たびびと

世界を楽しく旅しましょう!

世界遺産観光地から開発途上国まで、世界各地の心あたたまる、すてきな風をお届けします。

バス料金でタクシーを利用 ホンジュラスの風

2010年09月27日 | ホンジュラスの風
勤務先の事務所は住んでいる市ではなく、隣の市にある。下宿先からバスで約30分。通勤ラッシュはない。それでもバスは結構混んでいて、座れないこともある。

この事務所に、週に数回は顔を出す。他の日は、巡回や研修などで、県内各地に足をのばす。

この隣の市には、スペイン語のアルシデス先生が住んでいる。高校のスペイン語の先生だ。無理を言って個人授業をお願いした。毎回先生の勤務先の高校で授業を受けている。

これまでに2人の先生にスペイン語指導をお願いしたが、1人は約束の日に連絡なしの不在が連続して中止。もう1人の先生は、朝から夜まで高校の英語の授業を担当することになり、多忙を理由にこちらも中断した。

このアルシデス先生は、ラテン人には珍しく、きちんと時間通りに集合時間に現れる。そして教え方も上手い。スペイン語文書の添削も、適度に赤が入る。この添削指導でスペイン語指導力のレベルがよくわかる。上手い先生は、生徒のスペイン語レベルを見ながら、適度に訂正をすることができる。

ある日のこと。スペイン語の個人授業が終了し、高校から歩いて100メートルほど先のバス通りでバスを待っていた。
30分に1本の間隔で路線バスがやってくる。
バスのタイプは様々。中型のマイクロバスあるいは日本の路線バスと同じ大型のバス。年式はとてつもなく古い。
どのバスもエンジンはきちんと手入れしてある。スピードはそれほど出ないものの、乗車中に故障したことは、2年間のホンジュラス生活の中でほんの数回だ。

夕日を向かいにバスを待つ。暑さは相変わらず。
バス通り向かいにある小さな雑貨屋で、氷菓子を1レンピーラで購入する。コップに牛乳と砂糖を入れ、アイスの棒を差し込み冷凍したものである。味はいちごとかいろいろあるが、食品添加物で色付け、味付けされたものが多い。現地のフルーツを使ったものもある。
ぼくは牛乳味を購入することにした。

バスを待つこと数十分、目の前に見知らぬタクシーが停車した。

若い運転手が語りかける。
「乗ってきな。チョルテカまでだろ」

ぼくは少しびっくりした。
しかし、彼はチョルテカのタクシー運転手であることをすぐに理解した。
ぼくを市内で何回か見かけ、今仕事帰りで家に帰ることを知っているようだった。

彼は、この隣の市まで客をのせてきて、その帰りのようだった。

「バス代しか払えないけど、それでいいの」

彼はニッコリと微笑んだ。
「もちろんさ。さあ乗りな」

ぼくは安心して助手席に乗り込んだ。

交通規則があるのだろうが、ホンジュラスでは交通事故が多い。
そもそも田舎には信号がない。だからここでもよく交通事故を見かける。

首都の環状線では大きな交通事故を見かけることがある。車がつぶれていて救助を待っている様子はとても痛々しい。

助手席の死亡率が高いということを知っていたが、ぼくは気にせず、彼の隣に座った。

やはりタクシーは早い。バスだと移動に1時間かかることもある。しかし、タクシーだと数十分。

彼とは、彼がタクシー運転手をして何年になるのか、ぼくが何をしているのか等を話した。彼は若いがまじめに、そして楽しくタクシーの仕事をしていることがわかった。
自宅まで送ってもらうのも申し訳なかったので、バスで降りるときと同じ市内入り口の公園前で降ろしてもらった。

事務所の指導では、見知らぬ人の車、タクシーに乗ることは誘拐等の危険性があるので、禁止されている。でも彼の明るい表情が、ぼくの緊張を一瞬にして緩和した。

自転車ですぐに一周できてしまう小さな街に住んでいた。道を歩いていると次々と知り合いに出会う。挨拶だけのこともあれば、長々と立ち話をすることもある。時には座り話も。
ぼくがアジア人ということもあり、知り合いにはならなくても、存在は結構多くの人が認知してくれている

田舎にありがちな噂というのはあまりない。心地よい広さの街なので、少々羽目を外しても大丈夫。もちろん、勤務先の先生方の間ではすぐに噂になってしまうのだが…。

若いタクシー運転手の好意がとても嬉しく、さわやかに一日を終えることができた。

田舎街の人々とともに生きている喜びは素晴らしい。

今日も街との一体感を感じながら、シャワーの後、シーツ一枚の敷かれているシンプルな籐のベッドに横になった。

生まれて初めて本気で勉強をした日々 ホンジュラスの風

2010年09月20日 | ホンジュラスの風
地方都市での語学研修が終了し、首都での勤務が開始された。
前任者の研修会を見学してわかったことは、驚異的なスペイン語力が必要ということだ。引き継ぎ期間は約3ヶ月。彼女が帰国するときには、ぼくがスペイン語で同じレベルの研修会を実施できるまでになっていなければならない。

そのプレッシャーはすごかった。
日本に逃げ帰るわけにはいかない。
だから、生まれて初めて、死ぬ気で勉強をすることになった。

前任者の研修を見学した翌日から、異国での生活、食事も慣れていないのに、毎朝5時に起き、スペイン語のラジオを聴くことをスタートする。毎朝1時間、聞き取ることのできた何回も繰り返される単語をノートに拾い書きをして、辞書で調べた。

一ヶ月で1冊のノートが単語で一杯になった。暇さえあればノートを広げ、それらを暗記していく。

高校時代の英語の暗唱テスト。効率的に覚えることができなかった。ぼくの暗記能力はそんなものかと思っていた。
ところが、今回のスペイン語は状況が異なった。どんどん吸収し、暗記していくことができた。仕事と実生活で覚えた単語を何回も使う。自然に、脳の回路が強化された。

バスで、道で、会話の練習のため、数多くのホンジュラス人に道を質問した。
「この場所に行くには、どうすればいいのですか」
知っている道でも、会話の上達のためと思い、時間のあるときはよく道を尋ねた。

勉強を進めていくうちに、少しずつ少しずつスペイン語を聞き取ることができるようになり、自分の意思を伝えることができるようになってきた。

ぼくはスペイン語が大好きである。
なぜだろう。

スペイン語には、英語のような発音の聞き取りにくさがない。
単語を書いた通りに発音し、アイエウオの母音も同じ。だから、スペイン語で話をしていると、意味はわからなくても、何の単語を言っているのかは理解できる。ゆっくり話してもらえば、スペイン語で記述ができる。

英語は日本語には存在しない母音の音が何種類もある。それが聞き取れない理由の一つだろう。
また、英語の周波数は日本語ととてもずれているらしい。それも聞き取りにくい理由の一つだ。英語の周波数に耳を慣らせるという高価な教材を購入したことがある。しかし、まったく効果はなく、高い買い物になった。

このスペイン語ラジオ放送を聴く勉強方法はこの後もずっと続けることになる。
更に、小さなスペイン語フレーズを毎日数行ずつ暗唱した。
コミュニケーションレベルが日々向上していくのが実感でき、嬉しかった。だから、勉強への興味も持続した。

「人は窮地に追い込まれ、必要性に直面すれば思いもよらない能力を開花することができる」
スペイン語学習を通じての教訓である。

英語もそうだろう。
中学か高校生のときに1年間海外留学にでも行っていれば、間違いなく英語に対するアレルギーはなかっただろう。機会があれば、今でも、長期で英語圏の国に語学留学してみたいと思っている。

スペイン語を話せるようになったことで気をよくしたぼくは、ホンジュラス帰国後、少しずつ英語の勉強を継続した。そして何と、英語検定の準1級に合格することができたのだ。これはぼくにとって驚異的なことである。

あの英語嫌い、英語アレルギーの人物が英語の学習を継続することができたのは、スペイン語での経験があったからだ。

英語検定のテストでは、長文理解、作文がほぼ満点。作文はパターンが同じなので模範解答を作っておくとよい。しかし、苦手なリスニングは半分もとれなかった。だから、合格点ぎりぎりで1次をパスした。

問題は2次試験の面接。
アジア人らしき人物が面接官。質問されるが何を言っているのかがわからない。毎回質問内容を聞き直した。1問は何回聞いても意味がわからなかったので、適当に回答した。
2次試験は、統計によると80%以上の人が合格するらしい。ぼくは合格点に1点及ばなかった。

1次合格者には、確か2回程度、1次免除で2次試験のみを受験する権利があった。2回目の面接を受けようとしたところ、海外赴任のため断念する。

帰国後再度1次試験を受験。今度は不合格。何回か受けてようやく合格する。

2度目の面接試験。
何と面接官は日本人の女性だった。フリートークでは彼女が何を言っているのかさっぱりわからなかったが、質問になると、日本人好みの発音で、ゆっくりと質問してくれた。涙がでるほど嬉しかった。
そして最後の質問で問題を聞きかえすと、赤ちゃんに言葉を教えるときのようにゆっくりと繰り返してくれた。もしかしたら自分の英語力が向上していたのかもしれないが、それは錯覚だろう。こうして、面接官が日本人だったという幸運もあり、何とか英語検定準1級に合格することができた。

今でも英語の聞き取りは苦手である。
自分の耳の構造が変化しないかぎり、英語力を必要とする仕事につくことは難しい気がしている。

語学力 ホンジュラスの風

2010年09月13日 | ホンジュラスの風
学生時代から英語が苦手だった。特に英単語を暗記することが苦手だった。
英語の単語に限らず、日本史の年号や生物で何の意味もないことをただ暗記することに意欲がわかなかった。

中学時代、学力は学年トップレベルだった。
ところが、山脈名などを単純に問われる地理のテストの点数は、他教科と比較して極端によくなかった。

高校のとき毎週英語の暗唱テストがあった。何人かの人はきちんと覚えている。ただただ感心していた。
自然に英語のテストの点数が下がっていき、興味もわかなくなり、勉強時間も他教科に比べて減っていった。

英語を敬遠し始めたもう一つの理由はリスニングである。
何を言っているのかさっぱりわからない。聞き取れない。
ケーブルテレビで外国のニュース番組が放映されているが、その言語が英語なのかどうかもわからないときがある。英語の音声が耳に入ってこない。当然意味もわからない。

時間のありあまっていた大学生時代。英語サークルに入り英語検定試験を受けていた友人がいた。
「あの英語を、サークルで勉強するなんて、一体何を考えているんだ」
そう思ったものだった。

日本から中南米に渡航するとき、ヒューストンで一泊し飛行機を乗り換えることが多い。ホテル宿泊券は航空券に無料でついてきた。

空港に到着し入国手続きを済ませ、荷物を受け取る。そして出口へ。
たくさんのホテルの名前が書いてある直通電話で予約してあるホテルへ連絡をする。シャトルバスで迎えにきてもらうためだ。

最初にこの電話を利用したときのこと。
相手が何を言っているのかわからなかった。

何回も話す中、相手が
「あなたは今どこにいるのか」
と聞いていることがわかった。

ぼくは繰り返し言った。
「ヒューストン空港だよ」

相手が続けて質問をしてくる。ぼくは同じ回答を繰り返した。
話が伸展しないので、一度電話を切る。
更に気を取り直して電話をするが、同じ質問が繰り返される。

最後の最後、ぼくは気が付いた。
「空港内のどこのターミナルにいるのかを聞いているのだ」

こんな単純なやりとりもまともにできない英語力だった。

ご参考までに、共通一次試験の英語の自己採点は、全国平均を下回った。

ホンジュラス赴任前、日本で3ヵ月のスペイン語語学研修があった。ホンジュラスでも6週間の研修が継続。
先生は日本人好みの発音で、ゆっくりと話しかけてくれる。だから聞き取りには問題がない。

しかし、ホンジュラス語学研修ホームステイ先に到着し、挨拶をすると、彼らが何を言っているのかさっぱりわからなかった。スペイン語を本当に話しているのかどうも疑わしかった。
特に、同じ敷地の離れに住んでいたホームステイ先の親戚のおじいさんはものすごいイントネーションと訛りがあった。
だから、ホンジュラスの語学研修の期間、ホームステイ先の家族とは、会話しながらコミュニケーションしたという思い出がない。
単語を並べて意思の疎通を試みるのが精一杯だった。

ホンジュラスに住んで1年後、このホームステイ先を再訪問したことがある。
そのときはスペイン語をはっきり聞きとることができた。それと同時に、彼らがスペイン語を話していたことを確認できた。(当たり前ではあるが。)


多くの方に楽しい旅をしていただければと思います。
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洗礼 ホンジュラスの風

2010年09月06日 | ホンジュラスの風
前任者と仕事を一緒にしているある日のこと、出張についての話があった。
「明日から地方都市で地方研修よ。一週間の滞在予定なので、その分の着替えとかを用意しておいてね」

他に知らされたのは、翌日集合するターミナルの名前だけ。
そこへはタクシーで行けばよいことを聞いた。

その日の夜、研修場所のことなど何もわからないまま、とりあえず一週間分の服を大型のバックパックに詰めこんだ。

そして翌日。待ち合わせ場所のバスターミナルに無事到着した。
何やら危険な雰囲気の漂うこのバスターミナルはマジョレオと呼ばれている。
事務所はこのターミナルの利用を禁止している。しかし、利便性がよいのでここを毎回利用しているということを、バスに乗り込みながら前任者から聞いた。

3時間を超えるバスの長旅である。
家を出発したのが早朝であったので、すぐ眠りに入った。

何分あるいは何時間経ったのかはわからないが、息苦しさを感じて突然に目が覚めた。

この時期の首都テグシガルパの気候は日本の初夏のような感じである。だが、この目覚めたときの暑苦しさは、東京真夏日の猛暑を超えていた。
まるでサウナにでも入っているかのようである。背中には汗がにじんでいた。

外を眺めると砂漠のような草原が広がっている。
ところどころに木や草が生えているが、何となく乾燥している。

不思議な光景を眺めながら、ついに目的地に到着した。
暑さでヘトヘトになりながらバスを降りる。

軽喫茶に入り、エルサルバドル料理というププサを注文した。前任者がいろいろと料理の説明をしてくれるが、あまりの暑さに頭はボーっとしていた。
食欲はなく、とりあえず一つばかり口に入れる。

そこから歩くこと数十秒、前任者はあるレンガ造りの建物を前にしてこう言った。
「ここは私の常宿よ」
「常宿…」

言葉の響き、彼女の表情から、上級の宿「上宿」を主張しているように感じた。

期待しながら、薄汚れた門をくぐる。入り口は雑貨屋となっている。
耳の遠そうな主人が椅子に座ってのんびりとうたた寝をしている。前任者は彼を起こし、宿泊の受け付けを済ませた。

鍵を受け取り、奥へと進む。
その宿は、中庭を囲むようにいくつかの部屋があった。

部屋番号は2。2の番号札のついた部屋に入り、ぼくは洗礼を受けた。

ベッド、机、椅子、扇風機のある8畳ほどのシンプルな部屋。
ほこりがすごい。何年も掃除していないかのような床の汚れ、そして天井にはいくつものくもの巣が。

「これはホテルだろうか。すごいところに来てしまった」

明日は早い。そのため、とりあえずシャワーを浴びるため共同シャワー室に行く。そこでまた仰天。
温水は当然なし。水不足のため、水はチョロチョロとしか流れない。
そして、併設してあるトイレには汚物がたまり、ひどい悪臭がシャワー室まで漂っている。
後に、公立学校のトイレも同じような状況であることを知ることになるのだが。

あまりの匂いの強さと便器の様相に吐き気を感じつつも根性で手早くシャワー、トイレを済ませ部屋に逃げ帰った。

あまりの暑さに眠れるか心配であった。
扇風機のスイッチを押す。日本では考えられないような扇風機のモーター音が鳴り響く。蚊にさされないように蚊取り線香もたく。ここは熱帯病、マラリアが最も頻繁に発生する地域だからだ。
虫よけスプレーを腕に塗り、ベッドにも散布する。前任者に教えてもらったダニ対策である。

天井のくもの巣が扇風機の風で揺れている。くもはじっとしていて動かない。
ゆれがあまりにも大きく、寝ているときに落ちてくるのではと気が気でならなかった。

長旅の疲れがあったものの、くもの巣落下の恐怖、扇風機の音、それと暑さでほとんど一睡もできず朝を向かえた。

「おはよう」
前任者は平然とした顔でホテル入り口に座っていた。

予定通り朝の7時に研修会が開始。
そして、研修中、休み時間と有効に時間を利用しながら、彼女はぼくに研修ノウハウを伝授し始めた。

一泊の宿代は15レンピーラ。日本円で百円程度である。
後にも先にもこの金額で宿泊したのはこれが最後。ここはホテルではなく、ワンランク格の下がったhospedajeと呼ばれる宿泊施設であった。

後から知ったことだが、この当時、出張で利用することのできる宿代の上限は250レンピーラ。
近所に他のホテルがなかったのか、あるいは先輩の好みか、ぼくはこの宿に同行することになった。

一週間の研修が終了して首都に帰る。
「何か元気がないね」
「やせたね」
職場の友人、ホームステイ先の家族から何回もこの言葉を聞いた。

ちなみに、ぼくはその研修先が職場となることが決まっていた。つまり移動である。

「あの地でぼくは生きていけるのだろうか」
少し心配になった。

小さな美しい数々の小島。
小舟で巡回した海岸線沿いの小学校。
そして地上の楽園パラシオス。
更に野生のジュゴン
海の波の音を聞きながら宿泊した空き家。

全ては素敵な前任者から頂いたプレゼント。

最も強烈だったのが、例の宿泊施設。

お陰様で、それから数年滞在することになった中南米生活では、どんな宿でも気持ち良く宿泊することができた。

「あそこよりはましだな」
そう思いながら…。

今でも、この前任者と過ごした数ヶ月の日々が、ぼくの脳裏に焼き付いている。


多くの方に楽しい旅をしていただければと思います。
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