たびびと

世界を楽しく旅しましょう!

世界遺産観光地から開発途上国まで、世界各地の心あたたまる、すてきな風をお届けします。

許すこと、許されること ホンジュラスの風

2010年11月28日 | ホンジュラスの風
ある日曜日のお昼前、小さなスーパーというか雑貨店で小物の買い物をしていると、小学校で技術を教えているホセ先生に鉢合わせした。
2人のかわいい子どもを連れている。

「やあ、何やってんだ。」
彼はいつもの通り、にこにこしながら、そして高いテンションで話を話しかけてきた。

ラテン人は、特に田舎の人は、すごくテンションが高い。
日本人はどちらかというと静かに、しんみりした会話をする傾向がある。だが、この国ではいきなりハイテンション。

数分の会話の後、
「今日午後サッカーの試合があるから一緒に見に行こう。午後誘いに行くからな。」
とのことだった。

家でお昼を食べ、午後は部屋でのんびりしながら彼を待つことにした。
そして時は流れ、夕食になった。

つまり彼は来なかったのだ…。

はっきりいってこのときは、ムッときた。

しかし、ホンジュラスでの田舎生活が続くにつれて、このようなことが度々ではないものの、結構な頻度で続き、あることに気がついた。彼らをよく観察しての結果である。

この手の約束は挨拶の一つなのだと結論付けた。
つまり、「とてもお前を気に入ったぞ」ということを伝えるリップサービスの一つなのである。

会話があまりにも楽しく気分がよくなり、ついつい、何かいい言葉、誘い等を連発してしまうのである。気持ち、感情の高まりを理性でコントロールできず、表現してしまうのだ。

だから、この手の誘いやオファーは、
「お前との話がとてもはずんでよかったよ。」
という挨拶であると理解すると、約束を守られないことがそれほど苦にならない。

本当の約束するとき、例えば、学校の行事であったり、物の売買のことになると、時間や費用をきちんと連絡する。そして、何となく真顔になるので、「これは本当の約束だな」ということが理解できる。

しかし、挨拶と思っていたら、本当に誘いにきたことが数回ある。そのへんが、なかなか難しい。

ただ、約束や時間が守られなくても、ラテン人は不平不満を言うことが少ない。

ある研修会の日、何となく朝の準備が遅れた。そして、いつもは30分間隔で来るバスがなかなか来ない。
そのため、30分程度遅刻して研修会場に着いた

ほとんどの先生方が集合していておしゃべりをしている。
遅刻すると研修会の評価得点から減点することを初日に伝えてある。だから、みな、比較的時間前に会場に来るようになる。

ところが、ぼく自身が遅刻してしまったのだ。

「今晩は。先生。」
いつものジョークが聞こえてくる。しかし、待っていてイライラしたという攻撃の感情は含まれていない。

「いやー、恋人がベッドから放してくれなくてね。」
30名ほどの先生が一斉に爆笑した。

約束、時間を守ることは大切だ。ラテン人は約束にルーズなところがあるが、ぼくは極力守るようにしている。
ただ、先の挨拶のように、このラテン文化のいろいろなことに気づいてからは、あまり約束が守られないことでイライラすることはなくなった。

すると、自分が今回のように遅刻したときも、あまり焦らない。人間関係もゆったりと、温和なものに変化していった。

それでも、金の貸し借りの約束には気をつけている。

「金を貸してくれ。」
とあるバーで顔見知りになった若いやくざ風のお兄さんから強く請われた。
仕方ないので、40レンピーラほど貸す。

数日後、彼と再度道で会う。
「金貸してくれない。」
と再度の依頼。

「この前のはいつ返してくれるの。」
と催促する。

にやりと笑いながら彼は立ち去っていく。

このように、一度お金を貸すと、返すことなく何回もたかろうとする。
戻ってくることはまずないと考えた方がよい。

だが、一緒に仕事をしている先生方からは、このような「金貸してくれ。」との依頼を受けたことはない。

このような金貸してくれ攻撃に遭遇したときには、
「銀行へ行ったら。」
と笑いながら受け答えすることが習慣になった。

このような定額なお金の貸し借りではなく、投資話を持ちかけられたことがある。
市の中心地から歩いて数十分のところに広大な空き地があった。かつて綿花栽培がこの地域で行われていて、その綿畑での物流の拠点となっていた旧飛行場がある地域の近くだ。
そこを、ある銀行が開発地域に指定し、高級住宅街地域建築プロジェクトを計画したというのだ。今なら格安の値段で土地と家が購入できるという。

何人もの先生方が、
「私はもう買ったぞ。お前も今買っといた方がいいぞ。できてからだと高くなるぞ。」
と言う。皆がとても熱心に推薦する。

でも、ぼくは、このまだ紙面での計画にすぎない住宅街は、決して実現することのない架空のプロジェクトであると直感が判断した。詐欺ではないが、計画は頓挫し実行に移されないことを今までの経験から確信したのだ。だから、この誘いを丁重に断った。

数年後にホンジュラスに里帰りしたさい、パンナアメリカハイウウェイを通るバスからこのプロジェクト予定地を覗いてみると、やはりかつてと同じ空き地が広がっていた。

聞くところによると、訴訟事件は一件もおきていない。

温和な彼らに今日も乾杯だ。

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生きるか死ぬか2 ホンジュラスの風

2010年11月22日 | ホンジュラスの風
一つ分かったことは、こういう危機のときはなぜかお腹がすくということだ。
第六感が危機を察知して、体に栄養をたくさんストックしようとしているのかもしれない。
下宿のお母さんはいつも通り、いや、むしろ少し多めに食事を準備して、お腹一杯食べさせてくれる。

2人の成長期の子どもへは
「少し我慢しないさい」
と厳しい言葉。
でも、実の子ではないぼくには、それ以上に世話をしてくれ、とても嬉しかった。

夕方になり、縁側でいつものゆりかご椅子にゆられながら考えていた。

「今停電している。しかし、このような危機がなくてもしょっちゅう停電している。
そもそも、電気は夜の電灯とテレビ、音楽を聴くときぐらいしか使わない。

ガスの供給もストップした。ガスタンクが空になるとお手伝いの子が近所の店にガス充填に行く。電気調理器も使えない。
そこで、食事の準備はまきを利用することになった。
ただ、この日に限らず、おばあちゃんはよく主食のフリホーレスをまきで準備している。光熱費が高いからだ。だから、これも特別のことではない。

飲み水のストックは数週間分ある。

ここは水事情のよくない地域。水道から水が出るのは週に2日。それもちょろりちょろり。慢性的に水不足なので、このような状況でも特に大きな変化を感じない。

災害時ではあるが、現代のエネルギーに極度に依存しているわけではない。
だから、誰もパニックにならず、いつもとそれほど変化のない生活を継続できている。

これが日本だとどうなるだろうか。」

危機の中での不思議な感覚だった。

数日後、日本の家から電話があった。
「無事か」
とのことだった。
「大丈夫だよ」
と応えて電話を切った。

あとにも先にも、日本から突然電話があったのはこれが最後である。

更に数日後、事務所の現地職員から電話がある。
「Como esta? (大丈夫か)」
と聞かれ、
「Bien. (無事ですよ)」
と答える。

災害時の安全確認であったということを後日知った。
その旨を秘書は何も語らず、何かおしゃべりでもしたく電話をしてきたのかと思った。ぼくが鈍感だっただけなのかもしれない。

数千人の死者、数万人の被災者を発生した超大型ハリケーン。
首都テグシガルパの市長が、視察中にヘリコプターが墜落して死亡。
次期大統領候補と言われる大の人気者だっただけに、この災害と同時に国民は意気消沈した。

後日首都に行き、びっくり仰天する。
首都のコマヤグア地域は全壊。泥と化していた。
文部省も2階まで浸水し泥で埋まっていた。もし大雨の日に会議あるいは残業でもしていたら、命を落としていただろう

ぼくの住んでいる町には港があり、石油備蓄基地がある。そのため、幹線道路修復は他地域よりも優先的に行われ、一週間ほどで物流が再開した。

国外からの援助は何も届かない。
隣の市で、米国の支援ヘリコプターが救援物資を直接市民に手渡していた。これが唯一市民に届いた国際援助物資である。

災害時に備えて最低でも一週間分程度の食料と水を確保しておくことの大切さが身にしみた。

この災害からの復興には最低10年以上かかるといわれていたが、3年後に訪問した首都テグシガルパは、以前の生活を取り戻していた。

関係者の皆さんどうもご苦労様でした。

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生きるか死ぬか1 ホンジュラスの風

2010年11月15日 | ホンジュラスの風
ホンジュラスの田舎に滞在して2年、日中に傘をさして歩いたという記憶がない。
雨季でも、雨が降るのは決まって夜中。何とも便利な気候だと感心した。人々の気持ちの良さが天候にも反映しているのだろうか。

そんなホンジュラスにも、数日間強い雨が降った。
日中も続けて降る強い強い雨である。明らかに今までとは何かが違う雨だった。

そんな雨が続くある日の朝こと。
朝食の時間になり、自分の部屋がある離れからリビングに行くと、
「昨日は大丈夫だった?」
と聞かれた。

「何が?」
と質問すると、何と、ホームステイしている家の前の通りが雨のため水浸しとなり、家の中に浸水する一歩手前だったのだ。

家は少し高床式になっているため、浸水は間逃れた。しかし、近所の家の人は大変だった。
全員が、市の中心部の方(海抜がもう少し高めの地域)の学校や知人の家へ避難したのである。

そのまま強い雨が続いていたら、我が家も浸水、避難の必要があった。

真夜中、外の様子を見ながら、ホームステイのお母さんはとても心配していた。
逃げ遅れた近所の人があまりの雨量に避難ができず、この家に非難していた。

何も知らずにいつもと同じようにぐっすり寝ていたぼく。
ホームステイの家族はあまりの呑気さにあっけにとられていた。

その後の数日間、雨は強くなったり弱くなったり。
そして一週間後、ついに止んだ。

この雨はハリケーンと呼ばれ、多数の死者、避難者を発生させたということを後日、新聞、ニュースで知ることになる。

雨上がりの久しぶりに晴れた日に市内をぐるりと自転車で巡回した。

町はすごいことになっていた。
小学校には多数の避難民が宿泊している。小さな橋、そして首都への幹線道路の橋は陥没。もう仕事どころではなかった。

近所の学校や市役所に何か手伝えることはないかと自転車で通った。食事作りを手伝ったり、いらない服を寄付したりとやれることをやった。

毎日商店街前を自転車で通る。
日に日に市場周辺の商店、出店が閉じていく。市場の店も閉じていく店が多くなり、数字後に全店舗が閉店した。

幹線道路が機能せず物流がストップ。売る商品がなくなったのだ。
数日後、とうとう町中の店が全て閉まった。

どの店も、売り惜しみや便乗値上げをしたということはない。いつも通り商品を売り、在庫がなくなった時点で閉店していた。
こういうときには暴動、強盗が起こることがよくあるようだが、驚くほど静かで、何もおきなかった。食糧の買い占めもなかった。

大多数の市民は飲料水を購入している。水源地帯が農薬等で汚染されていて販売の再開の目途がたったいないとの噂が流れていた。

このとき、
「このままだと食糧、水不足で餓死するのでは」
という死の危機感を生まれて初めて強く実感した。

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よそ者 ホンジュラスの風

2010年11月08日 | ホンジュラスの風
チョルテカ市内には数十台のタクシーが走っている。
市内ならどこでも4レンピーラで運んでくれる。日本円で約30円。当然日本の物価と比較すると安い。買い物で多くの荷物を運ぶ人がよく利用をしている。

ぼくもたまにタクシーを利用することがあり、運転手の何人かとはもう友達になっていた。

ある休日のこと。道を歩いていると、中年小太りの白人タクシー運転手マルコに呼び止められた。
「一緒に乗って話さないか」

特に急ぎの用もなかったので、助手席に座る。
そのへんの日陰でタクシーを停車して話をするのかと思っていたが、彼は客を拾うために市内を走り始めた。

時折客を見つけては目的地に運ぶ。その間、ぼくと話をする。お客がいても同じように話を続けることもある。

彼はタクシードライバーの仕事について話をしてくれた。

彼の使うタクシーは彼の車ではない。タクシーの持ち主から借りている。車の持ち主に支払う額は12時間で150レンピーラ。彼が利益を得るためには、それ以上の稼ぎがなければならない。ガソリン代もその売上げから払う。
一人の料金が4レンピーラ。40人以上の人を乗せて儲けが出始める。日本のタクシーと違い、座席にスペースがあれば同時に複数名の客を乗せることができる。

首都では、乗り合いタクシーが複数名を乗せて決まったルートを走る。しかし、首都の普通タクシーは原則一人あるいは一組の客しか乗せない。

生活費を稼ぐためには、1日に100人は乗せないとやっていけないだろう。彼が言うには、何とか食べていけているだけの稼ぎはあるそうだ。
ホンジュラスは赤道に近いところに国が位置している。そのため日差しが強い。長時間運転していると腕などが日焼けをして変色してしまうのが悩みの種だそうだ。皮膚がんのことをしきりに気にしている。
ちなみにそのタクシーは日本でも見たことのないくらい古い年式の乗用車。パワステ、パワーウィンドウなどは装備されていない。エアコン、紫外線シャットガラスは言うまでもない。

多くのタクシー客をつかまえることができるのは、大型都市を結ぶバスの停留所である。彼も公園横にあるそのバス停留所にタクシーを停車する。彼同様、所狭しと数台のタクシーが並び、バスの到着を待っている。場所代は特に支払わなくていいようだ。

そして待っていたバスが到着。彼はタクシーから降りて客引きの声をかける。といっても、「タクシー、タクシー」と言うだけであるが。

すぐに一人の年配の女性を連れてきた。目的地は停留所から数百メートル。歩いても数分たらずのところの知り合いの家だ。あっという間に到着する。

開発途上国の人は自然の中に暮らし、よく歩いたり運動したりすると思っている人がいるかもしれない。しかし実態は逆だ。

無差別の開墾、森林伐採により、森林保護区域を除いて地方の自然は壊滅状態である。首都でも特別に緑が多いというわけではなく、山の斜面に住宅が立ち並ぶ。そのため、特に首都はほこりっぽい。

歩くことに関しては、日本人以上に歩かない。数百メートルでも歩くことを嫌い、タクシーを利用する。あるいは自転車。
健康維持のために歩こう、運動しようという概念はない。

それでも基礎体力が日本人よりずば抜けているため、アレルギーやアトピーの人はほとんどいない。
実は、出生時に、丈夫でない子どもは、衛生状態、病院の医療機器、医薬品不足から、生き延びられない。そのため、生命力の強い人たちが生活しているのだ。

「6ペソだよ」
彼がこのタクシー料金を請求したときに、ぼくは驚いた。料金は確か4レンピーラだからだ。
その女性客は6レンピーラを支払い、タクシーを降りた。

「タクシー料金は4レンピーラだろ」
彼に言った。

「彼女はよそ者だからな」
彼は笑いながら応えた。

要するにぼったくったのだ。
といっても彼の表情には悪気はない。取れる客から少しばかり多くのお金を徴収して何が悪いという表情だった。

貧しいホンジュラス。富のある国、人からは遠慮なく受け取れる器が彼らにはある。

日本ではギブアンドギブのコンセプトが繁栄の大原則。しかし、この国でそんなことをすると、またたくまに、禿鷹たちの餌食になってしまう気がする。
とはいうものの、日本在住のラテン人たちは「お返し」をきちんとしていて、結構もののやりとりにも気遣いをしている。

ぼったくるのは外国人に対してばかりかと思っていたが、そうではないことを知って何となく嬉しくなった。

ホンジュラスの有名なマヤ遺跡のコパンルイナス。
ここである一人の米国人が叫んでいた。
「他のホンジュラス人からは、本当はいくらとった」
笑いつつも、しつこく何回も詰問をして、本当の値段を聞こうとしていた。

ホンジュラスのぼったくりはとてもかわいい。
以前に紹介したメキシコなどのような紙幣トリックはしない。というか、できないのかもしれない。何れにせよ、高度な、ずる賢い詐欺はホンジュラスではみられない。

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予期せぬデート ホンジュラスの風

2010年11月01日 | ホンジュラスの風
日曜日の午後5時、飛行場跡地に夕日を見に行くのが大好きだった。
日中の日差しは強いホンジュラス。しかし、この時間になると何とか外に出られるレベルになる。

自宅から約20分、舗装されていない砂利道をゆっくり自転車で移動すると、この空地に到着する。

その日も飛行場に向かって、ぼくはのんびりと自転車のペダルを踏んでいた。

ちょうどマリソルの働いているクラブの横を通過したとき、ぼくの名前を呼ぶ大きな声が聞こえた。
振り返ると、何とマリソルが手を振っている。手にはビリヤードのキューが。
彼女は、ナイトクラブ横のビリヤード場で遊んでいたようだ。

ぼくは自転車をぐるりと旋回させ、彼女のいる場所まで戻った。
高まる胸の鼓動。
昼間に彼女を見るのは初めてだった。

「やあ。ビリヤードやってるの」
「そうよ。一緒にやる」
「ぼくはいいよ。あまり上手くないから。それに、これから夕日を見に行くんだ」
「夕日?」
「ああ。飛行場跡地がこの先にあってね。とっても素敵な景色なんだ」

小さな花柄のある白いノースリーブのワンピースにジーンズ姿の彼女。
大きな目で、ぼくを見つめている。

「私も一緒に行っていいかしら」
「えっ?」

ぼくは二つ返事でOKをする。
すると、彼女はすぐに自転車の前へ飛び乗った。

ホンジュラスの田舎ではスポーツタイプの自転車が普及している。日本では、タイヤの太いマウンテンバイクと呼ばれている自転車だ。

2人乗りをするときには、ハンドルと椅子をつなぐ太いパイプを利用する。
彼女はその部分に横座りになり、両腕は、ハンドルの内側をつかんだ。

再度、ゆっくりと自転車をこぎはじめた。

あの夜と同じ香水の匂い。でも、風がその香りを運んでいくので、あまり強くは感じない。
約50mパンアメリカハイウェイを移動すると、左折して、砂利道に入る。

マリソルは、周りからみると普通の女の子。とてもナイトクラブで仕事をしているようには見えない。
知り合いと鉢合わせして、からかわれるのではないかとドキドキしていたが、好きな女性と一緒にいることへの緊張感は不思議となかった。

「ここだよ」
「まあ、素敵」

前方には赤茶けた1kmほどの滑走路が横たわる。その先には沈んでいく美しい夕日が。
広場では何人かの子どもがサッカーをして遊んでいる。

ラテン人は、のんびりと美しい自然の風景に浸るようなことはあまりしない。パーティー好きで、楽しくお祭り騒ぎをする方を好む。
でも、このときのマリソルは、静かに沈む夕日をぼくと一緒に見ていた。

「きれいな夕日でしょ」
「ええ」
「ここは昔綿花を輸送するのに使われたらしいよ」
「へぇー。詳しいのね」

彼女のことをもっと知りたかった。家族のこと、出身地のこと。
でも、プライベートなことを聞くのも失礼かと思った。
幸せだったならば、こんな熱い地方のナイトクラブに出稼ぎに来ることもなかっただろう。

「少し暗くなってきたから、そろそろ帰ろうか」
「ええ。どうもありがとう」

サッカーをしていた子どもたちは既に帰路についていて、周辺には小さな女の子たちがぬいぐるみで遊んでいる笑い声がこだましていた。

ぼくにもう少し勇気があったら、そして誰も人がいなかったなら、夕日を見ている間、彼女の肩に手をかけていたに違いない。

彼女を、ビリヤード場の前まで送る。

「またビリヤードの続きをやるの」
「今日はもうおしまい。お店の準備をするから。今度はいつ会えるの」
「また今度お店に行くよ」
「本当?」
「ああ」

マリソルはにっこりと笑ってクラブの裏口から中へ入っていった。

彼女との2回目のデートは、そう遠くないことを感じていた。



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