幸之助さん

2010年02月15日 | こころの旅
では二つ目の話です。

パナソニックの創業者であり「経営の神様」と称された松下幸之助さん。
誰でもこの名前を一度は聞いたことがあると思います。

「ヒット商品を生み続けるコツは何ですか」
との問いに、
「成功するまでやり続けること。ただそれだけ」
と答えた松下さん。松下さんに失敗の二文字はありませんでした。

僕が子どもの頃、ビデオ戦争がありました。VHS方式とベータ方式のどちらが主導権を握るかの争いです。
松下電器(当時)もこの選択に迫られていました。松下さんはどう決断したのでしょうか。

その方法はとてもシンプルでした。ある日、松下さんはVHSとベータ、両方のビデオデッキを手で持ち上げ、軽い方のVHSを選択したのです。
そしてこのビデオ方式の主導権争いはVHS方式が勝利することになりました。松下さんの判断は正しかったのです。

世間からは大成功者、幸運の持ち主と考えられている松下さん。実際はどうだったのでしょうか。

松下さんの、人生における象徴的な4つのエピソードを見てきましょう。

エピソードその1です。

松下さんのお父さんは米相場に手を出して失敗し、すべての財産を失ってしまいます。
そのため、松下さんは学校にも行けません。
9歳のときに小学校を中退し、大阪の火鉢屋に奉公に出されます。
10人家族は離散し、親兄姉は次々に結核で全員が亡くなっていきます。

誰が見ても、不運な人生ですね。

僕ならどう思ったでしょうか。

「ああ、何てことだ。小学校も卒業できない。家族一緒に住むこともできない。9歳なのにもう働いている。同じ年の友人たちは皆楽しそうに学校で勉強している。どうして僕だけこんな目にあうのだろう」

こんなところでしょうか。

ところが、生前の松下さんは、いつも
「自分はとても運が強かった」
と言います。

「わたしは学校にほとんど行っていなかったから良かった。運が強かった。

もし、大学でも行っていたら、分からないことも他人に尋ねることはしなかった。行っていなかったから、分からないのが当たり前。だから簡単に尋ねることができた。

おかげでたくさんの人から良い知恵を貰って会社を発展させることができた」

と言うのです。


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どんなときでも幸せに生きることができる 釈迦最後の質問

2010年02月14日 | こころの旅
ブッダは言います。
「最後の3つ目の質問だ。
それでは、その地域の者たちに実際に殺されたとしよう。
プルナカシャパよ、お前は死に逝く瞬間にどのように感じるのだ」

その質問に対しても、すかさずプルナカシャパは答えます。
「私は、ブッダ、あなたと、私に手をくだしてくれたその者たちに感謝します。

肉体を離れるとは、この苦しみ、苦悩煩悩の世界から至福の天国へと旅立ってよいということを教えてくれたあなた、ブッダと、そして実際にそれを後押ししてくれたその者たちに心から感謝します」

そこで、ブッダは最後に言いました。
「もうよい。お前は好きなところに行くがよい。
お前の行くところはどこも天国となるだろう」


当時のインドは戦国時代です。強盗、窃盗、殺人などの事件は日常茶飯事でした。
多くの民衆はその時代を大変な時代と認識し、苦労しながら生活をしていました。

しかし、ブッダ、そしてプルナカシャパはその同じ環境の中で、天国として生きていたのです。


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どんなときでも幸せに生きることができる 釈迦二つ目の質問

2010年02月12日 | こころの旅
そこで、ブッダは再び問いました。
「では2つめの質問をしよう。

説法をした結果、もしその者たちに、よってたかってなぐられてしまったらどうする」

すると、プルナカシャパはすかさず言いました。
「ブッダよ、私は、私に暴力をふるったその者たちに感謝をします。

彼らは、私をなぐり殺したり、絞り首にしたりする力を持っていたにもかかわらず、そうしなかったことに感謝します。

人々は私の説教が理解できず、とても腹立たしい気持ちになったのだと思います。
それにもかかわらず、ただ私をたたいただけで済ませてくれたことに、私は心から感謝をしたいと思います」


いよいよ最後となる三つ目の質問です。
どんな質問か想像がつきますね。

答えも予想できるでしょうか…。


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