よく間違って引用している人がいますが
版元として申し上げます。
雨が痛いのは藤家さんで
風が痛いのはニキさんです。
逆にしている人とか
どっちも一人の人に帰結している引用などがありますが
二人の感覚の違いにより「自閉症っていっても色々よ」ということをわかってあげてくださいませ。
さて、先日の広島講演で、ニキさんが面白いこと言っていました。
ニキさんにとって痛い風と痛くない風があるわけですが
風に吹き方を命令することはできない。
社会が理解したって、自然が理解しない、って言ってました。
私はこういう苦労を見ていると
一部の専門家が政治的に叫ばれるスローガン
「社会の無理解が障害を作る」って大いなるウソだなあと思うのです。
これもギョーカイのウソの一つですよ。
そういうことを叫ばれる先生方は
当事者を生身の人間というより
自分たちの理想の社会を実現していないことを確認するためのカナリアみたいに見ているんじゃないのかな、とか思います。
たとえば睡眠障害。
苦しそうです。
社会の理解とか、そういう以前に苦しそう。
どう見たって、社会が作り出している障害ではない。
社会に訴えかけることより
医学的な解決方法を見つけ出してほしいです。
先日iTunesでレンタルして
「八日目の蝉」という映画を見ました。
原作も素晴らしかったけれど
映画も素晴らしかったです。
先日某所で聞いた「愛着障害」という言葉を思い出しました。
上記の映画はASDと関係ないですよ。
ただ「愛しているのに通じない」切なさという意味で
ASDの人とその家族のことが思い浮かんだのだと思います。
どれだけ親が愛していても、愛されていることに気づけないASDの人、います。
その結果、いい年して親を恨んでいる成人当事者もいます。
私はこれ、症状のひとつだと思っています。
支援者の先生方の中には、それに同調する方もいます。
あたかも親が愛していなかったかのように、成人当事者に同調したり。
私は「いや、あなたは愛されていたよ」と教える方を好みます。
もちろん本当に愛されていた場合ですけど。
少なくともその親が
雨と風を防いでいてくれたのならね。
障害を理解していないまま育てたのは
時代的に仕方なかったかもしれない。
でも、障害に理解がなくとも、親が雨風を防いでくれたということに気づいてもらう。
これが私のできる支援らしきものです。
版元として申し上げます。
雨が痛いのは藤家さんで
風が痛いのはニキさんです。
逆にしている人とか
どっちも一人の人に帰結している引用などがありますが
二人の感覚の違いにより「自閉症っていっても色々よ」ということをわかってあげてくださいませ。
さて、先日の広島講演で、ニキさんが面白いこと言っていました。
ニキさんにとって痛い風と痛くない風があるわけですが
風に吹き方を命令することはできない。
社会が理解したって、自然が理解しない、って言ってました。
私はこういう苦労を見ていると
一部の専門家が政治的に叫ばれるスローガン
「社会の無理解が障害を作る」って大いなるウソだなあと思うのです。
これもギョーカイのウソの一つですよ。
そういうことを叫ばれる先生方は
当事者を生身の人間というより
自分たちの理想の社会を実現していないことを確認するためのカナリアみたいに見ているんじゃないのかな、とか思います。
たとえば睡眠障害。
苦しそうです。
社会の理解とか、そういう以前に苦しそう。
どう見たって、社会が作り出している障害ではない。
社会に訴えかけることより
医学的な解決方法を見つけ出してほしいです。
先日iTunesでレンタルして
「八日目の蝉」という映画を見ました。
原作も素晴らしかったけれど
映画も素晴らしかったです。
先日某所で聞いた「愛着障害」という言葉を思い出しました。
上記の映画はASDと関係ないですよ。
ただ「愛しているのに通じない」切なさという意味で
ASDの人とその家族のことが思い浮かんだのだと思います。
どれだけ親が愛していても、愛されていることに気づけないASDの人、います。
その結果、いい年して親を恨んでいる成人当事者もいます。
私はこれ、症状のひとつだと思っています。
支援者の先生方の中には、それに同調する方もいます。
あたかも親が愛していなかったかのように、成人当事者に同調したり。
私は「いや、あなたは愛されていたよ」と教える方を好みます。
もちろん本当に愛されていた場合ですけど。
少なくともその親が
雨と風を防いでいてくれたのならね。
障害を理解していないまま育てたのは
時代的に仕方なかったかもしれない。
でも、障害に理解がなくとも、親が雨風を防いでくれたということに気づいてもらう。
これが私のできる支援らしきものです。