たびびと

世界を楽しく旅しましょう!

世界遺産観光地から開発途上国まで、世界各地の心あたたまる、すてきな風をお届けします。

ドライバーの誇り グアテマラの風

2010年07月26日 | グアテマラの風
グアテマラで仕事をしていたとき、よく国内各地に出張に出かけた。
運転手つきの公用車での出張。まるで大会社の会長のようだ。
公共交通機関があまり発達していないこと、治安状況があまりよくないことなどが運転手つき公用車を利用する理由だ。

バスで出張に行ったことも多々ある。
首都バスターミナルは酔っ払いがたむろをしていて、危険な香り。ターミナルを移動する時、そしてバスを待っている間、何回も危険を感じたことがある。

グアテマラ人のドライバーと出張に出かけたある帰り道。
幹線道路沿いの定食屋でお昼を食べた。
ぼくも彼もお魚定食を注文した。グアテマラではあまり海の幸を食する機会がなかった。仮にメニューにあっても、鮮度は期待できない。でも、その日はお魚にした。
手早く食事をすます。そしてトイレに行き、出発の準備を整えた。

最後に勘定を払おうと席を立つと、ぼくは驚くべき一言を耳にした。

「昨日はセニョールがおごってくれたから、今日は俺がおごるよ」
そう言うと彼はウェイターを呼び、勘定を支払った。

ぼくは腰が抜けそうになった。
長年中南米で仕事をしていて、ドライバーに食事をおごってもらったことが初めてだったからだ。
ドライバーの給料は決して多くない。というより生活ができる最低ラインの給料だ。彼らの大多数は貧困層に属している。

出張前に彼の家に立ち寄ったことがある。忘れた宿泊荷物を取りに行くためだった。その地区は第四地区。グアテマラシティで最も危険と言われている貧困地区の一つ。外国人が中に入ったら最後、生きては出られないと噂される住宅地だ。

住んでいる地域が、その人の経済状況、社会的ステータスを象徴しているのである。

車で狭い道を中に入っていく。家、人、雰囲気が殺伐としている。
車の中で彼の用事を待っている間、ぼくは冷や汗をかいた…と言いたいところだが、不思議と危機感は何もなかった。
それでも、道行く人を眺めながら、貧困レベルは十分に感じることができた。

そんな彼が
「今日は俺の番だ」
と言うのである。

中米諸国に住んでいて、ドライバーにおごってもらうという経験は皆無。
むしろ、これまで仕事をしてきた他国のドライバーたちは、日本人上司がおごってくれるという慣習を熟知しいて、より高級なレストランへ入りたがる。そして遠慮なく注文をする。
日本人と長く仕事をしている事務所専属ドライバーほど、遠慮の感覚が薄れているところが興味深い。

ホンジュラスで事務所専属ドライバーと仲良くなったことがある。
彼は雇用されたばかり。事務所の人と皆で高級レストランに食事に行ったときのこと。
彼は一番安いハンバーガーを注文し、何となく申し訳なさそうに、隅で食事をしていた。

数年後のホンジュラス訪問。彼は事務所でも長期勤務のうちの一人になっていた。そんな彼と共に事務所の人数名で食事に行く。

あの知り合ったばかりの謙虚さは、彼から消えていた。

開発途上国では、富裕層が貧困層に寄付、寄贈をするのは当然と思っている。
「富める者が貧しいものに施しをするのは当たり前」
という感覚である。
だから、
「もらえるものはきちんともらおう」
という心構えが浸透していて、当然、感謝の気持ちも少ない。

だが、このグアテマラでは様子が少々異なった。
おごられ続けることに対する誇り高き抵抗が見られたのだ。

「きっと彼らは経済成長発展するだろうな」
ひそかに思った。

あるいは、逆にこのプライドが足かせになり、経済成長を止めてしまうのだろうか…。

グアテマラのコーヒーはとてもくせのある味だということを、コーヒー通の人から聞いたことがある。
彼らの中にある種の信念、誇りがその味に反映しているのかもしれない。

かっこよすぎるあるグアテマラ人の男性 グアテマラの風

2010年07月19日 | グアテマラの風
ある日曜日のこと。
カップルが車で教会にやってきた。

敬虔であってもなくても、多数のグアテマラ人は休日に教会に行く。近くの教会であることもあれば、中央公園にある大きな教会のこともある。
ここの教会はとても小規模。設備も古びていて斬新さはない。それでも休日には近所から多くの人がやってくる。

カップルは数台分しかない教会駐車場に車をとめた。教会のミサはまだ始まっていない。
まず男性が素早く車から降りる。そして、女性が座っている助手席のドアの前に行き、静かにドアを開ける。よく映画で見るエスコートだ。
この教会に富裕層は来ない。このカップルも一般庶民階級である。それでも男性は、女性に対する気配りを欠かさない。

教会入り口前の小さな広場には、この日もインディヘナ(原住民)の細めのお母さんがお菓子、飴、チョコレート等を通り過ぎる人々に売っていた。
以前この丘に来たときに何回か彼女を見かけていた。この地域を商売のテリトリーにしているようだ。

携帯式の小さな箱に詰まったたくさんのお菓子。
彼女はお菓子を携帯して売っている。子どものとき、図工の時間に写生で画板を使ったことがある。あの画板を小さな箱にして、胸の前にぶら下げたような格好だ。
携帯しないときは、もちろん地面あるいは棚の上に置いて商売をする。

グアマテラでは未だに民族衣装を着ているインディヘナの人々がいる。このお母さんもどこかの地方の民族衣装をまとっていた。地味な色だが、様々な模様が織り込まれている。地域によりこの民族衣装に特徴があるのだが、ぼくには彼女がどこの地域出身なのか知る由もなかった。

この母親の周囲では4人の小さな子どもが遊んでいる。
母親にまとわりつく末っ子。ボール投げをする兄弟。父親の姿は見えない。恐らくシングルマザーであろう。

カップルが教会入口に向かって歩いていく。
すると、男性はこの物売りの女性の前で立ち止まる。
箱のお菓子を眺めると、
「これとこれとこれ」
いくつかの飴やキャラメルなどの駄菓子を手に取る。
そして代金を払う。

「ずいぶん買うな」
お菓子好きのラテン人。それでもこのカップルには量が多すぎるように思えた。

ところが、次のアクションにぼくは唖然とした。

この男性は、その購入した駄菓子全てをそのお母さんに手渡す。
そして一言。
「そこにいる子どもたちにプレゼントするよ」

ぼく同様、お母さんの表情が驚きに変わる。
しかし、次の瞬間には、喜びの笑顔になった。

はずかしい素振りや、遠慮がちな態度はない。
「どうもありがとう」
お礼をし、子どもたちにこれらのお菓子を分け与えた。
子どもたちは大喜び。

隣にいた恋人の女性も幸せそうな笑顔。
2人は何ごともなかったかのように、教会の中に入っていった。

「うーむ、実にかっこいい。かっこよすぎる。さすがはグアテマラ人だ」
ぼくは大いに感心する。

恋人の前で、あまりにかっこよすぎこの男性の行為。
まるで映画の一場面。

「これは使えるな」
将来、恋人をメロメロにする秘儀の一つとして、この手法をストックさせてもらうことにした。

グアテマラ人というのはとてもプライドが高い。自尊心が高い。
誇り高い民族なのである。

あくまで周辺国の人と比べてのことだが。


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休日の楽しみ グアテマラの風

2010年07月12日 | グアテマラの風
中米にはいくつかの国がある。パナマ、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ…。
スペインが統治していた時代があり、これらの国で人々はスペイン語を話す。流れているのはラテンの血。原住民インディヘナの血も。

共通する要素がたくさんある。だから、国民性はどこの国も同じだと思っていた。ところが、中米各国で仕事をするようになり、この考えが間違っていることに気づく。
各国とも独自の民族性がある。性格が異なるのである。

グアテマラ人のかっこよさ、プライドの高さは中米の中でも群を抜いていた。

グアテマラの中央公園から歩いて約20分の位置に、カルメンという小さな丘がある。スペイン語では、Cerito del Carmen と呼ばれている。
先日お話をしたホンジュラスのピカッチョのような高さはない。バスではなく歩いて登ることのできる小さな小さな岡だ。
頂上(というほどのものではないが)には小さな白い教会が建っている。

ある日の仕事帰りのこと。
職場の同僚マリアさんが、帰りに家まで車で送ってくれることになった。
そのとき、この素敵な眺めの見えるカルメンの丘に寄り道をした。簡単な観光案内だ。

丘の中腹に車を駐車し2人でグアテマラの首都グアテマラシティの町並みをのんびりと眺める。
日はまだ暮れていない。太陽がしっかり照っているので、景色もくっきりだ。
話好きのマリアさん。グアテマラのことをいろいろと教えてくれる。
彼女が独身で若ければ、恋に落ちていたかもしれない…。

マリアさんは、40台半ばの小太りな女性。天然パーマの美しい金髪の持ち主。大変親切で、毎日職場でとてもお世話になっていた。まるで我が子のようにぼくの面倒を見てくれる。
彼女がいなかったら、ぼくの業務は頓挫していたかもしれない。

「ここは危険な所なので、あなたのような外国人が一人で来てはだめよ」
別れ間際に何回も釘を刺された。

「危険? 治安のことだろうか」
本来危険好きのぼく。
この助言が脳裏に焼きついていたが、その週末、早速探索のためこの丘に出かけた。

カルメンの丘のふもとに到着する。
周囲は典型的な貧困層。確かに危険な雰囲気だ。教会を訪れる人々も何となく危なさそう。酔っ払い、ルンペンらしき人も丘の中や周囲にたむろしている。
そして日中というのに、妖艶な女性たちが客引きをしていた。

丘や教会の周囲はお世辞にもきれいに整備されているとはいえない。それでもこの丘の頂上に登ると、素敵な景色と広場の雰囲気で何となく心が落ち着いた。

ぼくは、丘の頂上にある教会入り口に咲き乱れている素敵な花園と生い茂る木々がとても気に入った。
花の名前はわからない。深紫の花が美しく咲いている。
頂上の広場では、小さな女の子が父親とボール投げをしている素朴な光景が。それを眺めていると、時間が経つのを忘れた。

その日から、この教会へ散歩に行くことが多くなった。休日の気分転換である。

教会横には古びた白い塀の残骸がある。そこに腰を下ろす。
教会のある丘の頂上は結構広い。子どもや青年がサッカーをすることもあれば、親子連れがピクニックに来ることもある。

のどかな光景を静かに眺めながら、クリシュナムルティ「自我の終焉」を何回も読むのがお気に入りの休日の過ごし方の一つだった。


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無言の会話 ホンジュラスの風

2010年07月05日 | ホンジュラスの風
田舎の路線バスには決まった停留所がない。好きな場所で自由に乗り降りができる。
首都のバスは日本と同じ停留所方式。停留所にポストがないところがある。そんなときは、周りの人に聞くと教えてもらえる。

バスに乗っていて困ることが一つ。バスのブザーが故障している場合が多い。
ブザーといっても、日本のバスのようなボタン式(の高度な電子システム?)ではない。バスの天井にひもが1本通っていて、それを引っ張るとブザーがなる。

次の停留所がどこなのかを知らせるアナウンスが流れることはない。
乗客は自分の降りる停留所の位置を知っているので、停留所が近づくとバスひもを引っ張る。これが故障しているときは、天井を叩く。天井の鉄板を叩く音で、運転手に知らせるのだ。
ホンジュラス人の間でも、これはあまりよいマナーとは思われていない。しかし、多くの男性は天井を使うのが大好きだ。
一方、女性は運転手に口頭で伝える。
そのときの掛け声は「proxima(次)」。

大型都市間を結ぶ高速(ではないが)バスは自由な場所での乗り降りが可能。
乗客は、降車したいポイントにバスが近づくと、バスの前方に移動。そして運転手か助手に停車位置を伝える。
自分の席から大声で運転手に停車位置を伝える人もいる…。
とても便利なシステムだ。

首都は大きい。目的地の位置がよくわからずにバスを利用することがある。
そういうときはどうするか。

まずバスの前方に座る。席が空いていない場合は、前方に立つ。
そしてバスの運転手にお願いする。
「人類博物館へ行きたいのだけれど、近い停留所で下ろしてください。」

この一言で、最寄りの停留所で停車してくれる。
停留所に停車したとき、親切に目的地までの行き方を教えてくれたことがあった。
後方には多数の乗客。
しかし、
「早く発進しろ」
とは誰も言わなかった。

ところが、この方法で一度失敗したことがあった。乗り越してしまったのである。

運転手に行き先を伝えたが、いつまでたっても何も言わない。
そこで再度聞いた。
「博物館はまだですか」
「ああ、忘れてた」
「…」

このことがあってから手法をすこし変化させた。
運転手に、目的地のことを忘れていないかを聞くのは失礼だと思った。
そこで、
「あと何分くらいで博物館に着きますか」
と聞くことにした。
こうすると運転手は目的地のことを思い出すことができる。

また、この質問を近くの乗客にすることもある。
これで二重に安心。

これ以来、バスで乗り越すことはなくなった。

バスに揺られること約1時間。ピカチョの停留所に到着した。
バスの真ん中の席に座っていたので、降車するため前方に移動する。
休日はたくさんの訪問客があるが、この日は平日。他に降りる客はいなかった。

前から2番目の窓側に座っていた、細めのひげの立派なおじさんがぼくの目を見た。
そしてニヤリとしながら、ウインクをした。
顔の表情でメッセージを送ってきたのだ。
そのメッセージとは、
「彼女を公園で….」
である。

これは男性同士でしか理解できないと思う。
以心伝心だ。

彼女に対してそういう気持ちはなかったが、このおじさんの好意に応えるべく、
「まかしておいて」
とこちらもウインクをして、バスを降りた。

降車間際の一瞬の無言の会話。

昔と比べると首都の治安は悪化し、人々は挨拶をしなくなったとよく聞く。
それでもこういう楽しい意思の疎通が頻繁に体験できるのは、ラテンの国ならではだ。